第17話 リオネル・ウェルズリー

キアノスが戦死したのはリオネルが十四になる年の三月だった。


もうすぐ春が来るというのに、その日は昼から雪が降っていた。

世間一般に見てみればさして珍しい話ではないが、エリオットでは三月に雪が降るなど珍しい以外の何でもなかった。そのせいか、子供達は大喜びし、大人たちは何か起こるのでは、呪いか、と心穏やかではいられなかった。

リオネルも窓からまるで真冬のようにしんしんと降り続ける雪を見て、すぐにキアノスと庭に行きたいと思って部屋を出た。しかし、ちょうどのタイミングで昼を知らせる鐘が鳴ったので食事の場所へ向かった。

勢いよく階段を降りて大きな扉を開ける。家族四人が食事をするには広すぎるであろうそこにはキアノスと母であるグレンダが座っていた。

「お腹減ったー!」

「お、リオネル。やっと来たか。俺はさっきからお腹の音が鳴り止まないんだ」

「稽古の後お菓子食べてたの、しっかりと見ましたからね」

「バレてたとは…」

他愛もない会話だった。特別でもなんともない、いつも通りの会話。グレンダはそのやり取りを見て笑っている。

ごく普通の幸せな家庭の一コマだ。

「さ、いただきましょうか」

「あれ、父上は?」

いつもは正面に座っているはずの父がいないことに気がついたので、素直にそう尋ねる。四人全員揃わなければ食べてはいけないというのがこの家のルールだった。父がいないのなら、もちろん食べ始めることはできないのに、グレンダはそれが当然であるかのような振る舞いをしていた。

「先に食べておいてと言われたのよ。ほら、いただきましょう」

十三歳のリオネルにはグレンダが何か隠しているように見えた。しかし、キアノスが不思議がらず何食わぬ顔で食事をしているのを見て気のせいかと、そう思った。

しばらく食べ進めてふと窓を見ると先ほどよりも雪あ激しく降っているようにみえた。リオネルは部屋を出た当初の目的を思い出す。

「兄上、後で外に出て雪を見に行きませんか?」

「あー、悪いリオネル。今日は忙しいんだ」

「そうですか…」

キアノスは目を逸らして言った。

やはり何か隠している。リオネルはそう確信した。

でも、どうやってその隠し事を聞き出せば良いのだろうか。「何か隠していないか」と聞いたところで答えてはくれまい。

「リオネル、どうかしましたか?」

食事をする手を止めて考えているのをグレンダに見られていたようだ。

「いえ、なんでも」

微笑んだ母に作り笑顔を返す。

家族で一番年下のリオネルはよく隠し事をされていた。そして、それは大抵重要な内容だった。ならば、今回も何か重要なことなのだろうか。もしかしてキアノスに結婚の話が来たのかとも思ったが、もしそうなら隠す必要がないように思われる。

