その2


「どうぞ」


 ガラス一枚を隔てて空と接する弊社の通路から、ウグイス嬢チックな聞き慣れぬ声がして驚く。

 ここ、マッスル・シンクタンク研究所には男の職員しか居ないのだ。

 声の主はどこかと探るが、三つの会議室を繋ぐ廊下にはプロテインスナックのディスペンサーしか目ぼしいものはない。

 

 それにしても、「どうぞ」とはどういう意味か。


 時代に錯誤した女人禁制の施設であるからして、招かれるべくはそちらである。

 段々と腹が立ってきて、私は主なき声に向かい、前鋸筋に力を込めて「いらっしゃいませ!」と叫んだ。

 どちらが客人か、この声量で理解させるわからせる


 すると、悪意を関知せぬアリのような声で返答があった。

「どうぞ」

 

 私のこめかみに血流がみなぎり、片頭痛の前兆を感じた。

 と同時に、その声がどうやらディスペンサーの向こう、曲がり角の奥から発せられていることに気づく。

 なんたる単純な話。しかし、どうにも奇妙な。人が人に曲がり角の向こうから話しかける機会など、皆無に違いない。

 だって、曲がり角の向こうは見えないのだから。

 そう考えた途端、迸った血液が瞬時に水色に変質するのを私は感じた。


 では、そんなやつは人じゃないのでは?


 ぞわ、と全身の産毛が逆立つ。いや剛毛も逆立ったに違いないが、おいそれと脱衣して確認するほど呑気ではない。


「どうぞ」

 

 声は近くもならず遠くもならない。逃げることすらできそうだが、肝心の足が動かなかった。

 

 どうして、今なのだろう。

 私はガラス壁の向こうを見る。真っ昼間だ。向かいのビルに、名刺にマウントを取らせ合うリーマンがいて、自然公園にはベンチに座ったOLがサンドイッチを頬張って、その周囲にはハトが群れている。

 キッチンカーのケバブ屋が暇そうに肉を削いでいるし、未就学児が紙のブーメランを投げている。


「どうぞ」


 なのに。

 なぜこのビルのこの廊下に。 

「どうぞ」

 人を誘うにももっとうまいやり口がある。

「どうぞ」

 近づいても来ず。

「どうぞ」

 遠ざかりもせず。

「どうぞ」

 ふいに耳元で囁いたり。

「どうぞ」

 背後に動いたりもしない。

「どうぞ」

 こいつは「どうぞ」俺に「どうぞ」何を「どうぞ」させたいのだ「どうぞ」?


 俺はサイボーグじみて鍛え上げた大腿筋を瞬時、収縮させると、本気の力フルパワーでガラス壁を蹴りつけた。

 その強化ガラスには自らの強度を誇るため、階段を踏みしめるゾウのマークが描かれていたが、今やゾウは階段などという緩慢な上昇手段を放棄して天を舞い、剥片となって自然公園に降り注いでいった。

 

「どうぞ」


 この破壊音に反応を示さぬ以上、こいつは人ではあり得なかった。

 そして、こうまで不断に招待の意志を示してくる以上、私は負けを認めざるを得ない。相手が悪かった。だが背を見せて逃げることはしない、だって怖いから。

 

「そうだな。お前の勝ちだアミーゴ。今日は私がお客様カスタマーになってやるよ」


 私は空へと足を踏み出しざま、曲がり角に背を向けないよう翻り、飛び立っていくハトとすれ違いながら地表へと落下する。


 空中で振り向いてから、今立っていた床を通り過ぎる、一瞬。ほんの一瞬。曲がり角の向こうにいたそれが見えた。


「ふはっ」

 

 笑ってしまう。


 ああ。

 本当に。


 背を向けなくて良かった。

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