第9話

 幼いアルトが祖父母に引き取られた最初の数ヵ月。正直、この頃の記憶はあまりない。


 葬式では両親と妹が亡くなったというのに泣くことができなかった。心に穴が開いた、というより心そのものがなくなった気がした。


 親戚たちはそんなアルトのことを見て、まだ幼いせいで理解できていないのだろうと哀れんだ。


『今日からじいちゃんとばあちゃんと暮らそう』


『毎日おいしいパンを食べさせてあげるからね』


 涙で目を真っ赤にした祖父母は、そう言ってアルトのことを抱きしめた。


 二人と手をつないでやってきた土地は田んぼが多く、いかにも田舎という町だった。その割には人が多く、子どももたくさんいる。保育園も幼稚園もかあり、小学校も中学校も大きい。


 その日からパンの香りが生活に加わるのだが、保育園での思い出は薄かった。タイムに出会うまでは。


「アルトちゃん、って言うの?」


「うん」


 幼いアルトでも、周りの大人や子どもがあまり話しかけてこないことに気がついていた。アルトのことは新聞やニュース、噂で知っていたのだろう。腫物を扱うかのような雰囲気を察し、アルトは心を閉ざすようになった。


 教室で絵を描いたり、歌を歌ったり、給食を食べていても誰とも話さない。何をするにも無気力で元気がなかった。当時は表情以上に感情が湧かなかった。


 その中で話しかけてきたのはタイムだけだった。


 園の隅で草をちぎっていたアルトの横に少年が並んだ。彼は首をかしげ、綺麗な栗色の髪を揺らした。


 彼は幼い頃から目鼻立ちがくっきりとした少年だった。双子の幼馴染もハーフなだけあってはっきりとした顔立ちをしていたが、タイムも負けていなかった。


「僕と遊ぼう? 何が好き?」


 彼は引っ越してきてから初めてできた友だちだった。


「……パン」


「アルトちゃんのお家のパン、おいしいもんね。僕も好きなんだ」


「そうなの……!」


 アルトの家のパンは地元で評判だった。二代続いている店は、地元紙や雑誌、テレビの取材を受けることもあった。


 だが、いつからか取材は全て断るようになった。記者という記者を出入り禁止にしているほどだ。アルトが店の手伝いをすることも許されなかった。


 アルトが惨殺事件の生き残りだと知られているので、取材しに来ることがあるのだ。特に事件から五年目である節目の年はひどかった。


 響子が帰って来た時は持ち前の負けん気で追い払ってくれるが、その日の記者はあまりにもしつこかった。成長したアルトの今の心情を知りたい、生の声を聞かせてほしい、世間が待っているともっともらしく語り続けた。開店中の店先で。まるで押し掛けたセールスマンのように。


 何を言っても帰ろうとしない様子を察したご近所さんがとうとう警察を呼んだ。駆け付けた警察官は響子の後輩で、その当時は故郷の交番に配属となっていたようだ。


『麗音先輩の大事な姪っ子さんですから』


 そう話して笑う彼がかっこよかったのを、アルトは未だに覚えている。残念ながら異動でいなくなってしまったが、本署勤めの刑事になったらしい。笑った顔が爽やかでかっこよかった。


 だが、アルトは誰よりもタイムの笑顔に惹かれていた。誰とも比べられないほどの優しい笑顔。どんな不安もかき消してくれる彼の笑顔にどれだけ救われたことか。


 自分が恋をしているのに気がついたのは、小学校に上がってからだった。


「アルト。母さんがウグイスあんぱん食べたいって言ってたんだけど、今年はいつから始まる?」


「そろそろかな。ばあちゃんがウグイスあん注文しなきゃって言ってた」


 タイムとは別のクラスだが、時々こうしてパン屋の情報を聞きに来る。


 相変わらず友だちはいないアルトの貴重な楽しい時間だ。


「わぁ……。タイム君だ!」


「ちょーかっこい~……」


「ウチのクラスにあんなかっこいい男子いないよね」


「4組のテツって男子もかっこいいらしいよ」


 どうやらタイムが訪れるのを楽しみにしていたのはアルトだけではないらしい。


 いつからか、周りの女子がタイムのことがかっこいいだの、好きな人ができたのだと盛り上がっているのに敏感になってしまった。彼女たちがタイムを見て色めきたっているともやもやしてくる。それでも、タイムに話しかけられると心が晴れた。


 次第にタイムに告白する女子が出てきたが、彼は全て”ごめんなさい”と返していると風の噂で聞いた。そのことに安堵した時、彼が誰のものにもなってほしくないのだと気がついた。


 彼の笑顔を独占したい、彼の優しい声をずっと聞いていたい。休みの日にも彼のことを考えるようになった時、知ってしまった。彼のことを心から好いているのだと。小学生にしては重いくらいに。


 タイムは次第に勉強にもスポーツにも惜しみなく才能を発揮するようになった。私立中学を受験するのではないかと噂されるほどだった。


 それと同時に、彼のことで色めき立つ女子は減っていった。


「タイムってモテるんだね」


「そんなことないよ」


 あまりの出来のよさに女子は引いてしまったようだ。それでも中学に上がったばかりの頃はモテていた。他の小学校に通っていた女子たちが、彼の見た目のよさに惹かれたのだ。しかし、それも徐々に冷めていった。いろんな小学校から人が集まるので、かっこいい男子は何人もいるからだ。


 中学生になった年、タイムとアルトは同じクラスになった。違う小学校の生徒も多い中、タイムはすぐに新しい友だちがたくさんできた。


 アルトはと言うと、一人でいると桃色の髪の少女に話しかけられるようになっていた。その頃には一人で行動するのに慣れ、女友だちが一切いなくても平気になっていた。


 華に話しかけられて仲間に入れられるのも嫌だったが、それ以上に彼女の幼なじみに睨まれるのが嫌だった。彼女の隣のポジションを取られるのが気に入らないのだろう。その反対側には男子生徒顔負けの短髪を持つイケメン女子がいた。


