夏にさよなら

久火天十真

夏にさよなら

 放射状に太陽が降り落ちて、首筋に汗が流れている。

 それを腕で拭って、蝉の声に包まれながら花束を持ち歩いている。紫の季節外れの花が風で揺れている。

 じりじりという言葉が似合う夏。

 君に会った夏も、確かこんな夏だった。



 隣を歩く彼の横顔が、真っ直ぐ前を見据えている。

 それが私には少し悲しかった。

 町並みは変わらない。君と歩いた街を、今日も私たちは歩いている。

 歩いていると、パン屋が目に入る。よく私と彼で行っていたパン屋だ。

 彼は少し足を止める。

「懐かしいな」

 無口な彼がぼそりと呟く。

 彼が憶えていたことが私は嬉しくて、なんともやるせない気持ちになった。

「パンも、買っていこうか」

「……うん」

 それでもやっぱり嬉しくて、私はそう返してしまう。

 彼の歩く速度に合わせて、私は後を着いていく。

 パン屋の前に着く。店の中は少し人がいて、レジには昔より少し老けてはいるけれども、同じ店員さんがいた。その人とは昔通っていた頃、少し仲が良かった。

 彼が扉を開く。上部に付けられた鈴が盛大に鳴る。

 私はその音に懐かしさを感じる。彼も同じだったようで、店の中に入りながら、少し鈴を見ていた。

「いらっしゃいませ!」

 鈴の音が鳴りやめば、店員の声が響く。昔と変わらない、居酒屋みたいな大きな声だった。

「ってあら、もしかして」

「ご無沙汰してます」

 彼が頭を軽く下げながら言う。

「お久しぶりです」

 私も頭を下げておく。

「いやぁ。懐かしいわね。もう何年振り?」

「そうです、ね。もう五年になりますかね……」

 視線が少し落ちる。

「そうね、もう五年になるのね。……色々大変だったでしょ」

「いえ、そんな、ことは」

「いつまでも元気ないんですよ、彼ったら。元気出せって言ってあげてください、ほんとに」

 私は彼に手を添えて、笑いながら言う。

「まぁ、なに。人生いろいろあるもんさね。元気だしよ」

「はい。ありがとうございます」

「よーし。今日もうちのパンは絶好調だからね。好きなの買ってっておくれよ」

「ありがとうございます!」

「すみません、ありがとうございます」

 店員さんは、にっと笑ってた。

 私たちは店内を見て回る。

 パン屋の匂いはいい匂いだ。私の好きな匂いだ。

 見て回っていると、パン屋の品数が、昔より増えていることに気が付く。

 彼は見て、トレーに迷わずいくつかのパンを載せていく。一つ、二つ、三つ、四つと――。

「これ、私が好きなパン……。憶えてたんだね」

「でも買いすぎじゃない?そんなに、食べれないよ……」

 彼の横顔が見える。口元は少し笑っていて、パンを見るその目はとても優しく、どこか遠くを見ていたようにも見える。

 結局彼は私の好きなパンだけを買っていた。店員さんはそんな様子をにこやかに見ていて、私たちが店の外に出て、見えなくなるまで手を振っていた。

 私は彼に着いていく。

 彼の行く場所には心当たりがあった。いや、だからこそ私は今ここにいるのだから、彼が行く場所は分かって当然だった。

 できることなら、彼にはもう会うことが無ければいいと思っていたし、できることなら私のことを忘れていてほしいと思った。

 でも彼はいつまでも私のことを忘れてはくれなかった。

 いつまでも死んだ私を引きずってほしかったわけじゃなかった。



 陽射しが照る。荷物は少し多くなって、肩にかかる重さが、思いの重さだと思えた。そう考えれば、まだ軽いものだと思ってしまう。

 パンの良い匂いがする。

 ――が好きなパン。こんなに買う必要なんてなかったのに、でも今日ぐらいは良いだろうと思う。

 僕から影が伸びていく。

 目的地にたどり着いた。周りを木々が囲む。微かな、線香の匂いがする。

 目的地の霊園に着いた。

 数ある墓から、目的の墓を見つける。

「今年も、来たよ」

 僕は桶に水を汲んで、墓にかける。

「涼しいかい?今日は暑いからね」

 いつも、ここに来ると饒舌になる。

「今年はパンも買って来たんだ。……ほら好きだったろ、このパン。昔二人で行った店に、さっき行ってきたんだ。……この暑さだと腐っちゃうかな」

 僕は笑う。乾いた笑い声だ。

「あら、――君?」

 横から声を掛けられる。見てみるとそこには彼女の姉がいた。手には花が握られていた。

「あ、ご無沙汰してます」

「今年も来てくれたのね」

「はい。やっぱり今年も」

「ありがとうね。あの子もきっと喜んでるわ」

 少し涙ぐみながら、ハンカチを目に当てている。

 だけれども、僕はそうではないと思った。

「いえ、きっと彼女はこんな僕を許してはくれないと思います」

 五年。五年経った。それでも僕は未だ一歩たりとも歩き出せていない。

