第三話:閉ざされた楽園
汐見町に水野浩が足を踏み入れてから、三日が経とうとしていた。あの不気味な夢、そして現実に微かに聞こえる あの異質な音は 心を静かに蝕みつつあった。この町に漂う 言いようのない違和感の正体を突き止めたい、そんな思いが 日に日に強くなる。
その日、水野は汐見町を改めて散策することにした。家を出ると 昨日とは打って変わって 雲一つない快晴である。しかし 空の青さは 心を晴らすことはなかった。妙な静けさが 町全体を包み込んでいる。町全体が 固唾を呑んで 何かを待っているかのようだった。
海岸沿いの道を歩く。潮風が 頬を撫でる。しかしその風にはどこか生ぬるい妙な感触があった。ふと道端に佇む一人の老女に目が留まる。彼女は 虚ろな目でじっと海を見つめていた。軽く会釈をし 通り過ぎようとした。その時、彼女は小さな声でこう呟いた。
「もうすぐ…、来る…」
思わず足を止める。しかし老女はそれ以上何も言わなかった。ただじっと海を見つめているだけだった。もう一度会釈をし、その場を後にする。
さらに歩いていくと今度は若い男性とすれ違った。男はこちらを一瞥したがすぐに目をそらし足早に立ち去った。その目は何かを恐れているかのようだった。そしてその足取りは、まるで何かから逃れようとしているかのようだった。
町の中心部にある商店街へと足を向ける。しかしそこは、まるでゴーストタウンのように静まり返っていた。ほとんどの店はシャッターを下ろし人通りもほとんどない。時折、数人の町人とすれ違うが皆一様に無表情で、どこか上の空だった。
この町の異様を、誰かと共有したい、そんな衝動に駆られた。その時、ふと不動産屋から聞いていた、カフェ「灯台」のことを思い出す。確か、この町の中心部あたりにあるはずだ。人気のない商店街を、不安な気持ちを抱えながら歩き続ける。
しばらく歩くと、古びたレンガ造りの建物が見えてきた。そこが カフェ「灯台」だった。赤い錆が浮き出た「灯台」の文字は、ほとんど消えかかっている。しかし、確かにそこは「灯台」だった。大きな窓から店内の様子をうかがうことができる。年老いたマスターと数人の所在なさげに座る客らしき人影が見えた。意を決して、重い扉を押す。
カラン、と乾いたベルの音が、妙に大きく店内に響いた。古川清と名乗ったマスターは 写真で見たよりもずっと老けて見えた。そして、その眼差しは まるで凪いだ海のように静かだった。カウンター席に腰掛け コーヒーを注文する。
「…この町は、いつも、こんなに静かなんですか?」
しばらくの沈黙の後、思い切って尋ねてみた。古川は カップを磨く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「そうですね…、昔は もう少し 活気もあったんですがね」
その声は、どこか遠くを見ているかのようだった。
「何か、この町で、変わったことはありませんでしたか?」
さらに問いかけた。核心に迫りたい、しかし、それを言葉にするのは躊躇われる、そんな複雑な思いが胸中に渦巻いていた。古川はしばらくの間、黙ってこちらを見つめている。そして ゆっくりと口を開いた。
「―― そう言われてみれば、最近、妙な噂が立っているようですね」
「妙な、噂…?」
「ええ、何でも 夜に 海の方から 奇妙な音が聞こえてくる、とか」
古川はそこで 言葉を切り、カップを置いた。
「それと、もう一つ ――」
彼は 何かを思い出すように、目を細めた。
「若い女性が、ひとり行方不明になっているらしいです」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。それはこの町に来てからずっと感じていた、あの不穏な気配とどこか繋がっているような、そんな気がした。
「その、行方不明になった女性のこと、詳しく教えてもらえませんか?」
気がつけば、そう尋ねていた。古川は、一瞬、ためらうような表情を見せたが、やがて、静かに語り始めた。
「佐伯彩香さん、この町で生まれ育った、17の 明るい子でした。高校では 吹奏楽部に所属していて トランペットを」
古川は、そこで言葉を詰まらせ、小さく息を吐いた。その瞳には、深い悲しみの色が浮かんでいた。
「それが、一ヶ月ほど前、突然、姿を消してしまったんです。学校から帰る途中だったらしいんですが、誰も 彼女の姿を見ていない。警察も ずいぶん捜索したようですが 結局 手がかり一つ 見つからなかった…」
「何か、変わったことは ありませんでしたか? その、失踪する前とか」
「変わったこと、ですか?」
古川は 顎に手を当て 記憶の糸を手繰り寄せるように考え込んだ。
「そう言えば、彩香さんが失踪する少し前、このあたりで 大きな地震がありました。たいした揺れではなかったんですが、この町では珍しいことでしたから」
「地震、ですか」
「ええ、それと地震の後、何日か海が妙に濁っていたんです。赤茶色というか、まるで 血が混じっているような。気味の悪い色でした」
古川はそう言って身震いをした。
「その地震と、何か 関係があるんでしょうか」
「さあ、それは、わかりません。ただ―」
古川はそこで 再び言葉を切り、窓の外に目を向けた。
「ただ、あの地震の後からなんです、この町が おかしくなったのは」
「おかしくなった、というのは…?」
「何と 言えばいいんでしょうか。皆 生気を失ってしまったというか 抜け殻のようになってしまったというか。そして 夜になると あの奇妙な音が…」
古川は 重い口を開き、ゆっくりと、しかし 詳細に語ってくれた。地震の後の、海の異変。夜になると聞こえる 不気味な音。そして 町の人々の 不可解な変化。それらは どれも、彼がこの町に来てから感じていた違和感と見事に一致していた。
「その音は、どこから 聞こえてくるんですか?」
「おそらく、海でしょう。しかし、正確な場所は わかりません。ただ、あの音は 聞いていると何とも言えない、不安な気持ちになるんです。まるで 海の底から何かが 語りかけてくるような…」
古川の言葉は、彼の背筋を、再び、ぞっとさせるものだった。しかし 同時に 作家としての好奇心、いや、それ以上の強い衝動が水野を突き動かしていた。
「その音を、もう一度、聞いてみたい…」
彼は、そう、呟いていた。古川は、驚いたように、彼を見つめた。
「やめた方がいい。あれは この世のものではない そんな気がする…」
「でも…」
「あなたは、この町に 長くいるべきではない」
古川は、静かに、しかし、はっきりと言った。その言葉は、忠告というよりも、まるで、予言のように聞こえた。
「どうして、そんなことが、わかるんですか?」
「わかりません。しかし そう感じるんです。あなたは この町に いてはいけない…」
店を出ると、外はまだ、午後の光の中にあった。
しかし、水野の心は深い闇に沈んでいた。
「この町に、いてはいけない…」という古川の言葉が、頭の中で、波のように繰り返し打ち寄せ、その度に不安を増幅させていく。
だが、もう引き返すことはできなかった。この「閉ざされた楽園」の深淵を、垣間見てしまった。海の底で、蠢く「何か」の気配を、感じてしまった。
―― まだ、水野浩は気づいてはいない。この町の「秘密」が、彼自身の「過去」と、見えない糸で、結びついていることに。まるで深い海の底へと、ゆっくりと、抗うこともできず沈んでいくかのように。彼は、この町の「秘密」へと近づいていく。そうすることが、初めから、決められていたかのように。
その先に待ち受ける「真実」が、彼を永遠に変えてしまうことも知らずに。
ただ、微かな潮騒の音が、遠く、彼を、誘っていた。
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