第四話:黄昏時の訪問者

汐見町での生活が始まってから、一週間が過ぎようとしていた。相変わらず、夜になると、あの不気味な音が、微かに聞こえてくる。しかし、その音に恐怖よりも、むしろ、強い好奇心を感じるようになっていた。それは、作家としての性なのか、それとも、この町がそうさせているのか。その答えを、水野はまだ見出せずにいた。


その日の夕暮れ時、いつものように、古びた文机に向かい、ノートを開く。しかし、ペンは、一向に進まない。脳裏には、カフェ「灯台」のマスター、古川清の言葉が、繰り返し、蘇っていた。「この町には、長くいるべきではない」「あれは、この世のものではない、そんな気がする―」。


ふと、誰かが、玄関の扉をノックする音が、静寂を破った。軽く、しかしはっきりとした、三回のノック。こんな時間に一体誰だろう? この町に来てから、訪問者など一人もいなかった。不審に思いながらも玄関へと向かう。


扉を開けると、そこに一人の少女が、夕闇の中に佇んでいた。汐見高校の制服を着た、どこか儚げな、しかし、芯の強さを感じさせる少女。長い黒髪は、風に揺れ、残照を柔らかく反射している。この町では、見かけたことのない少女だった。


「こんばんは」


少女は、静かに、そう告げた。その声は、鈴を転がすように澄んでいた。


「あの…、どちら様でしょうか…?」


戸惑いながら、尋ねる。


「私、霧島凛と申します。…少し、お話がしたくて…」


「霧島…凛さん…?」


聞き覚えのない、その名前に、首を傾げた。


「ここじゃ、何ですから、中に入れて、いただけませんか…?」


凛はそう言って、彼を見つめた。その瞳はどこまでも深く、そして、何かを秘めているようだった。その瞳に吸い込まれそうになりながら、無意識のうちに頷く。


凛を家の中に招き入れる。一歩、敷居をまたぐと、彼女はまるで、この家にずっと前から住んでいたかのように自然な足取りで、奥の居間へと進んでいく。そして、畳の上に、ちょこんと正座した。その所作は、不思議とこの古い家に馴染んでいた。水野はその向かいに座る。


「それで…、お話というのは…?」


促すように言葉をかける。凛はしばらくの間、黙って彼を見つめていた。その瞳には、どこか切実なものが宿っているように見えた。


「この町のことです―」


凛はゆっくりと、そして、はっきりとそう言った。


「この町には、何か、普通ではないことが起きているんです」


その言葉は、彼の背筋をわずかにひやりとさせた。


「普通ではないこと…?」


「ええ…、説明するのは難しいんですが…、うまく言えない…」


そこで、言葉を詰まらせる凛。それを、言葉にすることを、ためらっているかのようだった。


「そして、そのことに、最近、この町に来られた水野さんが、関わっているような気がするんです…」


「僕が…?」


小さく、凛は頷いた。


「あなたは、この町に、呼ばれたのかもしれません…」


凛は、彼の手をそっと握った。その手は、氷のように冷たく、そして微かに震えている。


「どうして、そんなことが、わかるんですか…?」


凛の手を、握り返しながら、尋ねる。


「私には、わかるような、気がするんです― 」


そう言って、凛は目を伏せた。長い睫毛が、その頬に影を落とす。彼女の言葉は、到底信じられるものではなかった。しかし、その真剣な表情、そして、その冷たく震える手の感触が、何かを訴えかけているようだった。


「信じられませんよね…、でも…」


「信じます、というより、何となく、わかる気がします」


凛の言葉を、遮るように、彼が言った。


「この町に来てから、ずっと、感じていたんです。何か、普通じゃない何かが、この町にはあるって」


驚いたように、目を見開く凛。そして、ゆっくりと彼の手を握り返してきた。


「あなたにも、感じるんですね…?」


「感じる…? 何を…?」


「言葉にするのは難しいけど…、この町に漂う、何か…」


凛は、そう言って、微笑んだ。しかし、その微笑みは、どこか、寂しげだった。


「私、この町の高校に通っているんです。…佐伯彩香さんとは、同じクラスでした」


凛は、途切れ途切れに、話し始めた。彼女の話によると、彩香は、明るく、誰からも好かれる、人気者だったという。しかし、失踪する数日前から、何かに怯えているような様子だったらしい。


「彩香、何か、隠してたのかな…」


そう呟き、凛は目を伏せた。


「それで、あなたはその、普通じゃない何かについて、知っているんですか?」


核心に迫ろうと、問いかける。凛は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「詳しくは、わかりません。でも、夜になると、海のほうから聞こえてくる、あの音 ― あれが、何か、良くないことと関係があるような気がするんです」


「あの音…、僕も、聞こえます」


凛の目を、見つめ返す。


「水野さんは、その音を、怖くはないんですか?」


「怖い、というより…、知りたい、という気持ちの方が、強いんです」


正直な気持ちを、凛に伝える。


「そうですか…」


そう言って、凛は小さく、微笑んだ。その微笑みは、先ほどよりも幾分か、明るく見えた。


その時、突然、窓の外が明るくなった。まるで、何かが、強い光を放ったかのようだった。二人同時に、窓の方を見る。しかし、そこには何もなかった。ただ、夜の闇が広がっているだけだった。


「今の…、何…?」


尋ねるが、凛は、何も答えなかった。ただ、じっと、窓の外を、見つめているだけだった。その瞳には、深い恐怖の色が、浮かんでいた。


そして、彼には、聞こえた。すぐそばで、微かに、何かが軋む音がしたのを。


「行きましょう」


凛が、静かに、しかし、力強く、言った。


「どこへ…?」


「音の、する方へ ― きっと、そこに、何かがあるはずです」


水野は 凛の手を強く握りしめ、立ち上がった。震える足。しかし、不思議と恐怖はなかった。それよりも、この先に何かが待っている― そんな強い予感が、彼を突き動かしていた。


「二人で、真実を見つけましょう」


凛が、彼の目を真っ直ぐに見つめながら言った。その瞳には、強い決意の色が宿る。水野は、凛の手を握り返し、深く頷いた。

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海蝕のメランコリア 朝宮行人 @hiroyuki_th

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