 そんな僕を見て、彼女は笑って、それでも内心は悲しんでるだろうと思う。そんな彼女を、僕は簡単に思い浮かべることができる。

 なぁ。どうしたらいいんだろうね、僕は。

 なぁ。僕はいつからこんなに弱くなったんだろうか。

「ねぇ、僕は、一体どうしたらいいんだろうね」

 君には届かない言葉を吐き出す。



 私はずっと彼を見ていた。

 来る日も来る日も、私と一緒に暮らしていたままの、あの部屋で暮らし続けている彼を、私はずっと見ていた。

 私の声が彼に届くことは決してないけれど、それでも私は声を張り続けていた。

 それでも、彼は変わらなかった。

 私と映った写真を眺めて、私と買った家具を使い続けて、私と暮らした部屋で眠って、私の居ないここに来ている。

 狂いそうだ。

 目に見えない私を想って彼が生き続ける限り、私はそれを見続けなければならないのだから。彼も、私もいつまでも救われない。

 だって、私はいつだって、彼に幸せになって欲しいだけだった。彼の幸せが私の幸せでもあった。そんなありきたりな愛の形がただただ心地よくて、それだけでよかったんだから。

 私を想って生きるあなたの顔、あなたは気づいてる?あなたの顔はどこまでも辛そうなことに。あなたの顔は私を想って、苦しんでいる。

 ただ、ただ、それだけが苦しい。

 あぁ。空が高い。手が届かない。

「ねぇ、私は、一体どうしたらいいんだろうね」

 彼には届かない言葉を吐き出す。



「あなたは、もう、あの子から解放されてもいいと思うのよ」

 彼女の姉はそんなことを言う。

「あなたの言う通り、きっとあの子はあなたのそんな顔を、そんな生き方を望んでないわ」

 私は少し寂しいけどね、と付け足す。

「僕も、寂しいんです。でも、死んだ彼女の言葉なんて、どうしたってわからない。想像も、妄想も、彼女の尊厳の否定だ、なんて思うんです」

 僕は息を荒くして言う。

 そうだ、死人に口なしだ。いつか彼女が言っていた言葉を思い出す。

『死人に口無しだよ。あるのは都合だけよ』

 あぁ、そうだ。そんな都合で。

「あの子もそんなことを、言ってたわね。死人に口なしだ、とかあるのは都合だとか。私には難しいことはよくわからないけど、でも、もっと単純に考えていいと思うのよ」

 僕の頭を優しく撫でる。

「幸せになって欲しい。幸せになりたい。それだけできっといいんだと思うわ。人が誰かに祈ることも、人が生きていく理由も、きっと」

え?

 幸せに?

 僕が?

 どうやって?

「あなたは、あの子への愛に生きていたかもしれない。でも、幸せはきっとそれだけじゃないわ」

「……全然見えないんです。これからの生き方も、これからの未来も、これからの僕も、彼女も……。何も、見えないんです」

「見えなくて当然だわ。幸せに、未来に、色も形もあってたまるもんですか。目に見えないから、それを何に縋ってでも追い求めるものでしょう?」

 あぁ。この人はどこまでも君のお姉さんだね。僕から涙は出なかった。

 ただ一つ僕は君の言葉に背こうと思った。

 僕は、君が、自分を忘れて欲しいと思って、そんな言葉を僕に、今も吐き出していると、そう思うことにするよ。

 ごめん。これは都合だね。

 僕が前を向いて、生きていかなきゃいけないために、君の言葉をつくりだすよ。

「ありがとう、ございます」

「いいのよ。あなたは生きて、幸せになって、その土産話を向こうであの子にたくさんしてあげてよ」

「そうします。これから生きていく中で、僕は」

 言葉が途切れる。

 この先を言う必要はないと思った。

 君の死んだ、夏にさよならを、僕はただ告げる日々をこれから生きていくのだ。

 


 姉の話すことを、私はじっと聞いていた。

「ありがとう」

 伝えたかった言葉は全部伝えられた。

 伝えたかった想いは全部伝えられた。

 できることなら私の口から言いたかった。それでも、彼がこれからの未来を生きていく中で、私のことを忘れる瞬間がきっと増えていくことが、たまらなく嬉しかった。

 体が透き通っていくのを感じる。

 私は、ようやく君にさよならを言えるよ。

 光の粒が満ちていく。

 私はこれからどこに行くのだろう。

 死後の世界があれば、また彼と会いたいものだ。ふと、天に昇る瞬間、彼と目が合った気がした。

 ようやく私たちの、長く短い夏が終わっていくのだと、私はただ祈るように信じようと思った。

 最後に聞こえたのは、ただ蝉の声だけだった。

 

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夏にさよなら 久火天十真 @juma_kukaten

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