2.

 その日も俺は〈好香亭〉で昼食を食べ、満腹からくる心地よい眠気を味わいながら、駅に向かって歩いていた。

 昨晩の大雨が嘘のように晴れ渡り、往生際の悪い水溜まりが目の冴える空色を映している。この素晴らしい満足感を、晴れやかな気分を、返済に追われるあの女性は味わうことがないのだと思うと、なぜだか無性に悔しかった。けれど、しがないサラリーマの自分にできることは、精々沢山通って八百円ずつ売り上げに貢献することだけだろう。


 と、考え込む俺の視界を黒い影が過った。

 見覚えのある、そして憎いあの巨体が、俺を通り過ぎて行くところだった。


「あいつ……!」


 ポケットに両手を入れ、一歩踏み出すたびに肩が大きく空を切る。まるで獣のような歩き方。

 あの店に行くのだろうか。

 そう思った時には、俺は男に声を掛けていた。


「ちょっと、あの」


 サングラスがこちらを向く。俺よりも十センチは高いであろう巨体が脅すように間近に迫り、止まる。甘ったるい香水の臭いがした。


「あ?」

「あ、あの、あの店の、おっ……あ、〈好香亭〉の、その」


 冷や汗がどっと吹き出した。俺を奮い立たせたヒロイズムは気のせいだったらしく、瞬間的に消え去ってしまっていた。


「お前、あの店の常連か」

「あ、いや。えーっと、そうかな? うん。それでですね、あの」


 男はサングラスをずり下げ、背繰り上げるように俺を睨み付けた。


「なんだ? 言いたいことがあるならさっさと言え! てめぇに構ってる暇なんざ――」


 突然、気の抜けた音が二人の間に割って入った。

 苦しいような、情けないようなこの音は、ちょうど青椒肉絲定食を平らげたばかりの俺ではありえない。

 と、すると。

 顔を上げると、いかついピアスをぶら下げた耳朶が、茹で蛸ばりに赤くなっていた。


「……お、おう」


 俺は思わず声を漏らした。男は黙っている。腹の音はまだ鳴り止まない。盛大だ。


「え、えーっとですね」


 なんだか拍子抜けした俺は、気を取り直して話を切り出した。


「女将さんから、あなたが〈好香亭〉の借金の取り立てをしていると聞いたんですが。あなたが昼時の営業時間内に来られるとですね、他の客がその、萎縮してしまうと言うか。客足が遠のくようでしてね?」


 巨体がぴくりと反応した。


「その、そちらも返済してもらうためにはあの店に儲かってもらった方がいいわけですし、できるなら取り立ての時間を営業時間外にした方がいいんじゃないかなーっと。思いまして」


 男が顎を上げる。サングラスが太陽の光によって鏡面のように輝いた。


「……あの女がそう言ったのか?」

「え? ああ、まあ」


 男がゆっくりとサングラスを外す。現れた双眸は、なぜか潤んでいた。


「えっ」

「あんた。その話、詳しく聞かせろ」


 気が付けば俺は腕を掴まれ、駅の反対側にある喫茶店へと引きずり込まれていた。

 俺たちが入店した途端、お昼時の店内はサッと静まり返った。怖いもの知らずの好奇の視線が、二、三、俺の上を彷徨う。

 男は真っ直ぐに突き当たりのボックス席に陣取ると、大盛りナポリタンのランチセットを注文した。


「あんたは」

「え」

「コーヒーな」


 程なくして、毛糸玉のようなナポリタンセットとメロンソーダ、俺用のコーヒーがテーブルに並んだ。


「それで? あの女はなんて言ってたんだ?」


 肉を貪るゾンビのような形相で、ヤクザの男はナポリタンを啜りながら身を乗り出す。俺はまず自分が部外者であることを説明しなければ、と思い口を開いた。


「いや、あの。自分はただ事情を掻い摘んで聞いただけでして――」

「お、オレのことは? なんか言ってたんだろ?」

「え、いやーその」

「もう来てほしくないって?」


 そりゃ、借金取りに来てほしくないのは当たり前だろう。危なく出かかったツッコミを飲み込んで、俺は慎重に言葉を選びながら返した。


「というよりも、さっきも言ったように、あなたがランチタイムに店に来ると他の客が怯えてしまうんですよね。あの店って十二時半までは賑わっているんですけど、その時間を過ぎるとぱったりと客足が止んでしまうんですって」

