第二話「記録の断片」

 翌朝、守端しゅたん学園の校舎には、どことなく奇妙なざわめきが漂っていた。噂の発信元は特定できないものの、「旧館のリストが消えた」「鏡ののろい」などという不穏な単語が、生徒たちのあいだを行き交っている。まるで透明な霧が校内に満ちているかのように、ひそひそとした声が上階から下階へ、廊下から教室へと伝播していくのだった。


 狭山さやまみのりはホームルームを終えるやいなや、昨日の出来事が気になって仕方がない。教科書を開いても頭に入ってこないし、窓の外に視線をやれば、いつもは静かにたたずむ旧館の外壁が、まるでこちらをいざなっているように見えた。


「みのり、さっきの噂……聞いたか?」


 隣の席の木原きはらユウタが、声をひそめて問いかける。その表情は好奇心半分、不安半分といったところだ。机の下でこっそりスマートフォンをいじっているらしく、SNSの投稿を見せようとしてくる。


「これ。今朝から急に拡散されてるみたい。『深夜の旧館からあかりがれていた』とか、『資料室で勝手に物音がした』とか……ガセっぽい話も混ざってるけど、どうも無視できないんだよな」


 実際、コメント欄には“ゆがんだ鏡を見た”などのぞっとする書き込みも散見される。その内容に誇張や作り話があるにせよ、多くの人が“何かおかしい”と感じ始めているのは確かなようだ。


「気になるね。……昼休みになったら旧館の様子を見に行ってみない?」


 みのりが提案すると、ユウタは力強くうなずく。こうした冒険の誘いには、彼はいつも乗り気だ。幸い、二人の授業はあと数時間ほどですべて終わり、午後は委員会活動の予定もない。自由に動けるなら、調べない手はなかった。


 そうして二人が放課後の予定を立てていると、不意に廊下から誰かが駆け寄ってくる足音が響いた。姿を見せたのは高校三年の滝川たきがわジュリ。息を少し切らしながら、教室の扉からそっと中をうかがっている。


「……狭山さん、木原くん。ちょっといい?」


 ジュリの声に、みのりはすぐ気づいて返事をした。彼女は人目を避けるように職員室のほうへ目をやり、どうやら「ここでは話したくない」という合図を送ってくる。二人はこっそり廊下へ出て、人気ひとけのない階段の踊り場に移動した。


「資料室にアクセスできるかもしれないルートを見つけたの。だけど、ちょっと普通じゃない方法。……地下配管の一部が、旧館の壁裏かべうらに直結してるらしいのよ」


 ジュリは声を低めて続ける。

 地下配管──それは普段、メンテナンススタッフぐらいしか立ち入らない領域だ。しかも、旧館の内部につながっているならば、それは言わば裏口のようなもの。


「地下配管? まさか、そんなところから中に入れるの?」


 思わず目を丸くするみのりに、ジュリは頷いてみせる。


「私も確証はないけど、図書室で見つけた建築図面が少し古いものでね。そこに“非常口扱い”みたいな注釈があるの。正式には閉鎖されてるはずなんだけど……たぶん完全にはふさがれていないんだと思う」


 ユウタは腕組みをしながら、難しそうな顔をする。

「……でも、そんな場所に入り込むのは危険じゃないかな。さすがにまずいって、先生たちに怒られるぞ」


「だから先生には内緒にしてほしいの。もちろん無茶はしないわ。私も、実際にそこから潜りこむつもりはない。まずは入口が残っているかどうか、確認したいだけ」


 ジュリのひとみには、不安の奥に燃える探究心が見え隠れしていた。見かけはクールだが、そこに秘められた情熱は、みのりとユウタを引き寄せる不思議な力を持っている。


「わかった。放課後、ぼくたちも一緒にその辺りを探してみるよ」


 ユウタは真剣な面持ちで答える。するとジュリはほっとしたように笑みを浮かべ、階段を下りていった。

 その背中からは、計り知れない責任感のようなものがにじみ出ている。まるで、ただ好奇心で探偵ごっこをしているのではなく、“何かを明らかにしなければならない理由”を抱えているようにも見えた。


 昼休みになり、さっそくみのりとユウタは旧館の外周を探ってみる。煙突えんとつのように突き出た配管や、校舎の高低差を埋めるための地下階段の入口など、普段なら目もくれないような場所まで注意深く見るが、明らかに“不自然な扉”はなかなか見当たらない。


「当たり前かもしれないけど、そう簡単にはいかないね。……どうする、もう少し奥まで行く?」


「うん、せっかくだしもう少し見て回ろうよ」


 コンクリートがげ落ちかけた壁には、昔の工事で書かれたらしき番号が薄く残っている。雑草が生い茂った隙間に足を入れれば、土のにおいと湿しめった草葉の感触がまとわりついてくる。普段は足を踏み入れない領域だ。

 そうして廃棄物置き場の裏手に回ったときだ。ユウタがなにかに気づいたように、声を上げる。


「おい、みのり、ここ……見てくれ」


 その指先の先には、壁の下部に鉄格子てつごうしのはまった細い換気口があった。小動物がようやく通れるくらいの隙間だが、よく見ると以前の補修跡が不自然だ。そして、その格子はなぜか最近になって開閉できるように改造されているように見える。


