海蝕のメランコリア
朝宮行人
第一話:静寂に潜むもの
古びた軽トラックのハンドルを握りしめ、水野浩は、海岸線をひた走る。その道は、彼の人生のように、曲がりくねりを繰り返し、容易に先を見通せない。東京という名の檻、コンクリートと喧騒でできた牢獄から、ようやく抜け出してきたのだ。新人賞を受賞し、一瞬の陽光を浴びたが、その後は、鳴かず飛ばず。商業主義という名の濁流に、いつしか押し流され、書くことの意味さえ見失いかけていた。この「汐見町」への移住は、彼にとって、傷ついた羽を休めるため、そして、もう一度、言葉と向き合うための、ささやかな、そして、切実な希望だった。
カーステレオから、FMラジオのジャズが流れている。マイルス・デイヴィスのトランペットが、午後のまどろみに溶けていく。時に優しく、時に激しく、彼の心を揺さぶる。しかし、長いトンネルを抜けたあたりからだろうか、微かなノイズが混じり始めた。やがて、それは、誰かがラジオのチューニングを、ゆっくりと、しかし、確実に、ずらしていくように、音量を増していく。そして、次の瞬間、唐突に、音は途切れた。まるで、この町が、外界との繋がりを、拒絶しているかのように。
「ここは…?」
その声は、静寂の中に、小さく吸い込まれていく。カーナビの画面には、「汐見町」という無機質な文字が、虚しく表示されている。道幅は、いつの間にか狭くなり、時代に取り残された木造家屋が、まるで申し訳なさそうに、身を寄せ合っている。海から吹き付ける風は、潮の香りと、どこか懐かしい、けれど、同時に、微かな腐敗臭を、運んでくる。朽ち果てた看板、錆びついたトタン屋根。それらは、まるで、この土地に打ち捨てられた、巨大な生物の亡骸のようでもあった。
海を見下ろす、小高い丘の上に、これから住む予定の一軒家が見えた。不動産屋から送られてきた写真で見た通りの、古いが、妙に存在感のある、年老いた猫のような佇まいの日本家屋。忘れ去られた物語の1ページのように、その家は、静かに、しかし、確かに、そこに佇んでいた。長い年月、この土地の風雨に耐え、何かを待ち続けているかのように。
車を降り、潮風を肺いっぱいに吸い込む。都会の喧騒とは無縁の静寂が、優しく彼を包み込む。遠くから、カモメの鳴き声と、波が岩に打ち付ける音が、微かに聞こえてくる。だが、この静けさは、どこか普通ではない。妙に静かすぎるのだ。巨大な何かが息を潜め、水面下でうごめいている気配を、その静寂が、必死に覆い隠しているかのようだった。
「何かが、欠けている…」
ぽつりと、そう呟く。欠けているのは、音なのか、それとも、この町に漂う、得体の知れない「何か」なのか。それとも、彼自身の心の一部なのか。
家の中は、外観から想像するよりも、ずっと綺麗に保たれていた。丁寧に手入れされた木の床は、微かな光を反射し、まるで、つい先ほどまで、誰かが生活していたかのよう。新しい畳のい草の香りが、鼻をくすぐる。前の住人が残していったのだろうか、古びた箪笥や、煤けた座卓、そして、数冊の古書が、部屋の隅で、ひっそりと、その存在を主張している。それらは、まるで、過去への扉のようにも見えた。
真新しい畳の上に、音もなく腰を下ろす。東京での日々が、まるで、遠い過去の出来事のように思える。締め切りに追われる毎日、編集者との妥協、そして、いつしか空虚に感じられるようになった、紙の上のインクの染みとしての言葉たち。それら、すべてを、この静寂の中に置き去りにしてきたはずだった。だが、見失いかけていた自分自身の言葉は、まだ、見つからない。それらは、東京の喧騒の中にあるのか、それとも、この町の静寂の奥底に眠っているのか。
窓の外では、カモメの鳴き声と、波の音が、変わらぬリズムを刻む。しかし、その単調な調べの中に、時折、何か異質な音が、微かに混じる。微かだが、確かに存在する、低く、重い音。それは、まるで、地の底から響いてくる、巨大な心臓の鼓動のようだった。あるいは、海の底で、何かが、長い眠りから目覚めようとしている、その予兆なのかもしれない。
ふと、床の間に飾られた一枚の古い写真に、目が留まる。モノクロ写真には、海を背に、数人の男女が、肩を寄せ合って写っている。一見、幸せそうな家族写真。しかし、よく見ると、彼らの笑顔は、どこかぎこちなく、まるで、無理やり笑わされているかのようにも見える。そして、彼らの背後に広がる海は、異様なほどに黒く、まるで、インクを流し込んだように、不気味な静けさを湛えている。この海の底知れぬ深淵が、そこに写る人々の心を、そのまま映し出しているかのようだった。
先ほど感じた異質な音が、再び聞こえてきた。今度は、はっきりと、その音が、海底から響いてくるのが分かる。単なる自然現象の音ではない。もっと、有機的な、何か、意志を持った存在が発する、声のような―。
得体の知れない不安が、背筋を凍らせる。この町は、何かを隠している。それも、とてつもなく巨大で、おぞましい何かを。そして、その「何か」は、この静寂の奥底に潜み、じっと、獲物を狙う捕食者のように、こちらを窺っている。そんな気がしてならなかった。
「―― 馬鹿げている」
乾いた笑いが、口をついて出る。しかし、その笑い声は、すぐに、不気味な静寂に吸い込まれていく。再び、床の間の写真に目をやる。写真の中の人々は、今も、変わらぬ笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔の裏には、彼と同じ、深い不安と恐怖が隠されているのではないだろうか。そして、彼らの背後に広がる、あの不気味な海は、一体、何を意味しているのだろう。
水野は、写真立てを手に取り、裏面を確かめた。しかし、そこには、何も書かれていない。ただ、製造された年が、インクの薄れたスタンプで、小さく押されているだけだった。1960年— それは、彼が生まれる、遥か前のことだった。彼は、写真を床の間に戻し、窓の外に目をやった。水平線は、すでに、夕闇に溶け込み、深い紫色に染まっている。そして、その闇の奥に、何か巨大な影が、ゆっくりと、しかし、確実に、こちらへ近づいてくるような、そんな錯覚を覚えた。彼は、もうすでに、この町を覆う不穏な「静寂」の一部に、組み込まれてしまったのかもしれない。まるで、そうなることが、ずっと前から、決められていたかのように。
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