リオネルは悔しかった。末っ子だからと頼りにされないことが、兄に負けていることが。

今思うと、キアノスにまさっていたものなんて何一つなかったように思える。最後まで、追い抜くことはできなかった。



 *



鳥のさえずりが聞こえる。街が朝を迎えた。

睡眠時間は少ししか取っていないが、ここ最近で一番気持ちの良い朝を迎えた気がする。

メアは今日の式典のために持ってきたドレス、ベール、手袋を身につけて準備を終わらせていた。年に一度、この日にしか着ない黒一色の服装だ。


コンコン


ドアをノックされたので許可の意を示すと、想像通りの人物が部屋に入ってきた。

「おはようございます、お嬢様。昨夜はよく眠れましたか?」

母のような優しい声。安堵で何もかも吐き出したくなる。いや、吐き出していいのだけれど、甘えるのが苦手なメアにとって簡単なことではない。

「…いや、あんまり。パメラは眠れた?」

話を逸らすために聞いたのだが、それはしっかりと見透かされていたようで核心を突かれる。

「何かあったのですか?話を聞きますよ」

そう言ってメアの向かい側に「失礼します」と言って腰を下ろした。

「何も」

それでも言えなかった。内容が内容だったからなのかもしれないが。

「私に嘘は通じませんよ?」

そうだった。どんなに隠しても、隠し通せたことなんて多分一度もない。

メアは軽く溜息を吐いて話す。

「…昨日ね、リオネルに結婚しないかって言われたの。もちろん断ったけれど」

パメラは何も言わずに穏やかな顔で聞いている。

「…私は、ちゃんと断ったのよ。断らないといけないといけない立場だから。なのに…私は…」

俯いて、その先の言葉が出てこない。

こんなにも感情が揺れ動くのはなぜだろう。

断ったからと言って死ぬわけじゃない。何か大切なことが変わるわけでもない。

なのに、それなのに。

こんなにも、リオネルに揺さぶられてしまう。

「お嬢様」

パメラはメアの横に座り、彼女の肩に優しく手を置いた。

そして微笑んで言う。

「あなたは確かに王女かもしれない。それは変えようのない事実でしょう。しかし、あなたは王女であると同時に、一人の人間なのです。それを忘れてはいけません」

「でも…私に決定権なんてないじゃないの。自由には生きられない。それはパメラにだって分かるでしょう?」

生まれた時から育ててくれているパメラだ。分からないはずがない。なのに、なぜあたかも簡単だというようなことを言っているのだろう。

「皇太子のことが、好きなんでしょう?」

責めもせず、本当に優しく言った。

パメラはとっくの昔に気づいていたのだ。自分のことなのに、自分が一番分かっていなかった。

何も言わないメアを見てそれを図星と取ったのか、メアの手を握って言った。

「だったら、やりたいようにやってみてはいかがですか?これはお嬢様の人生なんだから」


『これは、あなたの人生なんだから』


いつかの恩師の言葉と重なる。

自然と涙が溢れてきた。パメラは小さな子供をあやすように、優しく抱きしめた。





三人で楽しく会話しながら食事を続けていると、突然部屋の扉が開かれた。

豪奢な黒と金の生地に、輝く銀の装飾があしらわれた服を着ていたのは、他でもない父だった。

「父上!」

リオネルは父が食事をしに来たのだと思ったので、笑顔で父の方へ駆け寄る。

「すまないな、リオネル。一緒に食事はできないんだ」

「なぜですか…?」

父は答えなかった。答えないで、キアノスを呼び寄せて部屋を出て行ってしまった。

父も、頼ってくれない。

そんな思いでその場に立ち尽くしていると、後ろから優しく頭を撫でられた。

「リオネル、許してちょうだいね。まだ子供のあなたが背負うにはあまりにも重すぎるの」

「でも…」

「もう少し大きくなったらきっと分かるわよ」

グレンダはリオネルの気持ちをわかっていた。わかった上で隠し事をしている。

それでも、当時のリオネルは悔しかった。もう十三歳なのに、子供じゃないのに。そう思っていた。なんの根拠もなしに。


─そう思っていたから、自分の力を過信しすぎていたから間違ったのだ


その後、少しだけ残っていたおかずを母と食べてから部屋を出た。廊下の窓からまだ雪が降っているのが見えた。遊んでくれる相手もいないので、おとなしく本でも読むことにしようと思い、書庫に向かう。

その途中にはもはや誰かもわからない肖像画が飾ってある。先代、先先代、そのまた先の歴代国王。どの絵を見ても白髪で白い肌をしていた。

リオネルは自分の髪色が好きではなかった。この髪を見た人々は、まるで神を崇めるかのような目で見てきた。自分は神でもなんでもない、努力が嫌いな怠け者だというのに、そんな目をされても困るのだ。

