●第1章:『春風と目覚めの調べ』

 三月の終わり、庭には新たな命の息吹が満ちていた。冬の間眠っていた球根から、次々と新芽が顔を出す。スイセンの黄色い花が風に揺れ、クロッカスの紫色の花びらが朝露に輝いていた。


「わあ、私たち、やっと綺麗に咲けたわ!」

「イザベラおばあちゃんに見てもらいたいな」

「あっ、来たよ、来たよ!」


 花々の囁きが、春風に乗って庭中を駆け巡る。


 イザベラは、一輪一輪の花に目を細めながら、丁寧に庭の手入れを始める。枯れ枝を取り除き、新芽の周りの土を優しく耕す。その手つきは実に慎重で、まるで赤ちゃんをあやすような優しさに満ちている。


「もうすぐホウレンソウを植える時期ね。健一郎が大好きだった新緑のホウレンソウのお浸し……」


 思い出が込み上げてくる。夫との食卓で、採れたての野菜を美味しそうに頬張る健一郎の笑顔。二人で畑を耕し、種を蒔き、水をやる日々。そのすべてが、今では懐かしい宝物となっている。


 そんなイザベラの様子を、花たちは心配そうに見守っていた。


「おばあちゃん、また寂しそう……」

「でも、私たちがいるから大丈夫よ」

「そうよ、みんなで頑張って咲いて、おばあちゃんを元気づけましょう!」


 スイセンの声に励まされ、他の花々も一斉に頷く。彼女たちにとって、イザベラは大切な家族のような存在だった。


 畑では、早春の野菜たちが顔を出し始めていた。ホウレンソウの新芽が、まるで緑の絨毯のように広がっている。イザベラは、一株一株に声をかけながら、丁寧に間引きを行う。


「ごめんなさいね。でも、残ったみんなが大きく育つために必要なの」


 間引かれた芽も、大切に集められ、サラダの材料として使われる。イザベラの庭では、命の一つ一つが無駄にされること決してはない。


 午後になると、近所の子どもたちが庭を訪れる。彼らは、イザベラの庭が大好きだった。


「イザベラおばあちゃん、この紫の花、なんていう名前?」

「ムスカリっていうのよ。ブドウの房みたいでしょう?」

「わぁ、本当だ! きれい!」


 子どもたちと花の名前を教え合いながら、イザベラの顔には自然と笑みが浮かぶ。彼女の庭は、近所の子どもたちにとっての自然教室でもあった。


 夕暮れ時、イザベラは夫の墓前で祈りを捧げる。


「今日も素敵な一日だったわ、健一郎。子どもたちが庭に来てくれて、花の名前を教えたの。あなたが子どもたちに園芸を教えていた時みたいに……」


 夕陽に照らされた庭には、穏やかな空気が漂っていた。春の花々は、まるで子守唄のように優しく揺れ、イザベラの祈りに寄り添っている。


 就寝前、イザベラは明日の種まきの準備をする。キュウリ、ピーマン、ナスの種を丁寧に紙に包み、名前を書いて並べる。春の庭には、まだまだやるべきことが山ほどある。


「明日も、みんなと一緒に過ごせることを楽しみにしているわ」


 そう呟きながら、イザベラは静かに目を閉じた。窓の外では、春の花々が月明かりに照らされ、密やかな会話を続けている。


「おやすみなさい、イザベラおばあちゃん」

「明日も素敵な一日になりますように」

「私たち、もっともっと綺麗に咲くからね」


 春の夜は、そうして静かに更けていくのだった。


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