歪んだ鏡

真島こうさく

第一話「歪んだ像」

 ──あれは、私立守端しゅたん学園の旧館にまつわる奇妙なうわさが生まれた日だった。


 放課後の図書室はいつになく静かで、窓ガラスをかすめる風の音だけが耳に届く。中学一年生の狭山さやまみのりは、小さく息をついた。手にした文庫本の活字をたどる指が、ぴたりと止まる。


「あれ? この学園案内、なんだか変だな……」


 それは学園の歴史を写真とともにまとめた薄いパンフレットだった。数年前に作られた改訂版とされるが、目を凝らすと、あるページから先の写真がきれいに切り取られている。元は何が写っていたのだろう。その白い余白が、かえって強烈に不自然さを放っていた。


「おーい、みのり、まだここにいたの?」


 図書室の扉を開けて顔を出したのは、同じクラスの木原きはらユウタ。体格が良く、スポーツ万能。いつも明るい彼の声が、夕暮れ色に染まりつつある室内を一瞬だけ賑やかにする。


「ユウタ……このパンフレット、見たことある? ほら、ページが破れてるの。しかもずっと昔の旧館の写真だけ消されているみたい」


 みのりは指先で余白をなぞるようにして、ユウタに見せた。ユウタは首をかしげて、


「ん~? 単なる事故とかじゃないの? だけど同じところが何箇所も破れてるし……何かワケありっぽいな」


 だが、話はここで終わらない。その破れた箇所をよく見ると、ごくかすかな鉛筆の跡があるのだ。走り書きされた文字は、まるで消しゴムで消えかけた亡霊のようにほとんど判別できなかったが、それでも「鏡」と「記録」の二語だけは読み取れた。


「鏡……? 記録……?」


 嫌な胸騒ぎを覚えたみのりは、かすれた文字を目で追いながら、小さくつぶやいた。思えば、この学園にはやけに“鏡”にまつわる噂が多い。旧館の特別資料室に置かれているとか、かつて生徒が姿見をのぞき込んで失神したとか……ただの都市伝説かと思いきや、不気味な偶然を感じさせる響きだ。


 そこへ、図書室の奥から重そうな本を抱えた一人の女生徒が近づいてきた。ショートヘアにりんとした雰囲気を持つ彼女は、高校三年生の滝川たきがわジュリ。守端学園の一貫コースをずっと過ごしてきた、いわば学園の事情通でもある。


「それ……旧館の写真が破れてるの、気づいちゃったんだ?」


 ジュリは意味深に微笑むと、本をテーブルに置き、みのりとユウタの前に座り込んだ。その表情は落ち着いているのに、どこかいどみかけるような鋭い光を宿している。


「実は、最近になって“資料室の管理リスト”が改ざんされたっていう話があってね。先生方は入力ミスだとかシステムの不具合だとか言ってるけど……私は違うと思う。とりわけ『鏡に関する美術品』の記録だけがごっそり消えているみたいなの」


 淡々と告げるジュリの言葉に、みのりの背筋がひやりとした。鏡をめぐる噂と、消えた学園の記録。これらは偶然の符合なのか、それとも誰かの意図が働いているのか。


「鏡って、あの“歪んだ鏡”のこと……ですか?」


 恐る恐るみのりが尋ねると、ジュリはうなずきながら小さく笑った。


「どうやらね。ずいぶん昔から“自分の姿を正確に映さない鏡”が存在してたんだって。由緒ある寄贈品らしいけれど、今じゃほとんどの生徒も知らない。なんでもこの学園には、あちこちに隠し部屋や秘密の扉があって……その鏡が、旧館の最奥に保管されているんだとか」


 旧館といえば、校舎の奥深くにある古めかしい建物。今では一部が使われているだけで、生徒が自由に出入りできるところはほとんどない。その厳重さは誰でも知るところだ。


 けれど、どうしてそんな鏡が存在し、なぜ今になって記録ごと消されつつあるのか。その答えを知る者は、そう多くはないだろう。


「……気になるね。ちょっと調べてみようか?」


 ユウタは腰に手を当て、いかにも冒険心をき立てられた様子でニヤリと笑う。みのりも、小さくうなずいた。怖い気持ちはあるが、それよりも好奇心のほうが強くなっていた。


「……ねえ、ジュリ先輩。もし迷惑じゃなければ、私たちにも情報を教えてもらえませんか? 何が起きているのか知りたいんです」


 その問いに、ジュリは少し考え込んだあと、「いいわよ」とうなずいた。ただし、そのまなざしには警戒と覚悟が入り混じっている。


「じゃあ、まずは“消えたリスト”の謎から一緒に探りましょ。ただし覚悟してね。下手をすれば、私たちが封印されかけている秘密に足を突っ込むことになるかもしれない」


 夕日の射す図書室。かさかさと本のページをめくる音が、静かな空気の中でやけに大きく響いている。

 その音に交じって、みのりの胸にちらりと生まれた予感が、次第に確信へと変わっていく──。

 “この学園には、何かがおかしい。そしてその何かは、私たちの想像をはるかに超える場所に隠されている。”


 こうして、狭山みのりと木原ユウタ、そして滝川ジュリの三人は、まだ誰も踏み込んだことのない“鏡の謎”へ足を踏み入れることになる。その一歩は、あまりに頼りないほど小さかったが、遠からず、驚くべき真実が彼らの前に姿を現すだろう。


 ──そう、まるで自分自身の姿さえ映さない不気味な鏡の奥から、何かがじっとこちらをのぞいているかのように。

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