「…ですが!」

急に右側の部屋からそんな声が聞こえてきたのでリオネルは足を止める。声が聞こえたのは、父の仕事部屋だ。声の主は間違いなく兄─キアノスだ。

リオネルはいけないことだとはわかっていたが、興味本位で白い扉に耳をつけて中の会話を聞いてみた。

「なぜです、父上!お願いします!」

「いや…でもな…」

どうやら父とキアノスが揉めているらしかった。この穏やかな二人が揉めることなんて滅多にない。一体何の話なのか。

「私には皆が命をかけて戦っているのに自分だけ高みの見物だなんて、そんなことできません!それに、私が行かなければ死傷者が増えるだけでしょう!?」

「それはそうなのだが…お前に何かあったらどうするんだ」

「そんな、私の命を心配している場合ですか!エクエスが我が領土に入ってくるのも時間の問題でしょう。その前に、国民の命が危険に晒される前に、私が軍を率いらなければ!国王陛下、時間がありません!どうかご許可を!」

リオネルは固まった。直接的な言葉を聞いたわけではないが、察しがついたからだ。


エクエスとの戦が始まった。


エリオットは大陸随一の騎士の国。それでも少しの油断もできないのがエクエスという国だ。エクエスは人をまるで人形のように扱い、死傷者の数など気にも留めない。リオネル達とは正反対の考え方だ。

エクエスが領土を広げたがっているのは知っていた。しかし、いざ実戦となるとたまらなく恐ろしい。大切な人ともう二度と会えなくなるかもしれない、そう思うと不安と怒りが湧いてくる。


ガチャ


もたれかかっていた扉が開かれ、リオネルはバランスを崩す。

しまった。

考えるのに夢中で足音が近づいているのを聞いていなかった。

目の前には驚き戸惑う兄がいた。


「…リオネル」

キアノスはどうすれば良いのか考えたのだろうか。少しの間無言で立っていた。

「さっきも言ったように今日は忙しいんだ。部屋で本でも読んでいろ」

そう言って立ち去ろうとした。キアノスは気づいていたはずなのに、気づかないふりをした。

「兄上…!先程の話は本当ですか?もし本当ならば、私も…」

「リオネルが気にする必要はないよ」

またそうやってはぐらかされた。なぜいつもこうなのか。なぜ、信用してくれないのか。

「兄上!私にも知る権利はあるでしょう!?私も騎士の一人なのです!」

今思えばよくそんな大口が叩けたなと思う。大して稽古も積んでいなかったやつのどこが騎士なのか。

「リオネル、お前には早すぎるんだ」

部屋から出てきた父がそう言った。そんなことは分かっていた。まだ十三歳。大人たちから見れば、まだまだ子供だっただろう。

しかし、分かっていても悔しいは悔しい。まだ子供だった。だから、どんな相手かも知らずに言ってしまう。

「兄上が行くのなら、俺にも行かせてください!きっと戦力になります!邪魔はしません!」

頭を深く下げて、はっきりとした声で懇願した。リオネルがここまで父に願い事をするのは初めてだったかもしれない。それに驚いたのか、諦めたのか。父は仕方がなくという風な声で言った。

「…分かった」

「父上!?」

キアノスが驚きの声を上げる。きっと反対なのだろう。しかし、父はキアノスのそれに構わず続けた。

「でも、いくつか条件がある。よく聞くんだ」

「はい、父上」

「一つ、できるだけ人の少ない、離れたところで戦うこと。お前は大人一人が限界だろう。二つ、立派な服を着た人間とは戦うんじゃない。それは騎士だから、何十年も稽古を積んできた人間相手には命が危ない。三つ、少しでも怪我を負ったら帰ってくること。四つ、生きて帰ってくること」

リオネルはしっかり聞き入れて、大きな返事をした。

戦へ騎士として参加することを認めてくれたのは、稽古をしていなかったとはいえ、それなりの実力を持ち合わせていたからだろう。リオネルも騎士の家の子だ。決して弱くはなかった。少なくとも騎士ではない大人には勝てるレベルではあった。


