二両目
「ねぇ、寄って行かない?」
「はい?」
「鉄道館、どうせ、今日はこのまま直帰でしょ?」
「まぁ、そうですが、時間的にあまり回れませんよ?」
「いいのよ、ちょっと寄るだけだから」
ちらりと車内に据え付けられている時計に目を向ける、時刻は15時30分を過ぎていた。看板には17時までと書かれているので、見学をするにしてもそれほどゆっくりと回れる時間はない。
なにより一番の問題は声の主である上司の上司と一緒だということだ。尚更に気が詰まる。もちろん、同じ職場の年若い女の子にそんなことを言われても困ってしまうが、生憎とそんな機会はないし、顔もルックスも至って平凡なので声をかけられることもない。決裁書類を手渡されるときに少しだけ、本当に少しだけ他より距離を開けられると、おじさんも時より心が折れてしまいます。
「なに?嫌なの?それとも用事でもある?」
「いえ、行ってみましょう」
ここで断れるものなら断ってみたい。
いや、最近の若い世代はスムーズに断るすべを持ち合わせているのからできるのかもしれないし、それはそれである意味では羨ましい。しかし、あいにくと由緒正しい山郷の田舎育ちにはそのような事は荷が重すぎる。【はい、嫌です】なんて口にすれば翌日に何されるか分かったもんじゃない。もちろん、なにもないとは思うが、そんな心理的負荷を負いたくもない。
ただ、今日はこの上司の些細なことが目につく一日であったことも確かだ。
普段通りの冷静沈着さで営業先をそして自社工場での新製品の出荷調整を済ませるのはいつもの姿。けれど階段でヒールをひっかけて躓いたり、ふらついたりと足どりがどことなくおぼつかなかった。一度や二度なら気にも留めないが、端々にとなると気にもする。ときより些細なほどで肩を落とすような仕草が妙に気になっていた。
大学生にてアルバイトで入社、大学卒業後に正社員になり、周囲の軋轢をものともせずに戦い抜いて勝ち上がってきた女桀、それが助手席でドアに肩肘ついて手に顎を乗せてつまらなそうにしていらっしゃる藤堂萌子部長だ。私の新人時代の教育担当者でもあった。
40代とは思えない美貌とスタイルももちろん素敵だが、着飾らない性格と物怖じしない言い回しで部下からの(もちろん私からも)信頼も厚く取締役達のウケもいい、仕事と飲み会とランチ以外の私生活は親しい女子社員達さえも、噂話のみで実際には何をしているのか皆目見当のつかない不思議系上司の仕事中の口先から、鉄道館と似つかわしく無い呪文のような言葉を口走るとは考えてもいなかった。
「なにか、見たい車両でもあるんですか?」
「え?」
「いや、行くのなら何か目的でもあるのかなぁと」
「武中くんはそれを知ってどうするの?」
「別にどうと言うことはありませんが」
「気になっちゃう?」
「まぁ、そうですね、気にはなりますかね」
「新幹線、それが見たいの」
「新幹線ですか……」
「そ、新幹線」
珍しく言葉の端々に棘がある言い方だった。
普段ならもう少し柔らかい物腰の人だと言うのに珍しいこともあるものだ。そもそも鉄道館に寄っていくと言い出したところから珍しい事なのだ。特段、驚くほどのことでもないだろうと自ら納得して、前を見ながらも時より伺うように彼女にチラリと視線を向ける。
頬杖をついた彼女は時より聞こえない音でため息を漏らしては、窓ガラスを些細なほどの大きさに曇らせを繰り返している。とても楽しく新幹線を見にいくとは考えられない、何か一種の追憶をしているようにも思えてしまうほどだ。
「次の次の交差点、右に入るみたいよ」
「あ、はい」
早めの指摘を受けて右折車線へと安全を確認しながらハンドルを切る。
付近には大型のショッピングモールや子供向けの観光スポットなどもあるが、平日の冬のこの時間帯であることもあってか歩道を歩く人通りは皆無だ。