「……それがオレのせいだって言うのか?」

「はい」

「くそやろう!」


 ドンッと男が机を叩く。フォークが跳ねて音を立て、コーヒーが溢れた。傍にいた客が恐々とこちらを盗み見る。

 男は拳の間に頭を入れながら呻き声を上げた。


「オレにはあの店で飯を食うことも許されねえのか!」

「へ」

「ひでぇよ……差別だ……ヤクザに対する差別だ……っ! オレが何をしたって言うんだよぉっ!」

「高利貸し。借金の取り立て」

「くそぉっ!」


 またしても男は机を叩き始める。アルバイトが慌てて店長を呼び、口を付けていないコーヒーがカップの半分まで減ったところで、俺はなんとか彼を止めた。


「まあ、あんな風に乱暴に入ってきたり、店内で怒鳴ったりすれば、ねぇ?」

「ぐ……」

「せめて営業時間外に来てくれればって言ってましたよ、女将さん」


 男はすっかりしょげて小さくなっていた。眉は八の字に垂れ、ソファーの中で縮こまっている。瞳は相変わらず濡れていた。


「うう……オレはあの人が作る飯が食いたかっただけなのに……」

「はあ」

「無茶な注文はつけてるけど、その分心付けも多めに渡してるし……むしろ、少しでも返済の足しになればと思って、通って……」

「え」


 男はぶるぶる震えたかと思うと、ついには大粒の涙を零し始めた。野獣のような眼光はどこへやら。

 なんでこうなってしまったのか、予想外の展開にさすがの俺も戸惑うしかない。からかっていたら女の子を泣かせてしまった、遙か遠い日の記憶が蘇っていた。

 なんだか無性に可哀想になってきた。彼が通っていた理由も俺と同じだったと知ると、親近感すら湧いてくる。

 こいつは家業として取り立てをやっているけれど、別にこいつ自身にはあの女将さんに恨みも何もないんだもんな……。


「あ、そうか」


 俺はまじまじと男を見た。男は情けなく鼻の頭を赤くして、睨んでいるようにしか見えない上目遣いを返している。彼が実は見た目よりも幼いのではと思ったのも、この時だった。


「あの女将さんのこと、好きなんですね」


 男は勢いよく立ち上がった。そして、足音高くトイレへと消えてしまった。


「なんだあいつ」


 少しして、男が戻ってくる。サングラスを掛け直し、肩を揺らして着席する様は露骨に威厳を取り戻そうと取り繕っていた。

 俺は話を続ける。


「あ、でも。女将さん、あなたのことを『いい人だ』って言ってましたよ。乱暴な取り立てはしないし、ご飯も残さず食べてくれるからって」


 再び起立。今度は駆け足でトイレへ逃げ込んだ。


「だから、なんなんだよ……」


 それから。

 あの男を宥め、打ち解けて話をさせるまでに、午後いっぱい使う羽目になってしまった。

 彼はたまたま担当になったあの女将さんに一目惚れし、ご飯を食べてみたらおいしくてさらに好きになってしまい、それでなんとか借金の返済を助けようと、遠回しな気遣いもとい迷惑行為を繰り返していたのだそうだ。

 蓋を開ければ馬鹿な理由なのだけれど、衝撃的なのはヤクザ者の恋心に留まらなかった。


「借金を帳消しにしてあげたら、好感度も鰻登りだと思いますよ」

「んなことできるわけねぇっすよ……第一、あの人に会う口実がなくなるじゃないですか……」

「じゃあ、女将さんを手伝って店で働く――は、さらに客足が遠退くからダメか。いっそ女将さんの借金を肩代わりしてあげたらどうです? 養ってあげるって言うか、結婚」

「いやいやいやいや! 何を言い出すんすか!」


 彼はソファーの上で跳び上がった。激しい貧乏揺すりが隣接するテーブルすべてをガタガタ揺らす。


「オレみたいな若造が、あの人を妻にめ、めと」

「落ち着いて」

「それにオレ、まだ酒も飲めない歳ですし。そういうのはまだ考えられねぇっす」

「……え? えええええええええ?」


 なんという老け顔。

 熊を素手で屠れそうな顔をして、御年十九歳。

 かなり若い頃から組に入って実績を上げてきたそうで、若手のトップとして頑張っているうちに、必要以上の貫禄がついてしまったのだそうだ。


 俺は彼の年齢についてしばらく呆然としていたが、首を振って話を戻した。


「しかしね、女将さんは途方にくれているわけで。このまま売り上げが伸びないんじゃあ、店を畳むか、返済のために風俗に――」

「だっ、ダメ! それだけはダメ!」


 体をくねらせ悶絶している。十九歳は純情だ。

 急に敬語を使うのが馬鹿らしくなる。


「じゃ、昼に通うのは諦めなさい」

「ぐうう……」

「ま、あの店は美味しいし、君が行かなければ繁盛するだろうね。客足が完全に戻るにはしばらくかかるだろうから、その間はどうしようもないけど……」

「そんな」


 彼は当分女将さんの顔が拝めないと知って絶望している。俺は同情するのも面倒になって、適当に肩を竦めた。


「ヤクザなんて怖がらない客が沢山捕まえられれば問題解決なんだが。そもそも、君にも原因があるんだぞ。君が店で大人しく、静かに食事していれば、事態はもう少し――」

「あ。そうか」


 老け顔ヤクザが立ち上がる。年相応の、キラキラした笑みを目に浮かべて。


「なんだ、簡単じゃねえか!」


 男――もとい、少年は脱兎のごとく店の外へ駆けだした。取り残された俺は段々遠のいていく「いよぉ、しゃああああああ」という叫び声を呆然として聞いていた。ナポリタンセットは俺が払うのかよ、と考えながら。


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