第16話 懐かしい思い出

その時、風が二人の間を吹き抜けた。

リオネルの白銀の髪がなびき、香水の香りが漂う。今この瞬間、この世界に二人だけしかいないような錯覚を覚えた。

リオネルの感情が読み取れない。嬉しいのか悲しいのか、寂しいのか心が躍っているのか。でも、何か大切なことを伝えようとしていることだけはわかる。そしてそれが何なのか、もしかするとこの時にはすでに勘づいていたのかもしれない。

「メア、俺の妻になってほしい」

目の前の皇太子は目を合わせて逸らさない。その仕草が嘘をついていないことを物語っていた。

メアは目の前が吹雪に吹かれた時のように、真っ白に見えた。輝いても見えた。周りの音は何も聞こえない。何も考えられない。

でも答えはもう出ていた。だからそれをはっきりと伝えるだけなのだけれど…己の考えに背いたことを口にしようとしているみたいに口が動かない。

「迷惑だということも傷つけるということもわかっている。だけど、伝えずにはいられなかった」

彼がどれだけ自分の気持ちと葛藤して、メアのことを考えたのか計り知れない。だから、生半可な思いやりのない言葉をかけることはできない。

「リオネル、ごめん」

それが、メアの出した答えだった。

「私には決められない。私は、私たちは、自分の感情だけで人生を決めれるほど、自由な身じゃない。普通の人と重ねてはいけない」

恩師のクレアのように自由に結婚できたなら、国や家のことなんて考えずに普通の人と同じように恋愛できたなら、どれだけ楽しい人生だっただろう。きっと毎日心が躍って、世界が輝いて見えたことだろう。

でも、メアは王家の長女だ。それは死ぬまで覆らない事実だ。どれだけ羨ましがっても叶うことはない。だから、結婚なんてどうせいつかさせられるんだから、その時のために覚悟をしてきた。

「私はいつか父が決めた人と結婚する。あなたもきっとそうなるわ。そしてお互いに家庭を持ったら、今のように話せなくなる。その時私は笑っていないかもしれない。時間が巻き戻ればいいのにと思うかもしれない。だけど、それ以外に道はないから、その未来を受け入れるしかないから。だから諦め─」

その時、メアの体とリオネルの体の距離は無くなった。つまり、抱き寄せられた。彼はメアの後ろに腕を回し、もっと強く、苦しくならない程度に抱きしめた。

メアは驚き、戸惑い、硬直してしまう。

「諦めないよ」

優しく、けれども強い意志を持った声でリオネルは言った。

「俺は絶対諦めない。メアの描いている未来を変えてみせる。お前を未来でも笑わせてやる」

メアはゆっくり彼の体から離れるとリオネルも腕を緩めた。

メアは目を合わせられなかった。それが罪悪感からなのかはわからない。

「…そうなったら…未来でも笑っていられるのなら、どれだけ幸せなことか」

メアに未来なんて描くことができない。未来を創るのはいつも自分ではなくてハイゼルだ。

リオネルは何も言わない。目を見れないから何を考えているのかもわからない。

初めて、リオネルの横にいて苦しいと感じた。彼の気持ちに応えられないことも、自分がわからないことも全部苦しい。逃げ出したい。でも、ここで逃げてはいけない。真っ直ぐ向き合わなければならない。


『どうか、ずっと側にいてあげてください』

ヘンティルの言葉がよぎる。


でも…


足が扉の方へ行こうとしている。

ダメなのに。ここで逃げたら最低なのに。


メアは無意識のうちにバルコニーの扉を開いて室内に駆け込んでしまっていた。正確に言うと走って出て行ったわけではないが、何も言わずリオネルの元を離れてしまった。

静かな廊下を下を向いて歩く。でも、涙が溢れて絨毯の模様もよく見えない。

なんで、泣いているのだろう。

わかっていた結果なのに。それを望んでいるはずなのに。

リオネルに想いを寄せてなんて

「メアさん」

前を向いていなかったせいで気が付かなかったが、目の前にはヘンティルがいた。彼から明かされた通り、へんティルもこの家の血族なので城に泊まるのだろう。

「ど、どうしたのですか?そんな顔をして…」

こんなに動揺しているのは初めて見た。

メアは何も答えられない。答える資格なんてないと思った。

「失礼します」

心配をしていくれている人に対して失礼な対応だったが、それ以外のことをできなかった。

メアは逃げるようにその場を去り、用意してもらった部屋に戻った。



リオネルは一人バルコニーに残っていた。何をするわけでもなく、ただ星空を眺めていた。

追いかければよかっただろうか。追いかけたら、それこそ格好いい男だっただろう。でも、それがメアにとって重荷になることくらいリオネルにはわかる。

「兄上、何かあったのですか?メアさんが涙をいっぱいにしていましたが…」

後ろからそう言ってきたのは他でもないヘンティルだった。

「その呼び方やめろ」

彼は普段リオネルのことを兄上だなんて呼ばないのだが、久しく会っていなかったりするとそう呼ぶ癖がある。ヘンティルはリオネルにとって何でも話せる親友のような存在だ。堅苦しく呼んでもらっては、リオネルはいよいよ一人になってしまう。

