心理学で恋愛しちゃダメですか

三坂鳴

第1話 心理学部への入学と妄想膨らむ春

春らしい柔らかな陽射しを浴びながら、星野凌はキャンパスの門をくぐった。

大きなチャイムの音が、これから始まる大学生活をせかすように聞こえる。

教室へ向かう途中で目にしたサークルの勧誘テントや、見渡す限りの新入生のにぎわいに胸が躍る。

その一方で、彼は抱えている分厚い心理学の教科書を見つめては、自分の“特別な作戦”を確信していた。


「この単純接触効果…頻繁に会うだけで、女性との距離を縮められるんだって。

最初の印象さえ良ければ、勝算は絶対あるはずだ」

うれしそうに教科書の一文を指先でなぞりながら、凌は小さくつぶやいた。

それだけじゃない。

好意の返報性で相手の心を引き寄せる方法や、ドア・イン・ザ・フェイスで絶妙な駆け引きをするやり方も頭にぎっしり詰め込んできた。

入学式を迎えたその日から、凌の妄想はすでに未来の彼女との甘い時間にまで飛んでいる。


「動機が不純すぎない?」

背後から聞こえた声に振り返ると、幼馴染の槙村彩花があきれ顔で立っていた。

彼女も同じ大学に通うが、専攻は別の学部だ。

「だって、心理学を使いこなせばモテるって思わない?

