【短編小説】花たちの囁く庭で ~イザベラおばあちゃんの祈りと静かな生活~(約8,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
●序章:『祈りの庭へようこそ』
春の柔らかな日差しが、古びた白い門扉を優しく照らしていた。錆びついた蝶番がかすかに軋む音を立て、イザベラ・グレイス・タナカが庭へと一歩を踏み出す。八十二歳になる彼女の背丈は、年とともに少しずつ縮んでいたが、その背筋は今でも凛として伸びている。
庭の小道を歩きながら、イザベラは朝露に濡れた植物たちに心を込めて挨拶を交わす。半世紀以上前、アメリカ人の母とともに来日し、日本人の園芸家だった父と出会い、そして結婚して以来、彼女はこの庭と共に生きてきた。
「おはよう、みんな。今日もいい天気ね」
イザベラの声は、春風のように清々しく、そして温かい。
庭の片隅では、早咲きのクロッカスたちが密やかな会話を交わしていた。
「イザベラおばあちゃんが来たよ!」
「今日も素敵な笑顔ね」
「私たち、もっともっと綺麗に咲かなくちゃ」
もちろん、イザベラにはその声は聞こえない。しかし、花たちの気持ちは確かに伝わってくるのだ。それは言葉を超えた、魂と魂の対話。五十年以上、この庭の花々や野菜たちと共に過ごしてきた彼女だからこそ感じ取れる、特別な絆なのかもしれない。
庭の奥には、小さな十字架が立っている。三年前に天国へと旅立った夫、健一郎の眠る場所だ。毎朝、イザベラはここで祈りを捧げる。
「おはよう、健一郎。今日も私たちの庭は美しいわ。スイセンもチューリップも、あなたが大好きだった花たちが次々と咲き始めているの」
風が吹くたび、花々は静かに頭を垂れ、まるでイザベラの祈りに寄り添うかのように揺れている。
イザベラの庭には、四季折々の花々が咲き誇る。春には水仙やチューリップ、クロッカス、ムスカリが庭を彩り、夏には朝顔やひまわりが太陽に向かって伸びていく。秋にはコスモスやリンドウが涼やかに揺れ、冬には早咲きの梅が寒風に耐えながら可憐な花を咲かせる。
そして、庭の一角には野菜畑がある。ここでイザベラは、季節に応じた野菜たちを丹精込めて育てている。ホウレンソウ、キュウリ、トマト、ナス??どの野菜も愛情たっぷりに育てられ、近所の人々にも分けるのが日課となっている。
「イザベラおばあちゃんのトマトは、お店のものとは全然違うわ」
「野菜の育て方を教えてもらえて、本当に嬉しいです」
近所の主婦たちがそう言って喜ぶたびに、イザベラは幸せな気持ちになる。夫との思い出が詰まったこの庭で、花や野菜を育てながら誰かの役に立てることが、今の彼女の何よりの生きがいなのだ。
庭の隅々まで見回り終えると、イザベラは小さな木製のベンチに腰を下ろす。朝日に照らされた庭は、まるで宝石をちりばめたように輝いている。
「さあ、今日も始めましょうか」
そう呟きながら、イザベラは園芸用の手袋をはめる。新しい一日が、静かに、そして確かに始まっていくのだった。
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