第二話:潮騒と不協和音
荷解きは、あっけなく終わった。ダンボール箱の中身は、東京で書き溜めてきた言葉の断片が詰まったノート、資料として購入した書籍、そして、必要最小限の生活用品。まるで、彼の人生そのものを、そのまま箱詰めにしたかのようだった。それらは、古びた箪笥や、作り付けの本棚に、無機質な動作で収められていく。この家で、新しい物語を紡ぐ。そう思うと、心は微かに震えた。しかし、同時に、この町の「静寂」が、まるで、魚の小骨のように、彼の心の奥底に刺さり、妙な違和感を残していることも、また、事実だった。
汐見町での最初の夜、軽い緊張が彼を包み込む。古びた文机に向かい、真新しいノートを開き、まだインクを通していない万年筆を手に取る。その滑らかな感触は、妙に心地よい。ペン先を、ノートの白いページに近づける。しかし、そこから、言葉は、紡がれなかった。頭の中は、妙に静かだった。静かすぎて、かえって、落ち着かない。嵐の前の静けさ、あるいは、獲物を狙う獣が、息を殺して潜んでいる時の、あの張り詰めた空気に似ている。
諦めたように、万年筆を置き、早々に床に就いた。目を閉じると、窓の外から波の音が聞こえてくる。規則正しい、そのリズムは、まるで、巨大な生き物の鼓動のようだ。それは、彼を、深い眠りへと誘う、子守唄となるはずだった。しかし、現実は、そう上手くはいかない。波の音に混じって、何か別の音が、聞こえてくるような気がして、なかなか寝付くことができないのだ。
寝返りを打ち耳を澄ませる。気のせいか? いや、しかし何度聞いても、やはり何かがいる。それは風の音でも、動物の鳴き声でもない。もっと低く、質量を持った、不規則な音。巨大な何かが、湿った地面を、這いずるように、家の周りをゆっくりと、しかし、確実に動き回っているような、そんな音だった。それは彼の不安を、そのまま音にしたかのようだった。
がばりとベッドから起き上がり、窓辺に寄る。外は深い闇に包まれている。月は厚い雲に覆い隠され、その光は地上には届いていない。じっと目を凝らし、闇の中を見つめる。しかし、そこには何も見えない。ただ暗闇が、果てしなく広がっているだけだった。それは彼の心の奥底に広がる、暗闇と同じ、虚無の色をしていた。
気のせいだ、と自分に言い聞かせるように呟く。しかし、その声は微かに震えている。この町に来てから、ずっと感じている、あの不穏な気配。それは夜の闇と共に、ますます濃くなっているような気がした。この「静寂」が、彼の心の隙間に、ゆっくりと、確実に、侵入してきているかのようだった。
その夜、奇妙な夢が彼を襲った。
――何故だかは分からないが、浩にはそれが「夢」なのだと、解っていた。
夢の中で、彼は暗い海岸に一人佇んでいる。
頭上には、重苦しい雲が垂れ込め、眼前に広がる海は、不気味なほどに静まり返っている。世界からすべての音が意図的に消し去られてしまったかのようだった。
波打ち際を、目的もなく歩き始める。足元がおぼつかない。砂浜の冷たい感触が、裸足に伝わってくる。ふと、どこからか、微かに、女性の声が聞こえてきた。
「―― たすけて」
その声は、潮騒に、かき消されそうなほど、か細い。しかし、確かに、それは彼の名前を呼んでいるようだった。声のする方へ足を向ける。しかし、どれだけ歩いても、どれだけ目を凝らしても、声の主の姿を見つけることはできない。
「どこだ…? どこにいる…?」
思わず叫んでいた。しかし、彼の声は暗闇の中に頼りなく吸い込まれ、波の音に掻き消されていく。ふと、足元に目を落とす。そこには、無数の魚が打ち上げられていた。それらはどれも黒ずんだ魚体で、不自然なほどに膨れ上がった体をしていた。そして、その濁った虚ろな目は、まるでこの世の終わりを、静かに、しかし確実に、告げているかのようだった。それは、おぞましい光景だった。
