第9話「この紋章はなんなんじゃ。調査に行ってみようかの」

「いやはや、すっかり日も暮れてきたのう」

ネイマンは夕闇の迫る大通りを歩きながら、ふと立ち止まってあたりを見回した。



このゲルムントという街に来てから、もうどれくらい日が経つじゃろうか。悪魔族の影や“黒いローブ”の噂が絶えず、ここ最近はずっと騒々しい。

それでも、わしは“ネイマン酒”を売る行商人として、なんとか生計を立てておる。宿屋の試飲会をはじめ、街の広場でも「一瓶銀貨3枚」という値段が少しずつ浸透してきた。うまい酒にはそれだけの価値がある、と言ってくれる客が増えたのはありがたい限りじゃ。


「さて、ヤナック隊長に呼ばれておるんじゃ。早めに兵舎へ顔を出すとするか」


以前は門番から警戒されがちじゃったが、先日の立て続けのトラブルを解決したことで、今じゃ衛兵たちもわしに随分と敬意を払ってくれておる。

自分で言うのも何じゃが、ここまで持ち上げられると、ちとくすぐったいのう。



兵舎は街の中央に近い石造りの建物で、夜の警備体制が始まるころ合いにわしが訪れると、門の外で衛兵たちが交代中だった。

わしが姿を現すやいなや、彼らは一様にピシッと直立姿勢をとり、口々に敬語で話しかけてくる。


「ネイマン様、お待ちしておりました」

「こちらへどうぞ。本日はヤナック隊長が奥の詰所でお待ちになっておりますので、ご案内いたします」


以前とは違ってやけにかしこまった態度じゃのう。わしは思わず頬をかきながら、小さく笑う。


「おお、すまんのう。『様』なんて呼ばんでもええんじゃが……みんな気を遣いすぎじゃないか?」

「いえ、とんでもございません。ネイマン様のおかげで街の平和が保たれていますから……」


そんなふうに言われると、さすがに照れるわい。

ともあれ、衛兵の案内で兵舎の通路を進む。すると、奥まった部屋からヤナック隊長の声が聞こえてきた。


「……それでは引き続き厳重に見張れ。少しでも妙な言動があったら即報告しろ」

「はっ!」


立ち話の相手は恐らく別の部下かの。わしを先導する衛兵が「失礼します」と扉を軽くノックすると、ヤナック隊長がこちらに気づいて顔を上げた。


「おお、ネイマン様、よくいらっしゃいました。ご足労、感謝いたします」


ヤナック隊長までもが敬語で出迎える姿は、ちょっと想像しておらんかった。以前までは警戒心の強い雰囲気じゃったのに……ここまで態度が変わるとはのう。

もっとも、街を襲った魔物を退け、バイスを守りながら“研究者”を捕まえたのだから、警戒どころか信頼のほうが強くなるのは当然かもしれんが。


「いえいえ、わしも気になることが多いからのう。お主から話を聞けるのを楽しみにしとった」

「ありがとうございます。……実は、先日捕らえた“ローブの研究者”のことで、いくつか問題が起きまして」


ヤナック隊長は深刻そうな面持ちで、隣の部下に軽く目配せをする。部下は「失礼します」と言って部屋を出て行った。どうやら二人きりで話したいようじゃ。

わしも部屋の椅子に腰をおろし、隊長の言葉を待つ。




ヤナック隊長はひと呼吸おいてから、低い声で切り出した。


「実は、あの研究者を牢に入れたあと、彼の所持品を精査しました。あの“紋章”の描かれた札のほかにも、古い書物や怪しげな魔道具が見つかりましてね」

「ふむ……やはりか。わしもあの男のローブに変な模様を見たが、それらの道具にも同じものがあるのかの?」

「はい。さらに厄介なのは、その紋章が昨夜……不気味な光を放ったという報告がありまして」


わしは目を見開く。紋章が“勝手に光る”となると、ただの呪符や飾りじゃない。何らかの魔力と繋がっている可能性が高いじゃろう。

もしかして、“黒いローブ”の連中が遠隔で交信しているか、あるいは封印された力が呼応しているのか……考えれば考えるほど不穏じゃのう。


「それで、原因は判明したのか?」

「正直なところ、不明です。研究者自身も半狂乱の状態で、『自分にも分からない。黒いローブの奴らが寄越したものだ』としか言わないんです。まるで彼が意図していないのに、紋章だけが勝手に動いたような口ぶりでした」