「こんなところ……普通は外から開かないはずだよね?」


 みのりが軽く引っ張ると、がたん、と金属の音がして、鉄格子が少しずれた。その奥には、暗いトンネルのような空洞が広がっている。空気の冷たさがこちらにも伝わってきた。


「誰かが、ここを通れるよう細工した……? でも、これじゃ人ひとり通るのは厳しいかも。子どもならギリギリ……って感じかな」


 つぶやくみのりの目には、不安と期待が交錯していた。確かに大人が体を伸ばして通るにはきつそうだ。だが、何らかの目的でここを利用している者がいるのかもしれない。

 もしこの奥が旧館の地下へと通じているならば、夜な夜な資料室に侵入している“誰か”がいる可能性もある。それが“リスト改ざん”の犯人なのだろうか。


「……どうする? 今ここに入ったら、まずいよな。昼休みだけじゃ時間もないし、道具もないし」


「そうだね。ジュリ先輩にも報告して、慎重に考えよう」


 ほっと息をついた二人は、換気口の存在を頭に刻み込み、急いで元の場所へ戻る。チャイムが鳴ってもおかしくないほどの時間になっている。

 しかし、何者かがここを利用している──そんな疑念がさらに強まった今、“歪んだ鏡”の謎は深みを増すばかりだ。


 放課後、三人は校内の一角にある空き教室に集まった。ジュリは黒板に旧館の見取り図を描きながら、二人に尋ねる。


「で、実際に換気口が怪しかったと?」


「はい。誰かが手を加えたとしか思えない痕跡こんせきがありました。あのサイズなら、もしかしたら子どもか、小柄こがらな人ならもぐれるかも」


 みのりの報告に、ジュリはうなりながら地図に印をつける。そこから見れば、確かに“地下配管”とも位置がつながりそうな気配がある。建築図面で示された経路が、本当はふさがれていないのかもしれない。

 ユウタが、ふと思いついたように言った。


「リストを改ざんした犯人が、夜にそこから侵入してる可能性はあるよね。……だけどどうして、そんな危険をおかしてまで?」


「鏡が関わってるのは、ほぼ確実よね。“鏡にまつわる作品”の記録だけが無くなっているわけだし」


 ジュリはチョークを握りしめ、黒板に“鏡”と大きく書き込む。

 ──自分の姿が正しく映らない謎の鏡。過去の学園に寄贈されたという芸術品。それを誰かが意図的に隠そうとしているのか、それとも逆に“発見”しようとしているのか。


「そういえば、江藤えとう先生は、この件をどう言ってるんだろう?」


 ユウタが名前を出した瞬間、ジュリの表情がわずかに曇った。江藤先生は特別資料室の管理を任されている人物。表向きは「システムの誤作動」で片づけているようだが、何か裏があるのではないかとジュリはにらんでいるらしい。


「何度か話を聞きに行ったんだけど、はぐらかされてばかり。でも……私が小学生の頃、資料室の奥にある鏡を初めて見たとき、江藤先生がやけに慌てていたのを覚えてるの。あのときから、彼は何かを隠してると思う」


 静かな空き教室に、一瞬の沈黙が落ちる。

 みのりはそっと息をのみながら、廊下の窓ガラス越しに見える旧館の屋根を見つめた。夕闇が迫り、校舎の影が長く伸びている。いつもと変わらぬ学園の風景が、その影を潜り抜ければどんな秘密を抱えているのか、想像もつかない。


「まずは、地下から入るのは最後の手段として……資料室の正式な許可を取る方法も探してみよう。江藤先生が信用してくれればいいんだけど」


 ジュリは小さく息をつきながら、そう提案する。正攻法で資料室の鍵を借りられれば危険を冒さずに済むが、改ざんの痕跡を隠しているのが江藤先生本人だとしたら、協力は期待できないかもしれない。それでも、捨ててはおけない選択肢だ。


「わかった。じゃあ、ぼくは明日、授業の合間に職員室へ行ってみるよ。陸上部の用事で頼みごともあるし、そのついでに先生と話してみる」


 ユウタが申し出ると、ジュリは「無理しないでね」と声をかける。みのりも勢いで名乗り出たいところだが、江藤先生とはまだ面識が浅い。ユウタのほうが話しやすいだろう。


 かくして、夜のとばりが降りかかる前に三人は解散した。けれど、誰の胸にも不安と興奮が渦巻いている。

 “地下配管から隠れて出入りする存在”“歪んだ鏡を巡る改ざんされたリスト”“隠し事を抱える管理人の江藤先生”──これらが繋がったとき、いったいどんな光景が浮かび上がるのか。

 それは、まだ誰も見たことのない新たな地平の入り口。危険と好奇心が交錯する、いわば禁断の扉だった。


 そして、この日の夜。学園の旧館付近を通りかかった近隣住民が、奇妙な音を聞いたと語る。

 金属がこすれ合うようなガタン、ガタン、という響き。そして、ひそやかな人影の気配。

 ──誰が、何のためにしのび込んでいるのか。鏡の奥に潜む影が、少しずつ姿を現そうとしているかのように思えた。

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