第8話
「アルト、おはよー!」
中間テストのテスト週間が始まった朝。パン屋の前まで歩いた双子は、幼なじみに向かって手を振った。
アルトの自宅であるパン屋の前はいいにおいがする。そのせいでいつもお腹が空きそうになる。
彼女は掃き掃除をしている祖母と話していたようだ。双子に気がつくと顔を上げた。
「おはよ。ミカゲ、ハルヒ」
スクールバッグを持ち上げて肩にかける。頭の後ろでしばった短い髪が跳ねた。
「いってらっしゃい、皆。気を付けてね」
「行ってきまーす!」
笑顔の律子に見送られた三人は、横に並んで歩き始めた。
これまでは双子の自宅から学校までが遠く、車で送り迎えをしてもらっていた。しかし、新しく通い始めた学校は苦にならない距離なので、徒歩で登下校するようになった。
「もうすぐテストだねー。アルトは何の教科が得意?」
「国語……かな」
「なんでもできそうに見えるけどな」
「そんなことないよ。川添さんに理数系頑張れって言われた」
「アルトってなんだかんだ川添先生と仲いいんだな」
幼なじみとゆっくり話しながら登下校するのも楽しい。今までの時間を埋めるように、双子はアルトにたくさん話しかける。
特に家族の話をするアルトはいつも楽しそうだ。
「昔から知ってるから。ウチに来ることもあるし、小さい頃に遊んでもらったこともある」
「ほぼ親戚じゃん! ところで……響子さんと川添先生って付き合ったりしないの?」
「川添さんに響子さんはもったいなさすぎる」
アルトはばっさりと言い切った。相当美人と聞いているのでいつか拝んでみたいと思っている。が、近くに住んでいるわけではなさそうだった。
「でっでもさ、川添先生って昭和のダンディ俳優って感じじゃん!」
「ただの老け顔だと思う」
「厳しい……」
「顔もかなりイケてると思うけどな~。私が最近ハマってるオフィスラブアニメのイケおじにちょっと似てるもん。しかもめちゃくちゃ優しいイケボなんだよ! 40過ぎだけど、あんな人と結婚したいって思っちゃう。今度見せてあげるね!」
ハルヒはアルトの手を握り、意味ありげにほほえんだ。この顔を見せた後、何人もの女子が二次元の推しを見つけたことか。何人が底なし沼に沈んでいったことか。
「アルトに何布教しようとしてんだ!」
ミカゲはハルヒの肩に手をかけた。アルトだけはその毒牙にかかってほしくない。
「いいじゃん、意外とハマっちゃうかもよ? ウチで鑑賞会しようよ」
「まぁウチに来るのは賛成だけど……」
「でしょ? 今度ウチのパパとママに会わせたいの!」
「豪邸見たい」
「そんな豪邸じゃないよ~!」
笑わないし口数も少ないが、アルトはアルトだ。時折聞こえるいたずらっぽい声は、あの頃の面影を残している。
「十年前、アルトちゃんのご両親は亡くなった。お前たちに聞かせるのは酷だと思ってずっと黙っていたんだ……。すまない」
週末の昼食中のこと。マコトはそう言って目を伏せた。
初めて聞いた、アルトが突然いなくなってしまった理由。
壮絶な幼少期を過ごしたアルトのことを思うと、心が痛んだ。表情が出なくなってしまったのも無理はない。
それからは重たい空気になってしまったが、先に食べ終えたマコトが双子の肩に手を置いた。
「アルトちゃんの悲しみは消えることはないかもしれないが、新しい思い出を作ることはできる。それはお前たちが一緒に作るんだ」
その言葉に心が晴れるようだった。使命も感じた。
再会した時、”私も嬉しい”とアルトははっきりそう言った。今はそれだけでいい。きっとまた、あの笑顔に会える日が来るだろう。
昼食の後、リビングで二人で話した。ソファに座って庭を眺めながら。
新しい家の庭も花が多い。敷地を覆う柵の前にはライラックの木が植えられ、ちょうど見ごろを迎えていた。薄紫の花を咲かせた低木は芳しい香りを漂わせている。
