夫が電話に出てきません

セオリンゴ

 

 河西香苗は電話に出た。相手の電話番号は090から始まっていた。

 最初から奇妙だった。

 電話の向こうにいるのは高齢の女性で、河西香苗のことを知っていた。が、奇妙なのだ。

「河西さん?」

「はい、河西です」

「私、中原です。家に電話しているのに何度かけても夫がでなくて」

「え?」

「うちを御存知ですよね。 今は移転していますけど、昔は愛智町消防署があって、向かい側にある中原です」


 香苗は瞬時に思い出した。小学校の同級生、中原雅子の家だ、間違いない。

「はい、分かります。何度か遊びに寄らせてもらいました」


 あれから半世紀経つのに、香苗は車で通りかかるとつい見てしまう。

 穏やかで明るい中原家の記憶がそうさせるのだ。

 家はひっそりと静かだが、荒れた感じはない。


 問題は半世紀の間、行き来がなかった中原雅子の母らしき人が急に電話をしてきたことだ。香苗は奇妙さを感じながらも、緊急を要する事態なら放っておけないと判断した。

 彼女の夫が電話に出なられないのは本当なのか。

 そもそも香苗と話てる中原さんはどこにいるのか。


 彼女は何度も繰り返すのだ。

「夫が家にいるはずなのに、電話に出ないんです」

それで、なぜ香苗の家に電話をかけてきたのだろう。娘の雅子やほかの親族を頼れない状況なのか。

 季節は夏、それも盛夏で外にいたら熱中症になりそうだ。中原さんは一体どこにいるのだろう。

 香苗は可能性をいくつか考えた。

 一つ、中原さんの夫はおそらく80歳代、家で急性疾患で倒れている。

 一つ、中原さんの夫は外出中。

 もう一つ、中原さんが夫に関してのみ混乱状態にある。


 香苗は決めた。

 最初に中原さん自身の現在位置を確かめ、そこから親族や警察に連絡を取り、家の様子を確かめてもらう。

 香苗はできるだけ落ち着いて、電話の向こうに問いかけた。

「中原さんは今どこにいらっしゃるのですか?」

「私? 私のこと?」

「そうです。愛智町の役場かスーパーにいますか?」

実は電話の向こうに何やら人の声や業務の気配がしていた。中原さんの奇妙な感じを先に確かめねばならない。彼女は独り言のようにつぶやいた。

「ねえ、ここ愛智町? 私は愛智町に帰っているの?」

1秒おいて若い男性の声がした。

「ここは大阪ですよ」

男性の声は続く。

「家は誰もいませんから、電話は終わりにしましょう」


 香苗はハッとした。

 中原さんは大阪府内の老人施設にいるのだ。あの若い男性は施設スタッフで、中原さんは初期の認知症だ。

 彼女は家と夫を案じて、携帯電話の中にある番号から、愛智町のを選んでかけた。そういえば中原雅子とは10年ほど前、電話で話したことがあり、彼女は堺市に住んでいると言った。ならば、たまたま彼女が母の傍にいて、母に携帯を貸したのかもしれない。


 中原さんが最後に何と言ったのか、香苗は覚えていない。

「中原さんは家に帰りたかったのかしら……」


 愛智町はどこにでもある田舎町で、香苗はそれほど愛着はない。だが、離れれば帰りたいと思うかもしれない。人の心は複雑で、自分のいる場所が分からなくても夫の心配はすることもあるのだ。


「私が認知症になっても、夫の心配をするかしら」

 

 先のことは分からない。とはいえ、電話のあとで香苗は妙に切なくなった。

 

 中原さんは今も遠くから電話をかけているのだろうか……。

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夫が電話に出てきません セオリンゴ @09eiraku

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