●第2章:『朝顔たちの密やかな恋』
五月の陽気が庭全体を包み込む。春の花々が次々と姿を消し、代わって初夏の花たちが咲き始めていた。朝顔のつぼみが、まるで小さな宝石のように朝日に輝いている。
「もうすぐ私たちの番ね」
「早く咲いて、おばあちゃんに見てもらいたいわ」
「明日の朝には、きっと……」
朝顔たちの期待に満ちた囁きが、初夏の風に乗って広がっていく。
イザベラは、早朝から庭仕事に精を出していた。今の時期は、野菜の植え付けが最も忙しい。トマト、ナス、キュウリの苗を、一つ一つ丁寧に土に植えていく。
「よく育ってね。あなたたちの野菜たちが、みんなを笑顔にしてくれるから」
苗たちは、イザベラの言葉に応えるように、きらきらと露を輝かせている。
畑の隅では、春に植えたホウレンソウが立派に育っていた。イザベラは、近所のお年寄りたちにおすそ分けするために、丁寧に収穫を始める。
「イザベラさん、いつもありがとう」
「本当に美味しいのよ。ほんとにお店で買うものとは全然違うわ」
野菜を受け取った近所の人々の笑顔が、イザベラの心を温かくする。夫との思い出が詰まったこの庭で、誰かの役に立てることが、彼女にとっての何よりの喜びだった。
昼下がり、庭には蝶々が舞い、ミツバチたちが花から花へと忙しく飛び回っている。エキナセアの鮮やかなピンク色の花が、まるで夏の太陽に向かって手を伸ばすように咲いていた。
「ねぇ、見て! 蝶々さんが来てくれたわ」
「私たちの蜜、気に入ってくれるかしら」
「ミツバチさんも、とっても喜んでいるみたい」
花々の楽しげな会話が、庭中に響き渡る。イザベラには聞こえないその声は、しかし確かに庭の空気を生き生きとしたものに変えていた。
夕方になると、イザベラは夫の墓前で今日一日の出来事を報告する。それは、彼女の日課となっていた。
「今日はね、健一郎。朝顔のつぼみがたくさんできているの。明日の朝には、きっと美しい花を咲かせてくれるわ。あなたも、きっと天国から見ているでしょうね」
夕暮れの庭に、優しい風が吹き抜けていく。花々は、まるでイザベラの言葉に耳を傾けるように、静かに揺れていた。
その夜、イザベラは窓辺に座り、月明かりに照らされた庭を眺めていた。昼間は賑やかな庭も、夜になると不思議な静けさに包まれる。しかし、その静けさの中にも、確かな生命の息吹が感じられた。
「明日も、きっといい日になるわ」
そう呟きながら、イザベラは静かに目を閉じる。庭の花々は、彼女の眠りを見守るように、月の光を浴びて静かに揺れていた。
夜が更けていく中、朝顔のつぼみたちは、明日の開花に向けて最後の準備を整えていた。
「みんな、明日は私たちの特別な日よ」
「イザベラおばあちゃんのために、精一杯咲かせましょう」
「きっと、素敵な朝になるわ」
朝顔たちの囁きは、夜風に溶けていった。
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