ライラックはフランス語で”リラ”と呼ばれる。マコトが”リラの木だ”、と発注していた。リラも、故郷で見慣れた木が身近にあるのが嬉しそうだ。
食べ終わると両親はそろって昼食の片付けを始めた。
「中学だけとは言わず、高校もアルトと同じところに行こうよ」
「俺もそう思ってた」
ミカゲはメガネを外し、膝に肘を置いた。庭を黙って見つめる様子にハルヒは首をかしげる。
「やっぱり好きだから?」
「茶化すな!」
怒鳴ったら両親が手元から顔を上げた。その表情はおもしろがっているようで、これは聞きたいと言わんばかりに音を立てないように作業を再開した。
「でもミカゲ、アルトはたぶん────」
ハルヒは市内の高校を調べていたスマホを下ろした。その切ない表情はまるで同情しているかのような。
ミカゲはメガネをかけ直すと、つま先を睨んだ。
「分かってる。それでもいい……」
何を言わんとしているかは、みなまで言わなくても分かった。
アルトを見ていると彼女の表情が崩れそうになる時がある。
それはクラスメイトがおどけた様子で皆を笑わせているときではない。川添をいじっている時でも、華の笑顔に赤面している肇を見た時でもない。
「でっでもそうだって決まったわけじゃないし! まだミカゲに可能性はあるよ! 私はアルトが妹になったら嬉しいし!」
「なっなんの話だよ!」
胸の前で手を組んだハルヒがグイッと顔を近づける。とびきりの笑顔だが、口元はプルプルと震えていた。
「ミカゲとアルトが結婚した時の妄想」
まただ。双子の姉は何かと恋愛の最終形態を口にする。中学生だと言うのに気が早すぎる。
それを聞き逃さなかった両親は片付けを終えたようだ。手を拭きながらソファの裏に集結した。
「何!? ミカゲはそんなに情熱的なのか!?」
「ママたちも混ぜてほしいわ。ハルヒ、もっと詳しく」
「全員でおもしろがるな!」
三人で歩いていると直に校舎が見え、校門をくぐった。騒がしい昇降口を上がると、教室の中はさらに騒がしかった。
友だち同士で机に集まり、机の上に座っている生徒がいる。中には自分の席で教科書とノートを開いている熱心な生徒もいた。
アルトは自分の席に着き、スクールバッグから筆箱や教科書を出して机の中にしまった。
今日から主要な五教科の授業でテスト範囲の発表があるだろう。アルトは勉強熱心な自覚はないが、タイムはきっと違う。斜め前の席に座る彼は。
「タイムー。テスト勉強早くね?」
「テスト週間は今日からだよ。部活も休みになったじゃん」
タイムは机に座ったテツの背中に拳を当てた。
何をしても一番のタイム。今回のテストも高得点ばかり叩き出すだろう。
アルトは彼の顔をチラッと見た後、理科の教科書とノートを机の中に押し込んだ。
学校に不審者が入り、無事に生徒たちが助けられた後のこと。
タイムが加奈に抱きしめられるのを見てしまった。双子たちは気づかなかったようだが。
彼は目を見開き、手が宙で固まっていた。しかし、すぐに引き離して困った表情で口を動かしていた。
加奈は目から雫をこぼすと、何度もうなずいた後にほほえんだ。
何を交わしたのだろう。加奈の涙の理由は。
見ていられなくて歩き去ったアルトを、慌てて追いかけてきたのはタイムだった。
大雨の中、折りたたみ傘を差して当たり前のように入れてくれる。
好きな人との相合傘。本当だったら緊張して飛び出していただろうに。今日のアルトは強い怒りのせいで、ときめいている余裕がなかった。
雨に濡れて頭が冷たい。髪の間を滑り落ちる水滴が不快だった。制服も色が変わるくらい雨に打たれている。
「ハグされてたね……」
「うん」
歩きながら先ほどのことを聞くと、タイムは眉を下げて肯定した。
「大丈夫なの?」
「何が?」
「たぶん告白されてたんでしょ……? 置いてきたらダメじゃん」
「あー……うん。でも断ったよ」
「え?」
てっきり告白されて付き合うのかも……と思っていた。加奈は可愛い。アルトと違って表情が豊かだ。タイムが惹かれたとしても無理はない。