ヤナック隊長は苦虫を噛み潰したような表情で続ける。


「このまま放置すれば、また怪物を呼び寄せたり、新たな被害をもたらすかもしれない。ネイマン様、何か思い当たることはございませんか?」

「うーむ……わしは紋章の専門家じゃないが、もし“黒いローブ”がらみなら、儀式魔法の一端かもしれんのう。相手に術者がいれば、遠隔で魔力を送ることも不可能じゃない」


わしがそう推測すると、ヤナック隊長は神妙に頷いた。ここにいる衛兵たちは皆、隊長と同じくわしへ敬意を払って、黙って聞き入っている。

少々落ち着かんが、わしも全力で考えてやらねばなるまい。


「紋章が光ったのは牢の中で……ということは、周囲に被害はなかったんじゃな?」

「はい、幸い。ですが看守の話では、研究者がいきなり苦しみ始め、ローブの袖から血が滲んだとのこと。それでよく見ると、腕に同じ紋章を刻むような傷跡があって……」

「なんと……! 自分でも気づかんうちに刻まれていたのか。あるいは“黒いローブ”の連中に何らかの呪いを仕込まれたか……」


もし腕に紋章が刻まれているならば、その研究者は“駒”として動かされている可能性がある。余計に厄介じゃのう。

わしは腕組みしながら、頭をめぐらせる。解決策を思いつくのはそう簡単じゃないが、何か手がかりがあれば……。


「隊長、ところでその研究者の腕の紋章は、まだ残っとるのか? もし消えてしまったなら厄介じゃが」

「まだあるようです。かすかに赤黒く腫れ上がっていて、触れようとすると痛みが走ると叫んでいるそうで……治癒魔法も全く効かないとか」

「治癒魔法が効かない……ますます呪術的な性質を疑いたくなるのう」


わしは深く息をつき、静かに言葉を続ける。


「わしには“呪い解除”の専門知識はないが、多少の封印魔法なら試せるかもしれん。あるいは、紋章を“黙らせる”くらいはできるじゃろう」

「本当ですか? いや、ぜひお願いしたい……! もちろん、これ以上ご負担をおかけするのは忍びないのですが、何とか力を貸していただければ……」


ヤナック隊長は頭を下げる勢いで頼み込んでくる。部屋の隅に控える衛兵たちも同じく必死な表情だ。

わしは照れくささを隠すように小さく咳をして、「まぁ、わしにできることなら協力は惜しまんよ」と答えた。今さら断っても、この状況ではどうにもならんからのう。




「では早速、牢へご案内します」


ヤナック隊長の案内で、わしは兵舎の地下にある牢獄へ向かった。そこは暗くて湿気が多く、石壁に取り付けた松明だけが照らしている。

牢の奥からかすかに呻き声が聞こえ、近づくにつれて不気味な空気が肌を刺すように感じられた。


「う、うう……痛い、熱い……! こんなはずじゃ、こんなはずじゃ……!」


金属柵の向こうでうずくまっているのは、例の“研究者”だ。ローブは剥ぎ取られ、薄汚れた服の袖からは腫れあがった腕が覗いている。その腕には先ほど聞いたとおり、紋章が血のように浮かび上がっていた。