言いようのない恐怖に駆られ、彼は走り出す。しかし、どれだけ走っても、その悪夢のような海岸から、逃れることはできない。
「―――」
すぐ近くで、女性の声がした。振り向くと、長い黒髪の女性が、ぼんやりと立っている。風が、彼女の髪を静かに揺らしている。彼女はまるで儚い幻のように、そこに存在していた。白いワンピースを着ている。しかし、その輪郭は曖昧で、まるで闇夜に溶けてしまいそうなほど、頼りない。そして、何よりも彼女には、顔がなかった。
声にならない声を上げた。女性はゆっくりと、彼の方へ歩いてきた。水面を滑るように、静かに。そして、彼の手をそっと握った。その手は信じられないほど冷たかった。深海に沈む、冷たい石のように。
「どこへ…行くんだ…?」
かすれた声で、やっとの思いで、言葉を絞り出した。しかし、女性は何も答えなかった。ただ黙って、彼の手を引いて、闇の中を歩き続ける。その沈黙が、彼の恐怖をさらに増幅させた。
やがて二人は、海岸の端にある、小さな洞窟に辿り着いた。洞窟の入り口は、ぽっかりと暗い口を開けている。この世のすべての闇を、その奥に閉じ込めているかのようだった。女性はためらうことなく、洞窟の中へ入っていった。
一瞬、躊躇した。しかし、彼女の手の冷たさが、彼を、奥へ、奥へと、引きずり込んでいく。覚悟を決め、洞窟の中へ、足を踏み入れる。
ひんやりとした、湿った空気が、肌に、絡みつく。突然、足元が崩れ、まるで、巨大な生き物の口の中に吸い込まれていくかのようだった。悲鳴は、喉の奥で、小さな塊となって消えた。
叫び声は、誰にも届くことなく、暗闇の中に、吸い込まれていく。そして、彼は、そのまま、意識を失った…
「―――」
誰かが、彼の名前を呼んでいる。遠く、微かに、くぐもった音が、水底から響いてくるようだ。ゆっくりと目を開けると、見慣れぬ天井が目に入る。そして、カーテンの隙間から差し込む、容赦のない朝の光。ここは、汐見町の、あの、妙に静かな家の、寝室だった。窓の外は、もう、すっかりと明るくなり、日常が、彼を、否応なしに引き戻そうとしていた。
「今の…夢…だったのか…」
海底に沈んでいた体を無理やり引き揚げたように重い体を起こし 寝室の薄暗がりに目を凝らす。部屋の中は昨夜と何も変わっていない。読みかけの本が 彼の乱れた心を象徴するかのように床に放り出され カーテンは外の世界を拒絶するように固く閉ざされたままだった。しかし 水野の心は深い不安と、言いようのない恐怖で重く塗り固められていた。あの夢。あまりにもリアルな悪夢。顔のない 長い黒髪の 白い服の女性。深海の石のように冷たい手。そして あの洞窟。暗く 湿った 巨大な生き物の食道のような 永遠に続くような闇。
意志に反して小刻みに震える足を無理やり押さえつけ どうにかベッドから降り 窓辺に立った。外は 彼の心の闇を嘲笑うかのように皮肉なほど快晴だった。海は鏡のように穏やかに 静かに波打っている。しかし 彼の目にはその海が あの夢の中の不気味な海と重なって見えた。ねっとりと重く暗い海。鼻腔の奥に 潮の香りと微かな腐敗臭が まとわりつく。そして 海の底から あの異質な音が微かに しかし確かに聞こえてくるような気がした。それは 彼の心臓の鼓動と不気味なほど同調しているようだった。鼓膜の奥を じわじわと侵食してくるような低い音。
―― 予感がした。
引き返すことのできない、一方通行の道を、歩き始めてしまったかのように。そして、この町の「静寂」と「不協和音」が、何か恐ろしい出来事の前触れであることを、抗えない力で、直感的に、感じ取っていた。この悪夢が、彼に、何かを、警告しているかのように。あるいは、水野浩自身が、その「何か」の一部となる、予兆なのかもしれない。まるで、すべてが、あらかじめ、決められていたかのように。
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