「もう少し自分の立場を誇ればいいのに」

そう見えるかもしれない。しかし、誇れるほどの器も実力も持ち合わせていないのだから誇るに誇れない。

「お前にとって俺は皇太子か?」

試すように聞いた。もっとも、返事は分かっていたのだけれど。

「分かったよ、リオネル」

ヘンティルはいつもの調子に戻った。

「さて、話を聞こうか」

リオネルはやっと安心する。今なら何を話しても許されると思うから。

「振られたよ」

たった一言。けれど、事を表すには十分すぎる言葉だった。

「…振られた?メアさんに?」

ヘンティルは些か信じられない、というような顔と声で言った。

この反応から想像するに、二人は必ず結ばれる運命にあると思っていたのだろう。残念ながらそうはならなかったけれど。

「それはまたどうして」

ヘンティルの疑問はまだ拭い切れないらしい。

「それが分かっていたら苦労はしないだろう」

彼女がなぜそこまで国を大切に思うのか、正直リオネルには想像しかねる。

確かにリオネルも皇太子という次期国王の身ではあるのだが、国に対する想いはメアに劣る。

ただ単に、気がないだけかもしれないが。

「追いかけなくて、よかったのか?」

「お前だったら追いかけるのか?」

「どうだろうか。でも、鬱陶しく思われても自分の気持ちは伝えるだろうな」

そう思える彼がリオネルは羨ましかった。

いつも素直に気持ちを伝えられて、相手の欲しいものを与えられる。ヘンティルほど器用だったら、どんなに気持ちが楽だったろうと思う。

「いいな、器用で」

嫉妬や妬みではない、尊敬の言葉だった。

器用な彼は、その言葉をリオネルの意図通り受け取った。

「必ずしも器用が良いとは限らない。不器用にも良いところはたくさんある」

そうなのだろうか。今のところ不器用である利点は見つからない。

「諦めるつもりはないんだろう?」

「ああ」

どんなに不器用でも、諦める気にはなれなかった。彼女を誰にも奪われたくない。ずっと一緒にいたい。その気持ちが絶えることは一生ないだろう。

「もしダメだった時は、俺が貰うから安心してくれていいよ」

「…はあ!?」

一瞬何を言っているのか理解できなかったが、冷静に考えたら何を言っているのだ、この馬鹿は。振られた家族をを目の前にして言うことか。

しかし冗談だったようで、ヘンティルは心底楽しそうに声を上げて笑った。

「ははっ、冗談だよ。そんな馬鹿な真似はしないさ」

「恐ろしいこと言うなよ…」

笑いながら「悪かった」と付け足していたが、反省していないのは誰が見ても分かる。

まあでも、こんな風に冗談を言い合うと話せて心の中では嬉しかった。王家の人間だからと友達ができなかったリオネルにとって、ヘンティルはかけがえのない存在だ。

今の冗談もきっとリオネルを励まそうと思って言ってくれたのだろう。そんなところまで気を遣えるできた奴だ。

彼がいなかったら、今の自分はなかったと思う。

「にしても、綺麗な空だな。ヴィーヴィオではここまで綺麗に見えないよ」

「そんな風情を感じる性分でもなかろうて」

「おい、俺は意外と自然を好むんだぞ?」

「どうだか」

二人は笑った。まるで何事もない人生を生きているようであった。

こんな幸せな時間がいつまでも続くと錯覚していた。この先も永遠に笑っていられるのではないかと、確信して疑えなかった。


なぜ人は失ってからしか大切なものに気づけないのだろう。

なぜ、当たり前が壊れるはずもないと確信してしまうのだろう。

悪夢が迫ってきていることにも気づかずに。



 *



メアは用意してもらった部屋に篭っていた。

夕食は体調が悪いと言って部屋に運んでもらった。食欲も湧かなかったが、残すわけにもいかないのでどうにか食べ切った。その後眠ろうと思ってベッドに入ったが寝付けず、ただただ時間だけが過ぎていた。窓から見える空は少し明るい。夜が明けようとしている。