この時の誰の判断が間違っていたわけでもない。あんな悲劇が起こるなんて誰も思わなかったのだから。


─そう、誰が悪いわけでもない





昼前、ウェルズリー家の城の庭には多くの人が集まっていた。

貴族やそうでない一般市民の老人、教会の子供達。身分も年齢もバラバラの人々が皆揃って黒の服を身につけ、沈んだ雰囲気が流れている。


まさに今、エリオット国追悼式典が始まろうとしていた。


五年前に起こったエクエスとの戦では多数の死傷者が出た。参加しているのは主にその遺族たちだろう。

メアはその景色を限りなく正面に近い席で見ていた。隣には、先程到着した両親と弟のフラムが座っている。例の戦でカペル家の誰かが亡くなっただとかそういうわけではないけれども、大国の王族が参加するのは当前ということでこのようなことになっている。

数メートル離れた向かいの席に座っているのは、主催者のウェルズリー家だ。当然、リオネルも座っている。

彼は今どんな気持ちなのだろうか。

「お集まりの皆様、只今よりエリオット国第五回追悼式典を開式いたします。五年前の…」

顔も名前も知らぬ男がそう挨拶して式は始まった。

参加者には真剣に話を聞いている者もいれば、涙を流している者もいる。もう五年、まだ五年。感じる速さは人それぞれだろうが、五年という月日で家族を失った辛さが薄れるわけがない。

メアも大切な人を失った一人だ。彼女は前皇太子キアノスによく遊んでもらっていた。

彼の死は多くの人に悲しみと衝撃を与えた。皆が、嘘だと思った。

「今年も亡くなったすべての方々に追悼の意を込めて演奏していただきます」

そう言われて、メアは席を立ち上がり大勢の人を目の前に話し出す。何年もう会ってはいるが、いつまで経っても緊張するものである。ふとリオネルに視線を向けると気づいたらしく、微笑まれた。顔が熱っていくのを感じたため、急いで正面を向いて話し出す。

「皆様、ごきげんよう。ヴィーヴィオ王国王女メア・カペルでございます。今年もこの追悼式典にお招きいただきましたので、亡くなった方々へのせめてもの弔いといたしまして、一曲演奏させていただきます。亡くなった方々の魂の平安を心からお祈りいたします」

その言葉を最後に、メアは用意されたピアノの前に座る。ヴィーヴィオ王国の赤髪の王女。顔は知らなくともその肩書きを聞いた瞬間、彼女が大陸一のピアノ奏者ということはここにいるほぼ全ての人が分かったことだろう。そのせいで、メアのプレッシャーはより大きくなる。

直前まで何度も練習した。だから大丈夫。


─私ならできる


心の中で自分に言い聞かせて、一呼吸を置いてから演奏を始める。


それは優しい、寂しい、でも決して苦しくはない、包み込むように暖か音。

黒いベールを纏った赤髪の王女は、その場にいる人々がピアノの神様とでも錯覚する雰囲気を作り出していた。

手袋の上からでも分かる華奢な指は滑らかに鍵盤を弾いていく。

湖に落ちる慈雨のように優しく、絶望の淵で彷徨う人々に幸福への手を差し伸べる天使のようなこの音に、どれだけの人が救われただろう。

彼女のピアノは間違いなく、未来なんて見えなかった人々に微かな光を、希望を与えた。聞くだけで前を向けて、残酷な現実を前にしても生きていこうと思える、そんな音であった。


誰も真似できない、天才の音。誰もがそう思った。


最後の鍵盤から手を離した。やっと、弾き終わった。長かった。ハイゼルが聴いていると思えば尚更長く感じた。

メアは立ち上がり、深く頭を下げる。大きな拍手が巻き起こった。

顔を上げて自分の席に戻る途中、視界に入ったのは涙を流している人々だった。これがメアの演奏から流れたものだということは、どれだけ鈍感でも安易に想像できる。感動してくれるのはすごくありがたい。練習してきた甲斐があったと思える。しかし、天才だとは勘違いしないでほしいといつも思う。メアはよく言われる。「王女はやはり天才ですな」「神に選ばれしカペル家の王女は違いますね」なんて。

