第3話

「ここで寝ていいわよ」


「……ツキノさんは?」


「ソファで寝るわ」


「俺、ソファでいい」


「ガキが遠慮するな」


「じゃあ、一緒に寝ればいいじゃん」


「…………」


「……何?」


「何でもない、髪乾かしてくるから先に寝てて」



お風呂に一緒に入ったのだがら一緒に寝るのも変わらないだろうと放った言葉。

しかし一瞬動きを止めたツキノに、間違ってしまったかもという後悔は眠気と共にどうでもよくなってしまった。


枕に顔を埋めれば石鹸と太陽の匂い。

ゆっくり沈む意識の中……冷たい水から救い出してくれたのは見ず知らずの女性だった。

目を閉じれば一筋、二筋と溢れ出す涙。

願わくばこの時間が少しでも長く続いて欲しい……そう思わずにはいられなかった。


暗闇の中、空虚な感情は広がりながら脳を侵食していった。

そして突然、底なし沼にズブズブと埋もれていくような恐怖に胸を圧迫されそうになる。

何か重たくて怖いものに押し潰されてしまうと思うと、息が出来なくなった。


選んだのは自分……けれど、無力だったんだ。


一見、平等にも見える選択肢は、あまりにも複雑に入り組んでいた。

そして誤った答えを選んでしまった。

その選択を間違わなければ生き残ったのかと問われれば首を振るしかなくなる。


誰にも分からない未来のことなんて想像したくもなかった。

『だから自分を責める必要は無い』

その言葉を鵜呑みに出来るほど大人にはなれそうになかった。


現実は理不尽だし納得できない。けれどいつだって事実は正しい。


ここで歯を食いしばったとしても何も変わることはないのだけれど、せめてこの気持ちだけは色褪せることをさせずに心に留めておこうと強く思った。

暗闇、自然と暗闇に馴染む目、はじめは何も見えるはずのない部屋の中で、ぼんやりと浮かぶのは見覚えのある……。



「…………姉、さん?」


「魘されてた。大丈夫……?」



薄っすらと開ける視界に映る顔に妙な安心感が込み上げてくる。

瞳から伝う涙と嗚咽を噛み殺しながら目の前の熱に縋りたくなるのを我慢していた。

手のひらで目元を覆った。頭に優しい手のひらが滑る。



「ん……」


「ほら、眠りな」



無意識に小さな体を抱き込んだ。

この温かさを離したくなかった。

じんわりと広がる体温に再び目を閉じた。






「おはよう、起きて」


「……はよう、ございます」



カーテンを開けたのは化粧をしてスーツを着たツキノだった。



「私は会社に行くけど、あなたはどうするの?」


「…………」


「学校は?」


「……行く」


「そう」



渡されたのは乾いた制服。

着替え終わるとツキノはドライヤーで生乾きのスニーカーに風を当てていた。

彼女の横に座り込む。



「乾いたかしら」


「ありがとう、ございます」


「昨日と違って素直じゃん?」


「……うっざ」


「ははっ……! ほら行くよ」



ガチャリと共に扉が開く。

しっとりと濡れたスニーカーに違和感を感じらながらも一歩踏み出した。

太陽は今日も登る。毎日毎日、同じように朝は来る。

階段を降りて外を出る。駅まで一緒に歩いていく。



「私はこっちだけど、ヨゾラは?」


「俺はこっち……」


「そう、じゃあここでお別れね」


「…………」


「もう馬鹿なことはするなよ? ヨゾラ少年」


「…………」


「ねぇ……ツキノさん」



初めて彼女の名前を呼んだ。

乾いた舌で何を言いたかったか分からない。

色々な感情が押し寄せてくる。

引き止めたのは何もない夜に与えられた優しさと温かさを手放したくないと思ってしまったからだ。



「何?」


「あ……りがとう」


「いいよ……バイバイ」



それでも、こうして一歩踏み出すことが出来ない自分が、やっぱり嫌いだ。


(何も、聞かなかった……)


人混みに消えていく背中を馬鹿みたいに眺めていた。

電車の音に何もかもが掻き消されていく。


知っているのは名前と煙草の銘柄……家の場所はもうわからないだろう。

わかっていたとしても踏み出す勇気はなかった。



歩き出して、そのまま日常に溶け込んでいく。


教室に入るといつもと同じ景色が広がっていた。

只いつもと違うのはピンと伸びたシャツとネクタイ。

少しだけ湿った靴下とほんのりと香る煙草の匂いだった。



「ヨル、朝帰りか……?」


「…………ん」


「マジか……! あぁ、ずりぃよな。ヨルばっかりモテるんだから」


「……うるせぇ、セキ」


「ヨル、カラオケ行く?」


「行かない……」


「なんだよ! また病院か?」


「…………」



セキの言葉にギャハハという笑い声が響いた。

椅子を引いて席に着く。

いつもと同じ景色、いつもと同じ顔、いつもと同じ空気、それにいつもと同じ自分。

気持ち悪いくらいに何もかもが同じだった。

けれど心臓は脈打っていた。

あの温もりが、匂いが、温かさが忘れられないからだ。


(何もかも嫌になる……気持ち悪い)


これが思春期特有のものだとして、本当に大人になれば消えるのだろうか。

今だけだというけれど、このどうしようもない苦しみは曇った空のように晴れないのだ。


どうしようもない息苦しさと生き辛さがあった。

これが大人への階段だというのならば、何故こんな思いをしてまで生きなければならないという漠然な思いから、体は自然と水の中へと赴いた。

どうみたって浅くて溺れようのない川の中で、彼女だけは何の躊躇いもなく手を差し伸べてくれた。

意味が分からないくらいの優しさと共に……。


(ツキノさん……)


彼女とは会う事もないだろう。

それが悲しいのと同時に安心した。

再び彼女に会ってしまえばがきっと手放せない。


そうわかっていたからだ。


きっかりいつもと同じ時間に教師が部屋に入ってくる。

それをなんの感情もなく眺めていた。

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