第三話「鏡の囁き」

 その夜、守端しゅたん学園の廊下には、ひそかにどこかかられ出たような冷たい風が流れていた。昼間の喧騒けんそうは姿を消し、生徒のいなくなった校舎はまるで別世界。深夜まで残業している数人の教師の気配も、遠くかすかに感じる程度だ。そんななか、ふと廊下を横切る影がある。小さく、しなやかな動き——やがて、その足音は旧館への渡り廊下へと消えていった。


 翌朝。ホームルームが終わると同時に、狭山さやまみのりははじかれたように席を立つ。中庭に面した窓へ走り寄り、外の様子をじっと見つめる。すぐ後ろには木原きはらユウタが続き、少しあきれ顔で尋ねた。


「そんなに気になるか? 夜に誰かが旧館に入ったかどうかなんて、窓からじゃわかんないだろ」


「うん……わかってる。でも、どうしても気になるんだ。昨日のあの音の噂……金属のこすれ合うような音に人の声。絶対に何か動きがあったはず」


 それは校内のSNSで急速に拡散されている“怪情報”でもあった。深夜、旧館付近で物音を聞き、何者かの足跡を見たという生々しい書き込みも。誇張かもしれないが、完全な虚構きょこうとも思えない。まだ明るい朝のうちから、みのりの胸はそわそわと落ち着かない。


「よし、今日の放課後は、ジュリ先輩と合流してもう一度あの換気口を調べよう」


 ユウタがそう提案したとき、まるで呼応するかのように教室の外から声がかかった。


「……狭山さん、ちょっと来てもらえる?」


 顔をのぞかせたのは、資料室の鍵を管理する江藤えとう先生。中年の男性で、いつもは落ち着いた表情なのに、今朝は少しけわしい目つきをしている。廊下へ出てみると、江藤先生は周囲に誰もいないのを確かめて低くささやいた。


「……滝川たきがわジュリが、君たちと一緒に旧館をうろついているようだね。変な噂が広まるのは困るんだよ。まったく、彼女は昔から妙なところに首を突っ込む子でね」


「え、あ、あの、別に私たちは怪しいことをしているわけじゃ……」


 動揺しながら答えるみのりを、江藤先生はじっと見据える。疑いの目なのか、あるいは何かを訴えたそうなまなざしなのか、一瞬判断がつかなかった。


「……滝川が気になるなら、彼女に直接きちんと話をすればいい。資料室のことが知りたいなら、私に聞いてくれてもいいんだ。けれど、あまり深追いしないように。わかったね?」


 言葉の裏にどんな意味が込められているのか。やさしげともとれる口調だが、その奥に何かを伏せたような重苦しさを感じて、みのりの胸はざわりとした。しかし、質問を返す間もなく、江藤先生は「また話す機会があれば」と言い残して足早に去っていく。


「何だろう……先生、私たちを心配してくれたのかな? それとも警告……?」


 戻ってきたみのりに、ユウタは不安げに目を向ける。

「わからない。ただ、先生は明らかに何かを知ってる。……しかも、ジュリ先輩を牽制けんせいしてるみたいだった」


 放課後、みのりとユウタは約束通りジュリと合流し、再び旧館裏へと足を進めた。昨日見つけた換気口は変わらず存在していたが、よく見るとさくを止めていた金属のネジが一部緩ゆるんでいる。誰かが昨夜もここを通ったのだろうか。


「これ、やっぱり人為的にいじった痕跡だね。昼間には気づかなかった細工が増えてるわ」


 ジュリはスマートフォンのライトを照らしながら、柵の周囲を検分けんぶんする。みのりもライトを借りて柵の奥を見やるが、暗く、せまく、さらに奥はパイプが縦横に走っていて、容易に侵入はかないそうにない。しかし、湿気を含んだ空気にまぎれて、かすかに誰かの気配を感じるようでもある。


「ここに出入りしている人が、旧館の中で何をしてるんだろう。鏡を探してるとか? それとも、既に鏡を手に入れようとしてるのかな……」


 みのりがつぶやくと、ジュリは少し考え込んでから口を開く。


「私が聞いた話では、あの“ゆがんだ鏡”にはいくつか言い伝えがあるんだって。“自分の姿を映さない鏡”“大切なものを奪う鏡”“人の心を歪ませる鏡”……どれも曖昧あいまいで現実味が薄いんだけど、妙に不気味でしょう?」


「記録リストが改ざんされたのは、その鏡をめぐるトラブルを隠すため……って可能性はあるのかな?」


 ユウタがくと、ジュリは視線を落とす。


「そうかもしれない。江藤先生は“システムの不具合”なんて言ってるけど、本当は誰かが鏡の情報を消したがっているんだと思う。……もっと言えば、江藤先生自身がそれに関わってる可能性も否定できない」


 まさか、管理者が自ら隠蔽いんぺいに加担しているのだろうか。その事実がもし本当なら、守端学園の裏側には想像以上の事情がひそんでいるに違いない。


「ところで……もうひとつ気になる噂があるの。かなり昔、旧館である“事件”があったらしい。でも詳しい記録がほとんど残っていない。正確な時期すら曖昧でね」


 ジュリは小さく息をつき、続ける。


「その事件が何だったのか、誰もはっきり言わない。でも“歪んだ鏡”がそれと関わっているって話だけは、先輩たちの間でもささやかれてきた。子どもの頃の私も、それを知りたくて資料室に忍び込んだことがあるのよ」


 みのりとユウタはジュリを見つめた。彼女が旧館の謎を追い求め続けている理由が、少しだけ見えてきた気がする。彼女は好奇心だけではなく、過去に何か個人的な思いを抱いたのではないだろうか。


「……まずは、“事件”が本当にあったのかどうか、その痕跡を探そう。私たちだけで動くのは危険かもしれないけど、誰にも知られずに探すしかなさそうだ」


 みのりの提案に、ジュリとユウタが互いに顔を見合わせ、深くうなずいた。強い決意にも似た空気が、三人のあいだに生まれる。もう後戻りはできない。

 そのとき、ふいに携帯のバイブレーションが鳴り、ユウタが画面をのぞいてまゆをひそめた。


「……誰だ? “気をつけて”って書き込みが届いてる。発信元は不明。しかも学園内部からのアクセスみたい」


 突然の警告めいたメッセージに、三人は一瞬言葉を失う。思わず周囲の建物や窓を見渡してしまうが、人の気配は薄い。

 しかし、そのどこかに、こちらを監視する視線が存在しているのかもしれない。まるで、歪んだ鏡の奥底から、覗き込んでいる誰かがいるように……。


 換気口から吹く湿った風が、みのりのほおをかすめる。冷やりとした感触に、心の奥で何かが警鐘を鳴らすのを感じた。

 探るべき謎は山積みだ。旧館の事件、隠された鏡の記録、それを消そうとする影。さらに、江藤先生の警告にも似た言動。そして得体えたいの知れない第三者からのメッセージ。

 真実がやみの中でうごめけば蠢くほど、三人の行動は危うい均衡きんこうを保ちながら進んでいく。

 ──この学園に降り積もった、長い年月の“ちり”を払いのけた先に、いったい何が姿を現すのだろうか。


 まだ誰もその真実を、まっすぐに見つめることはできないでいた。

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