自分は天才でも、神に選ばれたわけでもないと思う。他の人と変わらぬ凡人。ただ、ずっとピアノに打ち込んできただけのこと。何も、元からの才覚というわけではない。

ハイゼルを恐れ慄いて練習してきた奴のどこが天才なのか。天才とはこんな軽々しく使われていい言葉ではない。

もうメアの出番はない。これからはただ話を聞いて過ごすだけだ。





戦場は混沌としていた。

そこらじゅうに死体が転がり、血や肉の匂いで鼻が曲がりそうだった。

リオネルは父に言われた通りに兄のいる戦場からはほんの少しだけ離れたところで一般人らしき兵士と戦っていた。もちろん、今まで襲いかかってきた全員がリオネルの実力よりも遥かに劣っており、負けることはなかった。

一般人の兵士というものは大抵、自分の意思に関係なく国王からの命令で無理矢理戦わせられている。それを知っていたリオネルは傷さえつけるがとどめは刺さず、生かしたままにしていた。襲いかかった者たちからすれば、こんなに辛いのならもういっそのこと殺してくれという気持ちかもしれないが、それでもリオネルには何の罪もない人々を殺すことなんて出来なかった。

血振りをして場所を変えようと足を進めると、後ろから声をかけられた。

「ただの子供だと思ったが…王子じゃないか」

独り言のような台詞だったが、わざとリオネルに聞こえるように言ったはずだ。

リオネルは戸惑わず振り返った。

「これはこれは。お目にかかれて光栄だ。やはり綺麗な顔立ちですな、王子様」

「何のつもりだ。敵を目の前にして雑談か」

実際リオネルには、彼が雑談を仕掛けているように見えた。目の前の子供が王子だと分かったのならば、奇襲してもよかったはずなのだ。それなのに、この男はわざわざ声をかけた。正直、理解が出来なかった。

「まあまあ、そんな怒んなさんな。いやね、人生で一度は王子などという方と話してみたいと思っていたのですよ。いやあ、本当に良い経験をした」

その呑気さに腹が立った。

「話は終わりか」

「ああ、終わりですよ」

男は笑って言った。それもまた腹が立った。

「では、失礼する」

そう言ってリオネルは男の方へ剣を構えながら駆け出した。しかし男の方は微動だにせず、ただその場に立ったまま。一体何のつもりなのか。

でも、今はそんなこと関係ない。止まっているのなら好機。

リオネルは地面に強く踏み込み剣を振り下ろす。正確には、振り下ろそうとした。

しかし足の力が抜け、その場合に座り込んでしまう。


何が起きた。なぜ足の力が抜けた。


そしてだんだんと熱の集まる場所─首に意識が集中する。

熱の集まる場所を手で触ると、べっとりと血がついた。


─いつの間に


リオネルの体勢は悪くなかった。少なくとも、普通の兵士には防げないくらいのものだったと思う。

目の前の男も服装から察するに普通の兵士だ。一般人だ。

男は一歩も動かなかった。踏み込みさえしなかったと思う。

なのに、なぜこんなことになっている。これは兄─キアノスの実力とそう変わらないように感じられる。

「悪いな、王子」

男がそう言って剣を高くから振り下ろそうとする。せめて相打ちで、と思って手に力を入れようとしても入らない。

このままとどめを刺されるのか。どのみち、首から大量の血が出ているのだから死ぬだろう。ならばさっさと殺してくれたほうがマシか。齢十三。随分と若くして死んでしまうが、失うものなど何もない。自分で作った大切なものを遺していくよりはずっと良いかもしれない。

意識が遠のく。

己を滑稽だと思った。あんなに父兄に大口を叩いておいてあっさり死んでしまう。何の恩も返すことができず、剣術も大して上達せず。出来の悪い息子だ。死んだところで、栄光を讃えられるようなこともしていないのだから、忘れられていくだろう。