 華を避けると肇はもっと睨みつけてくるし、じゃあどうしろと……と呆れたアルトはますます自分の殻に閉じこもるようになってしまった。


「アルト! 久しぶりだな」


「イサギおじさん」


「川添先生な」


 中学校では久しぶりに叔母の同級生に再会した。


 スポーツブランドのロゴが入った黒のジャージ姿はどう見ても体育教師だ。


「お前の担任になれて嬉しいよ。今度の家庭訪問、お前ん家は遊びに行くようなもんだな。お父さんもお母さんも中学校の頃からお世話になってるしな」


「じゃあ知り合いサービスで理科は5にしてください」


「誰がするか! お前、理数系苦手だったろ。俺と響子さんで何度算数を教えたことか……」


 そう話しながら川添は笑った。小さい頃のように頭をなでようと伸ばした手を慌てて引っ込める。彼は笑わないアルトのことを気にせず接してくれる大人の一人だ。


 親戚と言ってもいいくらいの距離感なので、彼の前で冗談を言うのはいつものことだった。彼のおかげで他の教師と仲良くなれたこともある。


 川添はジャージの前を開けたり閉めたりと、ジッパーをいじった。


「そういえば同じクラスの紺野ってどんな感じのヤツ? 秀才が入ってきたって学校中で話題だぞ」


 突然好きな人の名前を出されて心臓が跳ねる。川添のことは信用しているが、恋愛のことは知られたくない。


「……とにかくなんでもできる人です」


 廊下を通りすぎる生徒の中には、アルトたちのことを不思議そうに見つめる人が多い。


 入学したばかりの時期で、恐れられている生徒指導の川添と談笑しているのが信じられないのだろう。


「小学校の時からすごいらしいな。塾にでも行ってるのか?」


「聞いたことないです。でも、たぶん行ってない」


 小学校の時から塾に通う人は何人かいた。友だちがいないアルトでも誰と誰が塾に行っている、と知ってるくらい珍しがられていた。


 中学に上がったのでその人数は増えるだろう。


 のちに肇が”夜遅くに塾から帰ってたら補導されてパトカーで送ってもらいました”と笑っていたのを見たこともある。


「は~。大したモンだな」


「先生が思ってる以上にすごいですよ、タイムは」


「アルトがそこまで人のこと褒めるなんて……。こりゃテストが楽しみだな」


 小学校と違って重要視されるテスト。それを思うと憂鬱になるが、タイムが”俺でよければ教えるよ”と声をかけてくれるのは嬉しかった。











 テスト週間に入った日曜日。来週からはいよいよテストが始まる。


 アルトは双子の例の豪邸に訪れていた。一緒に勉強しようと誘われたのだ。


 手土産に焼き立てのパンを持っていくと大層喜ばれた。双子の両親には今度店に買いに行くねと言われ、店の宣伝になったのが嬉しかった。


「アルトってやっぱりタイムが好きなんだ!?」


「はっ……!?」


 教科書をバン、と叩いて立ち上がったハルヒ。その拍子に高そうな椅子がひっくり返る。彼女の目は好奇心に満ちあふれていた。


 リビングで三人で勉強していたら、リラにお茶とお菓子を出された。それがまた美しい花が描かれたカップとソーサーで、かいだことのないいい香りのお茶が注がれていた。お茶菓子は見たことのない砂糖菓子とクッキーが真っ白なお皿にお行儀よく並べられていた。


 休憩と称して双子に、会っていない間の話を聞きたいと言われて話したのだが、どうやら墓穴を掘ったようだ。


 せめてものすくいは二人の両親が買い物に出かけていたことだ。


「そうか……。やっぱりタイムか……」


「ミカゲまで何……」


 ハルヒとは反対に顔が青ざめていく。ミカゲはメガネを外して眉間をつまんだ。


「久しぶりに会った時、タイムにお姫様抱っこされてたじゃん? アルトの家も知ってたし、おばあちゃんに認知されてたし、これは絶対なんかあるってふんでたんだよ! ビンゴじゃ~ん!」


「あっあれはタイムが優しいからで、私の家はパン屋って知られてるだけだし、ばあちゃんは店によく来る人の顔をよく覚えてるだけで……」


「え~? でも今さ、タイムのことばっか話してたじゃん」


「タイムと話すのが多かったからだし……」


 アルトは暴れ出す心臓を落ち着けるようにティーカップに口をつけた。庭の花の木もいい香りだが、お茶も負けていない。


「あんなかっこいい幼なじみがいるって……。アルトも隅に置けないね」


 クッキーにも手を伸ばそうとすると、ハルヒはうっとりとした様子で頬に手を当てた。その仕草は、アルトのことを出迎えたリラにそっくりだ。”幼なじみたちが再会してまた一緒にいられるなんて素敵ね”、とほほえんでいた。


「アルトとタイムのエピソード聞いてたら二人のこと応援したくなっちゃった! 正反対に見えるけどは仲がいい幼なじみで、実は秘めてる恋心……。エモい!」


「ハルヒ声デカい……」


 アルトがうなだれると、目の前のミカゲは深いため息をついた。。机に肘をつき、手の甲に額をのせているせいで表情は見えない。


「てかアルト……。否定しないんだな。タイムが……。す、すす好きだって」


「あっそれな!」


「それにさ……。タイムのことを話す時、ちょっと笑ってるように見えるんだ、それだけタイムのことが……」


「分析しないで……!」

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