フット・イン・ザ・ドアとかローボール・テクニックとか、知ってたら最強じゃない?」

凌は教科書をひらひらと見せながら得意気に笑う。

彩花は肩まで伸びた黒髪を一つに結い、春服のまま首から学生証だけ提げている。

少し面倒くさそうに視線をそらしながらも、一応話を聞いてくれるあたりが彼女の優しいところだ。


「心理学が万能の恋愛マニュアルだと思うのが間違いでしょ。

そもそも、ドア・イン・ザ・フェイスだの好意の返報性だのって、そう簡単に使いこなせるわけないじゃん。

読みかじっただけでうまくいくなら誰も苦労しないって」

彩花は小さく息をついて、正面から凌を見つめた。

「それでも、あんたはやるんだろうけど。

どうせ妙な実験体扱いされる女の子が出るのがオチだよ」


「うわ、手厳しい。

でも大丈夫。

俺は心理学部の底力を信じてるからね。

認知的不協和だって活用できるかもしれないし、まずはこの入学式の日から行動しないと始まらない」

凌は胸を張り、キャンパス内を見回しては新入生女子の姿に目を光らせる。

「それに、単純接触効果ってつまり、何度も会えば仲良くなれる確率が上がるってことだよな。

これから四年間、めちゃくちゃ顔合わせる機会あるし最高じゃん」


彩花は呆れつつも口元に笑みを浮かべていた。

「やっぱりいちいち理屈っぽい。

あんた、そればっかじゃ相手に見透かされて、そのうち面倒がられるよ。

気をつけな」

軽い説教じみた言葉を投げかけてから、彩花は教室の方向へ歩き出した。

「入学式の受付始まるし、あんまり遅れないようにね。

変な気持ちのまま講義受けたら、教授に見抜かれるかもよ」


「わかってるよ。

俺はちゃんと講義も受けて、テクニックを理論だけじゃなく実践に活かすつもりだし」

凌は頬をかすめた春の風に気づき、少しだけ顔をほころばせた。

せっかく心理学を学ぶなら、とことん楽しんで成果を出したいと意気込んでいるのだ。


大学のホールではすでに講堂前で人が行き交い、案内スタッフの呼びかけが響いていた。

「一年生の方はこちらで受付をお願いします」

ビラやパンフレットを受け取りながら、凌はさらに教科書のページをめくる。

「好意の返報性を実践するなら、まずは誰かにさりげなく親切にしてみるべきか。

気づかれないように少しずつ恩を与えて、相手に好意の芽を…」


一人で何やらぶつぶつ言っていると、そばを通りかかった彩花が小声で突っ込んだ。

「一歩間違えるとただの押し付けだからね。

いい加減、頭でっかちなのをやめなよ」


彼女の言葉に、凌は多少むっとした表情を浮かべるものの、すぐに表情を緩めた。

「彩花にも感謝してるんだけど、それって好意の返報性の応用にならないかな」

わざとらしく微笑みながら言うと、彼女はあきれ顔で首を振った。

「違うでしょ、そもそも幼馴染なんだから…もっと普通に接しなって。

あ、入学式始まるから行ってくる」

彩花は彼より一足先に人混みの中へ消えていく。


残された凌は、満開の桜と行き交う学生たちをちらりと眺めた。

小学校からの腐れ縁が同じ大学にいるという安心感もあるし、何より自分の計画を試す場がこれから無数に広がっている。

フット・イン・ザ・ドアでまずは軽いお誘いをして、その先で本命の誘いを切り出す方法だって試し放題だ。

ローボール・テクニックを使えば、相手に条件を後から変えるシーンが来ても断られにくい…とさっき教科書で読んだ。

考えれば考えるほど、この大学の新生活は自分にとって格好の実験フィールドになるように思える。


式典のアナウンスが始まると、凌はあわてて大ホールの入り口へと足を運んだ。

講堂内は新入生で埋め尽くされ、前方には学部ごとに椅子が並んでいる。

心理学部と書かれたプレートの席を見つけた凌は、急ぎ足でそこに座る。

無事に着席すると同時に、紺色のスーツ姿の大学職員が挨拶をはじめた。


最初のオリエンテーションでは、学部長や教授たちが「心理学の奥深さ」に言及しながら学生を歓迎している。

その言葉は耳に入ってくるものの、凌の頭の中はすでに次の行動計画でいっぱいだ。

「まずは同じ学部の女子と仲良くなるために単純接触効果を狙おう。

顔を覚えてもらう回数を増やして、第一印象での失敗は避けないと…」


小さく自分に言い聞かせるようにうなずいてから、周囲をキョロキョロと見回す。

同じ学部のクラスメイトになりそうな子や、二年生らしき先輩の姿。

見渡す限り期待は高まるばかりで、なんだか気持ちが落ち着かない。

彩花の「理論はそんなに万能じゃない」という一言が少しだけ耳に引っかかるが、彼の心はすでに希望でいっぱいだった。


壇上の教授の説明がひとしきり終わると、拍手が起こり、そのまま学生への諸注意がアナウンスされる。

スマートフォンやプリントで連絡事項を確認しているうちに、オリエンテーションはあっという間に進行した。

式が終わって席を立つ頃には、凌の目ははやくも外へ向かっている。

どんなサークルに入って人脈を作り、どんな方法でアプローチを試すか。

やりたいことや試したい心理テクニックが山ほどあるのだ。


廊下に出ると、彩花が待っていた。

「終わったの?

さっそく何か画策してそうだね」

彼女は腕組みしながらたずねる。

「そりゃあもう。

早くサークル見学行こうと思うんだ。

心理学系のサークルとか絶対あるはずでしょ?

先輩を味方につけて、単純接触効果で知り合いを増やせば…」

楽しそうに話す凌を見て、彩花はわずかに困った顔をする。


「はいはい。

とりあえず、そんな上手くいくかは知らないけど、ついていくよ。

変なトラブルには巻き込まれたくないし」

そう言いながらも、彩花の声の調子にはどこかあきれと興味が入り混じっている。

凌は心強い味方を得たようにうれしそうに笑い、教室棟の外へ歩き出した。


外へ出ると、ちらほらと舞い散る花びらが風に乗ってキャンパスを彩っている。

新入生たちがサークル一覧の看板に群がり、上級生が声を張り上げながら勧誘のビラを配っていた。

耳に入る賑わいに、自分の新しい生活が本格的に始まったことを実感する。

そして、心理学を武器にどれだけ女性たちと知り合えるか、期待と妄想がさらに膨らんでいく。


その妄想が実際にどんなドタバタを引き起こすのかは、まだ誰にも分からない。

今はただ、行動力だけが空回りする音を立てる予感を彩花の視線が暗示している。

凌はそれを知らずに、次に訪れる機会を待ち望むようにサークルの立て看板を見渡していた。

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