何とも惨めだ。


『生きて帰ってくること』


ああ、父との約束も守れなかった。どこまで期待外れの息子なのか。リオネルは自分を自嘲する。

兄は生き残るだろう。兄が生きて帰れば、両親は安堵するはずだ。

なら、まだいいか。

そんなことを考えていた。しかし─

「…ル!…オネル!」

なんだ、この声は。

「リオネル!」

それは、間違いなくキアノスの声だった。なんでこんなところに。いや、違う。

とうとう幻聴が聞こえるようになったか。もう、終わりだな。

「リオネル、死ぬな!」

意識が朦朧としていたはずなのに、はっきりと聞こえた。閉じようとする瞼が開き、目の前の光景を疑う。

そこには、リオネルの目の前には、自分に大きな背中を向けるキアノスがいた。

がっちりとした身体で剣を構え、リオネルを守っている。

「兄上…!なんでここに─」

嬉しさと安心でそんなことを言ったのは束の間、一瞬で目の前のキアノスが姿を消した。

そして、視界が真っ赤に染まった。


─何が、起きた?


兄を探す。

すると目の前には─

全身から血を流すキアノスが横たわっていた。


─何が、起きた


理解不能だった。

「兄上…兄上…!」

途切れそうになる意識をどうにか繋いで、キアノスの身体を揺さぶる。

反応はない。

なんで、どうしてこんなことになっている。

なんで、血を流して倒れている。

「…リオネル…約束は、守るんだ…」

キアノスが微かな声でそう言った。

「…父上との…約束…」

そんな、そんなことよりも、自分のことを。

「…リオネル…俺にとってお前は、この世界で一番大切な存在なんだ…稽古を嫌がって逃げ回っているところも可愛くって仕方ない…」

リオネルの目からは大粒の涙が溢れる。

「…リオネル…お前は生きろよ…幸せになれよ…ああ…何年かしたら結婚でもすんのかなぁ…見たかったなぁ…リオネル…兄は…お前のことが大好きだ」

笑顔でそう言って、兄は目を閉じた。

もう、叫ぶ余力も意識もなかった。

リオネルは兄と一緒に地面に倒れる。

でも、最後に一言だけ聞こえた。

「皇太子を…エリオット国皇太子を討ったぞー!」

それが、リオネルの聞いた最後の声だった。





式典の会場は室内に移り、各々が思うままに過ごしていた。むろん、中に入れたのは貴族だけだが。

メアは顔見知りの数名に挨拶を交わしてから、例の人物に話しかけられた。

「一杯どうだ?」

もちろん、その相手はリオネルである。早朝にコミュニケーションを取ったとはいえ、未だメアからは話しかけられないので、あちらから来てもらうのはありがたい。

「ええ、もちろん」

メアはそう言って、近くを通りかかったバチェラーから酒を受け取る。

リオネルは心底嬉しそうな顔をして椅子のあるところへ案内してくれた。

案内されたのは周りにあまり人のいない、会場からは少し離れた場所だった。そこに隣り合わせに置かれた椅子に二人は腰掛ける。

「もう、五年ね」

メアには早いとも遅いともいえぬ五年だった。

「ああ、そうだな」

リオネルはどう感じているのだろうか。目の前で兄の亡くなる様を見た人の心情を知ろうとするなど不可能話だが、それでも心配になってしまう。

「大丈夫じゃなかったら、いつでも言ってね。辛さを紛らすことくらいはできるかもしれないから」

過去を変えてあげることはできない。でも、支えることならできる。

「じゃあ、お願いしてもいいか?」

自分で言ったものの、意外な反応が返ってくる。

「手を、握ってくれないか?」

「それで落ち着く?」

「ああ」

ならば仕方がない。握るしかない。

でも、胸の鼓動が早まる。きっと顔は赤くなっていることだろう。バレないように下を向いて、彼の手の上からぎゅっと握る。

「ありがとう」

嬉しそうにリオネルは言った。メアにはその声がどうも子供っぽく聞こえてしまって彼の顔を見た。不安そうな、寂しそうな、でも安心したような。そんな顔だった。

メアは思い出す。

そういえばあの日も、こんな顔をしていた。



キアノスの葬儀は亡くなった翌々日に行われた。

もちろん、メアもそれに参加した。

着いてすぐに教会に行き、一番前の席に座る。リオネルはそれよりもずっと前、棺のすぐ近くに両親と一緒に立っていた。その顔からは心情を伺えなかった。

それからしばらくして、歌が響き、祈りが捧げられ、棺が運び出された。

ウェルズリー家を先頭にして行列ができる。ウェルズリー家のすぐ後ろはもちろんカペル家だ。メアはリオネルの顔色を伺おうと、何度か話しかけようとしたが出来なかった。

今も変わらない、街のあの大通りを棺と貴族の行列が通る。道の脇には街の人々だろうか、多くの人が棺を見送っていた。それだけで、どんなにキアノスが慕われていたのかが分かる。