ずっと考えていた。

なぜあの時すぐに断る言葉が出てこなかったのか。一瞬、心が揺らいだ気がしたのはなぜなのか。


答えはとうの昔に分かっていたのかもしれない。


─私は、リオネルのことが好きなんだ


気づかなかった。いや、気づかないふりをしていた。

誰かを好きになったって叶わない身だから。夢や希望を抱いたところで傷つくだけなら、抱かないほうが楽だと思ったから。

でも、思ってしまった。この人と─リオネルとずっと一緒にいたいと。彼の側でならきっといつまでも笑っていられる。そう思えた。

でも、現実はそううまくはいかない。

女王となるべく人間が他国の皇太子と結婚してしまえば、ヴィーヴィオの次期国王はどうするのか。

そもそも、そんな話をハイゼルに話す勇気も度胸も持ち合わせていない。


もしお互い王家ではなく、どこか一般的な家に生まれてそして巡り会えたのなら、どれだけよかったことか。

幸せだったに違いない。

でも、どれだけ考えても答えが変わることはない。考えるだけ無駄だ。


そう思って部屋から出て、螺旋階段を降り、庭に出る。

三月の早朝は肌寒かった。

こんな朝早くに起きて外に出ることなんて滅多にないので、朝の空気の新鮮さを感じる。早起きも案外悪くないかもしれない。

石畳の敷かれた道を歩く。誰もいないそこにはメアの足音だけが響いた。

と思ったが。


ひゅう


何かを斬るような音が聞こえた。

それは間違いなく聞きなれたあの音。

音の方向に顔を向けると、そこには予想した通りの人物がいた。

鍛えられた色白の上半身に、高い背丈。輝くような白銀の髪。

そこにいたのは間違いなくリオネルであった。稽古をしているのだろうか。そのまま声をかけずに部屋に戻るか、それとも声をかけるか。メアが逡巡しているとその皇太子は振り返った。メアは何も音を立てなかった。振り向いたのは偶然だろう。

「すまない。稽古の音、うるさかったか?」

どうやらリオネルは自分の稽古の音でメアが目を覚ましたと思っているようだ。

それよりも、何事もなかったかのように話しかけてくるリオネルに戸惑い、先ほどまでの自分が馬鹿馬鹿しく思えた。

メアは首を横に振って答える。

「…そうじゃないの。ちょっと、眠れなくて」

「奇遇だな。俺も眠れなかった」

てっきり稽古をするために起きていたものだと思っていたので意外である。

いつもなら駆け寄って話すところだが、今日はその場に立つことしかできない。対してリオネルは、先ほどのことを本当に気にしていないかのように稽古を続けている。

隙のない足運び、洗礼された太刀筋。無駄のないそれは、メアの目を惹きつけた。

これまで、リオネルがどれだけの思いで努力をしてきたか。変えられぬ過去を背負いながら懸命に生きて、でもその先に何があるかなんてわかっていない。

誰のせいでもないと、メアがどんなに言い聞かせてもそれだけは変わらなかった。

自責し続ければいつか壊れる。それが分かっているのに何もできない。

「メア、覚えているか?昔、よくこうして遊んだよな」

突然、リオネルがそう言った。

そうだった。昔、まだまだ子供だった頃、よく二人で剣術をしていた。そして、遊んでいるうちに鬼ごっこに変わってしまうのだ。むろん両方ともリオネルには敵わなかったけれど。

それでも楽しかった。

メアが負けを認めないで、リオネルはわざと上から目線で喜ぶ。エリオットに訪れた時にはそんなことばかりしていた。

互いに親しい友人などできなかった身。だからいつまでも遊んでいられた。その時だけは身分を気にせず、好きなようにできた。

唯一自由になれる瞬間だった。

「…ええ、覚えているわ。とても楽しかったわよね」

「ああ、楽しかった」

でも、そんな時間も終わりに近づいているのかもしれない。下手したらあと一年もすれば楽しい時間はなくなるかもしれない。

この幸せを手放したくなかった。だから、自分の気持ちに気づかないふりをしていた。

何事にも執着してしまえば、失うと分かっていたのに。

そんなことを思っていたら、リオネルが稽古をやめてゆっくりとこちらに近づいてくる。何だろうか。もはや想像できない。

「はい」

彼は自分の使っていた木刀とは別の木刀をメアに差し出した。

「久しぶりに遊ぼうじゃないか」

メアは驚いて受け取れない。この人は一体何を言っているのか。

「もう、私たちは子供じゃないでしょう?遊ぶなんて…」

リオネルの提案が嫌だったのではない。ただ、自分が自分ではなくなりそうで怖かった。

「大人が遊んではいけないなんて誰が決めた。ほら、遊ぼう?」

それは子供のリオネルだった。ただ純粋に遊びたい時の彼だった。


『メア!遊ぼうよ!』


いつかの懐かしい記憶が脳裏によぎる。楽しかった。幸せだった。

それを終わらせようとしていたのは、自分自身だったのかもしれない。

いつかは確実に終わる。けれど、まだ終わっていない。

だから、メアは笑顔で答える。

「あなたの言う通りね。遊びましょう」


『いいよ、遊ぼう!』


子供の頃のように二人は駆け出す。

この幸せが永遠に続くと思っていたあの日のように。


幸せすぎて,悪夢が迫っていることにも気づかずに。





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