家路を急ぐであろう家族連れの乗った幸せ色のワンボックスなどが吐き出されてゆく市営駐車場へと、漂白された病院のシーツのように無粋で味も素っ気もない営業車は乗り入れを果たしたのだった。
「一番遠いところでいいわ、万が一、見つかると田上さん五月蝿いでしょ?」
「部長がいれば文句も言ってこないでしょう?」
「無理よ、私にだって言ってくるわ、あの人、私のバイトからの先輩なのよ」
「それは知りませんでした。では、遠くに止めましょう」
直接の上司である田上課長は、普段は温厚な人なのだが、営業車の扱いにだけは五月蝿い、勝手に営業車内の抜き打ち点検をしたり、こっそりと営業先で担当者がどこに駐車しているかを探ったりもする。氏曰く、1番離れたところに止めて成績を上げる営業ができる人間らしい、諸先輩方は時代錯誤などと言っている者もいたが、私はそれをすんなりと受け入れている。
余裕を持ち歩く道すがらに何度も考えを巡らせ、意識を集中する細やかな時間を手にすることができる。
私はこれで何度も救われているのが何よりの証拠だ。
ガラ空きの駐車場の一番端に近く、なおかつ、見晴らしよく、監視カメラの側に車を止めてサイドブレーキを引き終えると、2人で示し合わせたかのように車を降りた。
荷物は常に少なく、デジタル化できるものはデジタルデータと進めてきた藤堂部長の慧眼は中々なもので、A3サイズの会社支給の営業バックがほぼ細身のままで全てのものが収まってしまっている。乗り降りも楽だし、営業車の中に取り残されたものと言えば、飲みかけのペットボトルのお茶くらいなもの、グローブボックスとセキュリティーボックスは蓋を開けた状態にして中身が無いということを、窓ガラスを覗けばすぐにわかるようにして会社規定の車上荒らしの対策確認を終えて、寒い中でコートを羽織り車の脇に立ったまま待たせてしまっていたことに頭を下げた。
「すみません、お待たせしました。先に行って頂いても良かったのに」
「気にしないで、無理言ってしまったのはこっちだから」
同じ鞄を持ちながら微笑んでみせる表情は何処となくぎこちない。
商業施設の脇を通り抜け、あおなみ線の駅へと続く空中連絡通路を歩いているとその足取りに変化が現れた。
クリスマスの思い出を作ってきたであろう子供を連れた家族連れへ、不自然で無い程度の視線を向けてから、何処となく寂しそうな顔を見せた。親と手を繋ぐ幸せな笑みを浮かべる子供だけなら、まだ、何かしら腑に落ちるようなものがあったが、その視線は親と子を交合に見つめ、そう、まるで美術館で絵画を眺める人のようにもみえた。
「何も言わないのね」
「然るべき時に伺いますよ、今はどうみてもその時じゃ無いですからね」
わざと関わりたくないような口ぶりでそう言って、ポケットからスマホを取り出して業務連絡を確認する素振りで誤魔化した。少し驚き見せたものの小さな口が何かを呟いたようだったけれど、何を言ったかまで見つめるのはやめた。スマホで鉄道館のサイトを呼び出して2名分の予約を済ませておく、見る時間は限られているし、何かしらも感じられるから、もしかしたら時間を惜しむ必要もあるかもしれない。
空中連絡通路は風よけなどが一切ない簡素な作りで、冷たい名古屋港の海風を豪快にそのまま吹き抜けさせている、先ほど走ってきた片側4車線の道路を跨ぐように掛かる通路の上には、父や母と小さな手を繋いで、またはベビーカーなどに乗って護られながら進んでいくのを再び同じように見て、自らの長い髪が風で乱れようとも気にすることもなくただひたすらに進んでいく後ろ姿を追いながら、駅より通じる鉄道館の通路へと歩みを進めたのだった。
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