ゆっくりと歩みを進めていると、小さな声だったがなぜかメアの耳はそれを拾い上げた。

「皇太子様は、王子様を庇って亡くなったんですって」

「王子様ってほら…あまり剣術がお上手じゃないって噂よ」

「王子様の腕が悪かったから皇太子様が亡くなったんじゃない?」

「王子様がいなかったら皇太子様は亡くならずにこの国が負けることなんてなかったはずなのにね…」

そんな言葉があちこちから聞こえた。メアは驚いた。彼女もキアノスの死の詳細はなんとなく聞いていたが、まさかこんなこと言うような人間が存在するなんて思ってもいなかった。

リオネルを見ると、彼にも聞こえていたようで今にも泣きそうな表情で俯いていた。

なんで、なんでリオネルがこんなこんな目に遭わないといけないのか。

何の罪もないのに、必死に戦ったのに。

そう思うと居ても立っても居られなくて、メアは無意識の内に言っていた。

「…ねえ!なんでリオネルが悪者になっているの!?彼は何も悪くないわ!この国のために…あなたたちのために必死に戦ったのよ!それなのに、なんでそんな無神経なことが言えるのよ!」

列に並ぶ貴族の人々は驚いて固まっていた。

街の人々も驚いたが、すぐにコソコソと何かを話し始めた。

しかし、リオネルだけは─ウェルズリー家の人間だけは嬉しそうに顔を綻ばせた。


その後はハイゼルに散々叱られた。

「あの場で言うことじゃない」

「恥晒しをするな」

「そもそもお前は…」

そんなことを言われたけれど、後悔はしなかった。自分の行動が正しいと思ったから。少しでもリオネルのためになったのなら、叱られることなんていつもに比べて怖くはなかった。


埋葬が終わり人々が城に戻って食事をしている最中、リオネルだけがその会場にいなかった。彼の両親に聞くと「部屋に篭っている」と言ったので、行き慣れたリオネルの部屋まで足を運んだ。

