第2話
「まったく……もう!」
「…………」
「ほら、行くよ」
「はっ!? ちょ……離せよっ!」
足がもつれそうになりながらも、立ち上がった。
よれた服を治す暇もなく、女性に手を引かれて早足で歩いていく。
小柄のくせに結構力があるようだ。握られた手のひらに爪が食い込んだ。
こんな格好で歩く姿など誰かに見られたら……と思ったが深夜の路地裏は人気がなく、幸い人とすれ違うことは無かった。
何も会話を交わすことはなかった。
ただ綺麗な指先から伝わる体温に酷く安心感が込み上げてきて涙が溢れていく。
あっという間に到着した女性が住んでいるというマンション。
外観もさることながら部屋に通されて更に目を丸くした。
まるでモデルハウスのように綺麗な部屋や磨かれた家具の数々に、この女性の性格を垣間見た。
部屋の奥に戻ってきた女性から無言でバスタオルを渡される。
見えないメッセージを受け取って、水滴が垂れている髪や服から水分を丁寧に拭き取った。
それから直ぐに案内されたバスルームは思った通り綺麗で広くて落ち着かない。
「早く入りなさいよ。風邪引くから」
水の中に飛び込んだ体は夜風に当たって思った以上に冷えていた。
重たい服を脱いでから浴室に入る。
「シャワーで体をしっかり流しなさいよ」
「……はい」
言われるがままシャワーで体を流してから体を温めるために湯船に浸かる。
そういえば全身濡れているのは、あの女性も同じだったはず……そう思っていた時だった。
──バタン
「……はぁ? 何で入ってくんだよ!」
「別にいいでしょう? 私の家の風呂よ。気になるなら目を背けてなさい」
「本当……信じられねぇ」
「現実は信じられないことばかりよ」
「…………」
「今、体調を崩すわけにはいかないの。仕事が詰まってるの……それに寒かったんだから仕方ないじゃない」
時間差で風呂に入ってきた女性は何事もなかったように目の前でシャワーを浴びながら体を洗い始める。
思いきり顔を背けるのと同時に体を捩る。
微塵も男として意識されていないことに呆然としていた。
無防備なのか余程自分の腕に自信があるのか……そんな情報も三十分程前に会ったばかりの自分にはわからない。
先程とは違ってシャワーが流れる音が聞こえた。
それと同時に感じる違和感に口を開いた。
「……ねぇ、お姉さん」
「なによ、いきなり……」
「別に……おばさんって言うのが可哀想になっただけだ」
「ふーん、別にいいけど」
ボディーソープの甘い香りが鼻を掠めた。
その後も平然と体を洗って、徐に扉が開く音が聞こえた。
けれどまだ浴室の中にいるようだ。
パンパンと髪の水気を拭き取っている。
「ほら、交代」
「……!」
「蓋が青いのがシャンプーで、赤い蓋が……」
「わかったから……!」
どうやら体を洗えということなのだろう。
湯船から出て女性に背を向けるようにして体を洗う。
気を逸らすようにして口を開いた。
「なんで煙草吸ってんの?」
「んー……?」
「うまい?」
「さぁね」
「ふーん、お姉さんって……」
「私はツキノ、ツキノ様で言いわよ? クソガキ」
名を聞けば自然と動く唇。
「……ヨゾラ」
「夜空?」
「………俺の、名前」
自分だけクソガキと呼ばれるのも癪だったから名を明かした。
いつも名を言えば、皆同じ反応を返す。
この人は、どんな言葉を返すのか……気になったから初めて素直に名前を明かした。
沈黙に耐え兼ねてぶつかる視線。先に目を逸らしたのは自分の方だ。
何ともいえない空気に、どうすればいいかわからなくなって押し黙っていた。
「ヨゾラ、ね」
「……」
「恥ずかしがっちゃって……可愛いねぇ」
「…………!」
ふっ、とツキノの柔らかい笑みに心臓が跳ねた。
居た堪れなくなり急いで体を流す。
用意されていたバスタオルで乱暴に髪を拭いて顔を覆う。
今、自分の顔はきっと赤く火照っているだろう。
のぼせたわきにじゃない……ただ不意打ちをくらったのだけのこと。
優しい笑顔は湯気でよく見えなかったけど、酷く心を掻き乱していた。
目の前の台に置かれていたのは丁寧に畳まれている着替えの洋服と新品の下着。
何処まで面倒見がいいのだろうか。
見ず知らずの人間を此処まで世話するツキノという女性が不思議でならない。
優しさは今の自分によく染みる。
服を着替え終わった頃、風呂場のドアが開いた。
バスタオルを渡せば「ありがと」そんな声が聞こえて、またドアは閉まった。
そしてすぐ開く扉に再び顔を逸らす。
「髪乾かしてあげるから、そこで待ってて」
「……このままでいい」
「ダメ~」
ピシャリと否定されてしまい「そこにいなさい! 絶対に動くな」と言われれば好き勝手動くことも出来ずに仕方なくその場でツキノが来るのをを待っていた。
自らの支度を終えたツキノは、椅子に座らせてから背後に回る。
濡れた髪を乾かすドライヤーの温風が柔らかく感じた。
髪を梳く優しい指に身を任せて目を閉じる。
心地いい感触にだんだんと襲ってくる眠気。
「眠い?」
ドライヤーの音に掻き消されていく声は辛うじて耳に届いた。
大きな声を出すのも面倒で、ただ首を振り頷いた。
暫くすると温風は止み、ツキノに促されるままに足を進めれば、そこには丁寧に整えられたベッドがあった。
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