「どうして?」
「別に……。好きじゃないから」
「他に好きな人がいる、とか?」
「今は内緒」
柔らかい声で笑った彼は、からかうような表情をしていた。その答えはまるで、”いる”と答えているようにも聞こえる。
タイムが傘を持ち直したせいで雫がはらはらと落ちていく。しかし、アルトの肩がさらに濡れることはなかった。
「俺はアルトに好きな人がいるかの方が気になるなー」
「え!?」
タイムは前を見ながら話し続けた。
「アルトってテツとよく話してるじゃん。ミカゲとは幼なじみでしょ。仲いい男子、割といるよね」
「そうかな……」
「どっちかと何かあるんじゃないの?」
「ない! 好きな人は……。わ、私も今は内緒」
「そっか」
告白のチャンスだとは思わなかった。タイムが好きなことは心のうちに秘めて、ひっそりと温めていたい。
正直、彼が”好きな人がいる”と匂わせる方が、告白される現場を見るより心が楽だった。それが誰なのか、検討もつかないのに。
そもそもなぜタイムが好きなのだろう。いつから好きになったのだろう。
アルトは時々考えこむことがある。それは今日のように、テスト範囲を発表されている授業中でも。
「川添せんせー。テスト範囲広すぎません? 期末かってくらい内容が多い気がするんスけど……」
「思ったより授業がサクサク進んだからな。内容盛りだくさんでお届けするぞ。二年のはサービス問題だ。ちょっと思い出せば誰でも解けるはず」
「せんせー、俺たち過去のことは振り返らないタイプです」
「二年の教科書捨てたかもしんね~……」
「マジかよ!? 受験はこれからだってのに何してんだよ!」
川添が教科書をとじると、やいのやいのと声が飛んでくる。主に男子だが、女子たちも教科書をめくって憂鬱な顔をしている。
アルトは教科書にとりあえず付箋を貼ったが、意識は斜め前の席に向いていた。
タイムはテスト範囲が広くても動じていないようだ。アルトのように付箋を貼ったり、ノートに何やら書き込んでいる。
「それより先生、春休みに一緒に歩いてた美女ってアルトの叔母さんらしいですね」
「なっ!? どこで知ったその情報!」
「テツでーす」
サッカー部の男子たちを中心にニヤニヤした表情を浮かていべる。他の生徒も知っているのかざわめき始めた。
テツは誰よりもおもしろがっているのか、片頬を上げて後ろの席を指差した。
「俺はハルヒに聞きました」
「何ぃ!?」
どうやら次の話題に移ったらしい。アルトは教科書をとじて隅に寄せた。
『響子さんって言うんだよ! アルトによると超美人らしい!』
噂好きのハルヒが聞かれる度に、誰彼構わず教えていたのを思い出す。隣でミカゲが”おいおい……”と呆れた顔をしていたが。
「川添さ……先生は独身36歳なんですよね!? 本当のところどうなんですか? 付き合ってるんですか!?」
「落ち着けハルヒ……」
「おい、川添さんって呼びそうになっただろ。アルトの影響だろ! 仲良すぎだろ!」
「幼なじみだもんね~」
自分の名前が出たので振り向くと、ハルヒがニコニコと手を振った。
双子はクラスの中で長身の部類に入るので、自動的に後ろの席になった。皆の視界を遮らないためだ。
アルトはうなずくと前に向き直った。教卓では川添が頭を抱え、男子たちがまたいじっている。テツを中心に。
しかし、アルトの耳には届かなかった。彼女は目を見開き、斜め前の席から視線を外せないでいた。
タイムがこちらを見ていたのだ。優しいまなざしで見守るように。ハルヒとミカゲという幼なじみがいることに”よかったね”と言いたげに。
彼の優しい視線を感じるといつも、周りのことが目に入らなくなる。心地よくて幸せで、ずっと見つめられるのは恥ずかしいが独占したくなる。
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