こんなことをしたのは、単に食欲が湧かなかったのもあるがそれとはもう一つ。リオネルが心配だったから。

何度も訪れているせいか、迷わずスムーズに部屋の前まで着くことができた。

そして、一呼吸おいてノックする。

「リオネル?メアだけど…その、中に入ってもいい?」

「うん」

思ったよりもあっさりリオネルは許可を出してくれた。

中に入ると、いつもは綺麗にされている部屋が驚くほど散らかっていた。床には散々物が転がり、足の踏み場がないくらいだった。

「ごめん、掃除していなかったんだ。今片付けるから、ちょっと待ってて」

メアが入るや否や、リオネルは慌てて床に落ちたものを拾って、元置いてあったであろう場所に片付け始めた。

「掃除していなかった」というのが嘘ということはすぐに分かった。綺麗好きのリオネルが、こんな風になるまで掃除しないはずがないのだから。

「いいわよ、このままで。ただ、心配で来たの」

メアが優しくそう言うと、リオネルは片付ける手を止めて沈んだ声で言った。

「… 俺は兄上を殺したと同義なんだ」

何を言っているのか、一瞬分からなかった。でも、リオネルの今にも泣きそうな顔を見て声をかけなければはいけないと思った。

「言ったでしょう?あなたは何も悪くない。あんな何も知らない人たちの言葉を信じてはいけないわ」

あんなことを言う人は、それこそ処刑されれば良いと思う。人がどんなに辛いかも分からず、平気で人の心を抉るようなことを言うような人はいなくなればいい。

でも、メアの言葉はリオネルには届かなかったらしい。

「俺がもっと強ければ、そもそも戦いになんて行かなければ、兄上は生きていた。俺が兄上を殺した」

「違うわ」

メアは間髪入れず否定した。でもやはり、リオネルにはうまく届かない。

「じゃあ何故、兄上は死んだ!俺がいなければきっと生きていた。兄上は生きるべきで、俺が死ぬべきだった。あいつらの言うことが正しいんだ!そうだろう!?」

メアに向けた怒りではなく、自分で自分を責め立てているような言い方だった。リオネルがリオネルでなくなってしまうようなそんな雰囲気で、メアはどんな言葉をかければいいのか分からない。あなたは悪くないと、それを分かってもらいたいのに良い言葉が見つからない。何か言わないとリオネルが壊れてしまう。

何と言うのが正解なのだろう。

「…すまない」

先に言葉を発したのはリオネルの方だった。メアが戸惑っていたから、冷静になったのだろう。いつものリオネルに戻ると、声を震わせて話し出す。

「悔しいんだ。焦って驚いて、何もできなかった。あの時すぐに身体に剣を振っていたら相打ちになっていたはずだ。そうしたら…もっと早く奴に傷を与えていたら、死ぬのは俺だけで済んだかもしれない」

リオネルが言うのだから、そういう状況だったのだろう。

でも、それでも彼は気を抜いていたわけではなかった。どうすることもできなかった。誰が悪いわけでもないはずだ。

こんな時、どうするのが正解なのだろう。これ以上声をかけても聞き入れてもらえないだろう。

だったら─

「何をして…」

リオネルがそう言った。

それもそのはず。メアは優しく包み込むようにリオネルの体を抱きしめていた。

「我慢してたの、全部吐き出していいよ。ここにはリオネルと私しかいない。私が受け止めるから」

それがメアにできる最大限のことだった。

人は抱きしめられると安心する。一人で寂しくて泣いていた時、母が抱きしめてくれると涙が止まる。どんなに怒られても、パメラの胸の中にいれば自然と世界が優しく見える。

リオネルには今、抱きしめてくれる人がいない。両親は忙しくしていて構ってくれない。使用人だって、会場に提供する食事の用意をしていて暇なんてない。

だから、自分が代わりになってあげないといけないと思った。

「リオネルは悪くない。十分頑張った。頑張った」

メアは頭を撫でた。

リオネルは最初こそ固まっていたが、次第にメアの背中にしがみつくように腕を回し、嗚咽を漏らした。

「どうしたらいいんだよ…」

目を涙いっぱいにしてそう言った。それは自分に対して、そしてこれから先の未来に対して言っているように聞こえた。

「リオネルが生きていてくれて、本当によかった。私、あなたがいなくなったらちっとも楽しくないわ。だから…死ぬべきだったなんて、言わないで」

散らかった部屋にはリオネルの声だけが響いた。

絶望と不安が入り混じった、そんな声。


大人になるには、十分すぎる経験だった。




手は未だ握ったまま。この時間が幸せでずっと続いてほしいと思った。

「そうだ、メア。明日は…」

リオネルがそう切り出したところで、彼の執事であるベルが慌てた様子で城を駆け回っていた。

「ベル、どうかしたか?」

「ああ、坊ちゃん!ここにおられましたか」

どうやらリオネルを探していたらしい。まあ、この執事が慌てふためく理由など坊ちゃんを探しくらいしかないか。

ベルは「ちょっとお耳を」と言って、メアには聞こえない声で何か話すとリオネルは珍しく驚いた様子だった。

「分かった。悪い、メア。ちょっと席外す」

沈んだ声でそう言ってから立ち上がった。

「どこ行くの?」

悪い予感がした。リオネルが何か取り返しのつかないことに足を突っ込んでいるような気がした。

「大丈夫」

リオネルは笑った。そして執事と二人でどこかへ走って行ってしまった。


メアには酒の入ったグラスだけが残った。




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