常識破壊文学全集

羽暮/はぐれ

その1

 台所にはドーナツを切り刻む包丁の、静謐なリズムが響いていた。

 ピアノ奏者のように繊細で嫋やかな指先は、今やカスタードと油にまみれ、猥雑にベトついている。それでいて、振るわれる麺切包丁めんきりぼうちょうは一分の誤差もなくドーナツを蕎麦状に解体しており、意図が不明であること以外は、見事な手捌きであると言えた。


 幾つもの傷が残るヒノキのまな板。すぐ横で、ぐらぐらと鍋が煮えている。直上のフックに、湯を切るための振りザルも吊ってある。間違いなく、料理人は、カスタードドーナツを麺として茹でるつもりでいるのだ。


 それはどうしてなのだろう。

 見た者が問い掛けたはずの言葉は、料理人である男の、真剣なる眼差しの光によって既に潰えてしまったように思えた。

 後の世界に残るのは、静謐と、茹で上がるドーナツそれだけだ。


 にゃあん。

 居室で猫が鳴く。猫にすれば、麺を茹でようがドーナツを茹でようが、知らぬことだ。

 我々も猫になればよい。

 そうして、すべてのドーナツが麺になった。小麦と糖とバニラビーンズの匂いがした。まな板はぐにゃぐにゃであった。

 

 じゃっ。

 ためらいなく、男が持ち上げたまな板を包丁の背で払うと、一斉にドーナツ麺が鍋に降下した。かつて油の鍋で揚げられた日の事を、ドーナツは思い出すのだろうか。ピ。

 冷蔵庫に磁着されたトマト型のキッチンタイマーが、三分間の計測準備に入る。


 ところで、ポモドーロ・テクニックとよばれる仕事術がある。

 タスクを決め、二十五分間の集中作業と五分間の休憩を繰り返すものだが、由来は発案者がトマトポモドーロ型のタイマーを利用したイタリア人だからだそうだ。


 飛来したミサイルが男のアパートメントをぶち抜き、煮えていないドーナツ麺ごと都市区画を木っ端みじんに引き裂いていく。


 不世出のレシピが一つ、失われていく。

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