第6話
「え?嫌?」
「ああ、嫌だと言った。聞き間違いではないぞ」
聞き間違いであることを祈ったが、その希望は打ち砕かれ、予想外の返答に驚き、一瞬意味が理解できなかった。が、脳内で反芻しようやく拒否されたことを理解した。朱里は表情こそ変わらないが、色素の薄い瞳に怒りの炎が灯っているのが分かる。あ、怒っていると気づくと背中に冷たいものが走る。今のどこに怒る様子があったのか分からず、頭に?マークが浮かぶ。もう自分に構わないほうがいいというのは双方にとっても良い話だと思っていたのだが、そうではないのか。
恐る恐る悠希は口を開く。
「い、嫌って何で…」
より一層目を細めた朱里は固い声で答える。
「何でって、もう悠希の世話を焼くという行為自体が私の日常の一部になってるんだ、今更辞めたらもう体に影響が出る、蕁麻疹が出る」
「蕁麻疹ってそんな大げさな」
笑いながら朱里の様子を窺うが、冗談を言っている様子はなく表情は真剣そのものだった。というか、あんまり冗談を言うタイプでもない。日常の一部云々という話は冗談ではなく本気で言っている可能性が高い。声に出さず口パクだけで「マジか」と呟く。すんなり承諾してくれると高を括っていただけに、どうしたものかと頭を抱える。悠希が俯き始めると、思いのほか悩んでいると感じたのか労わるように声をかける。
「…まあ理由にもよる、恋人出来たとかならしょうがない。相手からしたら幼馴染とはいえ異性が近くにいるのはいい気がしないだろうし。…なんだ恋人出来たのか」
心なしか嬉しそうに告げる朱里を見て心が痛む。が、それがあり得ないことは朱里が一番分かっているはずなのに、と内心イラっとした。
「え、出来てない。出来るわけがないじゃん碌に会話もできないのに無理無理」
ガチトーンで息継ぎもせず一気にまくし立てる。その圧に朱里も少し押され気味である。その表情から「悪いことを言ってしまった」と悔いていることが伝わる。何だかこっちが悪いことをした気になってくる。しかし、幼稚園の時のトラウマも未だに女子との会話がままならないことも知っているはずだ。悠希は母親譲りの女顔で華奢なこともあり、
今度は朱里が不機嫌になった悠希を宥め始める。
「悪い悪い、そんなにショックを受けるとは思わなくてな…昔よりは喋れているだろ?」
「事務的な会話だけだよ、プライベートな話はぎこちなくなる」
「…ク、クラスの女子が弟にしたいって言ってたぞ…!」
「同じこと言ってた先輩に10分話しただけで『こんな愛想のない弟は嫌だ』って吐き捨てられたぞ」
「っ…結構モテているって聞いたけど」
「編入した人に話しかけられることは多いけど、全員後で『顔は良くても感じ悪すぎるのは駄目だわ』って陰で言ってるのを聞く」
「…」
何を言っても碌な答えが返ってこないことに気づき、遂に黙った。そして問題の解決が有耶無耶になっていることに二人とも気づいていない様子だった。
すっかり立場が逆転した二人は問答を続けている。
「…え、何か問題ある?女子と話せないことで今のところ困っていないし恋人も欲しくないし。そもそもハッキリした物言いの女子とは必要最低限コミュニケーション取れてる」
細やかすぎる虚勢を張っているが目が泳いでいる。見切り発車で喋り始めたため引っ込みがつかなくなっているようだ。段々居た堪れなくなる朱里は自分が引くことでこの場を治めようと試みる。
「問題なんてないぞ、さっきのは半分冗談で言ったんだ。けど、悠希が気にしているのを知らなかったとはいえ言うべきではなかった、ごめん。もう関わるなって言うから恋人ができたと思って」
「…っ!!」
そこで悠希は思い出した、そもそもの発端を。自分にもう構わなくていいと言い出したことから始まっていることを。すると先ほどとは別の意味で落ち着きが無くなり、朱里に怪訝な顔をされる。
「…恋人じゃない。理由はさっき言った通りだよ、受験なんだし自分に時間を使って欲しい」
「何だ、私が気を遣ったり無理をしていると思っているのか。この10年間私が成績を大幅に落としたり体調を崩したことがあったか?ないだろ、無理もしていないし私がやりたくてやっていることだ、気にするな」
確かに、朱里は結構偏差値が高いこの学校においてトップクラスの成績を保ち続けているし、悠希に付き合ったことで私生活が疎かになったことも熱を出したことすらもないはずだ。今更ながら、目の前の少女は全てにおいて非の打ち所がない完璧超人である。もう、最初の理由は使えないし納得させることも難しいことが判明している。一瞬目を伏せ考えを巡らせる。そもそも、意地を通した薫に応えるつもりで言い出したのだ、やっぱりなし、という選択肢は存在しない。今、どう伝えれば納得させることが出来るのか。
時間にして数十秒黙りこくった悠希を心配した朱里が顔を覗き込もうとしたとき
「じゃあ本当のこと言うよ、朱里がどう思っているのか知らないけど恋人でもないただの幼馴染同士は相手が入院するたびに見舞いに行ったり家に行ったり、世話を焼いたりしないんだよ。距離がおかしいんだよ、不健全なんだよ。だから離れたかったんだよ、健全な距離に戻れるうちに」
今まで感じていた胸のうちを吐露した。胸のつっかえが取れたようなある意味スッキリした気分だ。だが、言ってしまったからにはもう元の関係のままではいられない。まさか朱里が進路を悠希の事を心配して決めているとは思わない。自意識過剰にもほどがあるが万が一ということもある。悠希の本心を知ったことで一時の気の迷いを正してくれることを祈り、両目を見据える。
永遠にも感じる一瞬が過ぎ去り、朱里の形の良い唇が開かれる。
「不健全ね…分かった、じゃあ健全になればいいんだな」
「は?」
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