「……これは、見事に呪術が染みついてるのう」


声に出すと、男はビクリと反応し、充血した目でわしを見る。


「お、貴様……ふざけるな、また来たのか……! これは俺の意思じゃない……勝手に……あいつらが……!」

「分かっとるよ。お主が自分で好んでこんなことになってるわけじゃなさそうじゃ。もっとも、“怪物化の薬”を作ったのはお主自身じゃがの」


わしは柵の外からじっと男を見据える。男は額に汗を滲ませながら、牙をむくように悔しげな表情を浮かべた。


「うるさい……俺はただ研究がしたかっただけだ。あの連中が、これほど恐ろしい呪術を使ってるとは……」

「ま、後悔しても遅いわい。……腕を見せてみい」


わしがそう告げると、ヤナック隊長が合図し、牢番が鍵を開けて柵を引いた。衛兵たちは槍を構えて警戒しておるが、男はもう立ち上がる気力もなさそうじゃ。

そろりとわしが近づき、男の腕をまじまじと観察する。


「これは……反応してるな。外部から魔力が送られてきとる形跡じゃ。しかも一方的に“操縦”されるような構造になっている。どうりで痛みや熱を伴うわけじゃ」

「そ、そんなバカな……あいつら、そんなことまで……」


男は唇を噛む。もう暴れる余裕などないようで、ほぼ泣き声だ。

わしは杖を取り出し、低く構えつつ呪文を唱える。封印魔法の一種で、あくまで“紋章が与える呪縛を一時的に抑え込む”だけのやり方じゃが、やらんよりはマシじゃろう。


「……いいか、痛むかもしれんが少しだけ耐えてくれ」

「ひ、ひぃ……やめろ……!」


男は怖がるそぶりを見せるが、わしは一瞬もためらわずに魔力を流し込む。杖先が淡く光を帯び、男の腕の紋章に吸い寄せられるように波紋が広がった。

すると血のように濁っていた紋章がわずかに明滅を繰り返し、やがて沈静化するかのように暗い色へ変化する。


「ぐ、ぐああああぁ……!!」


男は絶叫し、柵の床に転げ回る。ヤナック隊長が慌てて駆け寄ろうとするが、わしは手で制した。


「大丈夫じゃ。これは“外部”から流れ込む魔力と、わしの封印魔法がぶつかっているだけ。……お主らは下がっておれ」

「は、はい……わかりました、ネイマン様」


わしはさらに集中を高め、数秒から数十秒、どれほど経ったのか分からんくらいの時間をかけて魔力を抑え込む。やがて、男の叫び声がやみ、腕の紋章は完全に黒ずんで静止したかのように見えた。


「ふう……こんなもんかのう。あくまで“一時的”じゃぞ。根本的な呪いを解除したわけではない。もし“黒いローブ”が本気で力を送ってきたら、また反応する可能性はある」


わしが息を整えると、男はまだ苦しげに息をしているが、先ほどほどの痛みに苛まれる様子はない。ヤナック隊長が近づき、慎重に男の腕を確認する。


「……紋章が薄くなっている。あんなに腫れ上がっていたのに……ネイマン様、本当にありがとうございます」

「ほら、研究者よ。もし正気に戻れるなら、今のうちに知っておることを全部喋っておけ。じゃないと、また同じ地獄を味わうかもしれんぞ」


男は苦悶の表情を浮かべながら、か細い声で答える。


「くっ……わ、分かった。もう助かりたい一心だ。俺は“黒いローブ”の拠点は知らないが、連絡用の小屋を教えよう……あ、郊外の沼地に建つボロ小屋で、そいつらが時々集まってたんだ……」

「ほう……。隊長、これが手がかりじゃな」


ヤナック隊長は即座に衛兵に命じて記録を取らせる。男はまだ声が震えているが、今なら黙らせるよりも自分の命を優先するじゃろう。これで少しは前進というわけだ。

わしは深呼吸しながら杖を引き、まわりの衛兵に小さく笑みを向ける。


「これで当面は大丈夫じゃろ。だが、この紋章を一から断つには、やっぱり術者を叩くしかない。沼地の小屋……行ってみる価値はあるかのう」

「お力添え、本当に感謝します、ネイマン様。……街の平和のためとはいえ、あまり負担をかけては申し訳ないのですが、今後もご指導を仰ぎたいのです」


ヤナック隊長は深々と頭を下げる。それに続いて、周りの衛兵もいっせいにネイマンに敬礼を向けてきた。


「皆がやりやすいように手伝うだけじゃよ。わしも“黒いローブ”が好き勝手してるのは気に入らんしの。なんたって、商売の邪魔になるからのう」


部下たちが口々に「ありがとうございます!」と声をそろえる。その姿に、わしもこそばゆい気持ちを抱きながら、それでも気を引き締める。

紋章が動き出した以上、悪魔族やら何やらが本格的に入り込んでる可能性が高い。バイスを守り、宿や街の人々を守るためにも、ここからが正念場じゃろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る