ヤクザ男子御用達料理店

1.

　駅から徒歩二分、ただし小汚い裏通り。スナックに挟まれて身を縮めているその店を見つけた時、俺は今日が良い日であると確信した。

　赤い看板には小さな提灯が規則正しくぶら下がり、掠れた文字で〈好香亭（こうこうてい）〉と書かれている。ショーウィンドウには随分と古めかしい中華料理の食品サンプルが。どのメニューも色褪せていたが、ケース内は丁寧に掃除されており、虫の死骸ひとつ落ちてはいなかった。

　店内に足を踏み入れると、案の定ボロさが目についた。けれど、やはり掃除は綺麗に行き届いていて、中華料理屋にありがちな古い油の臭いも最小限に抑えられている。並べられたスツールは座面が所々裂けていたけれど、可愛らしい中華風のクロスで繕ってあるあたり、店主の丁寧な為人が窺えた。

　俺が入店したのは、ちょうど店内にいた最後の客が会計を済ませた時だった。六人掛けには何人か分の皿が残されているから、先ほどまではそれなりに混んでいたらしい。時計を見れば、現在時刻は十二時半。ランチタイムが終わるには少し早い気がした。

「いらっしゃいませ。ご注文はどうされますか」

　隅の二人掛けに腰を下ろすと、会計を終えた女将が水を片手に身を屈めてきた。白い顔には化粧っ気もないが、忙しさゆえに上気した顔はなかなかどうして美人に見える。寂れた店の雰囲気も相まって、薄幸の美女という言葉がぴったりの女性に思えた。

「えーっと、メニューは……」

　キョロキョロと店内を見回す。倒福飾りの隣に掛けられたホワイトボードに本日のメニューが書かれていた。レバニラ定食、麻婆茄子定食、野菜炒め定食、油淋鶏定食。

「それじゃあ……麻婆茄子定食で」

「かしこまりました」

　女将は厨房に引き返すと手を洗った。かと思えば、そのまま材料を炒め始めるから驚いた。駅前の店で平日の昼時に一人営業とは。駅前には各種チェーン店もあるにはあるし、バイトも雇えないほど経営が苦しいのだろうか。彼女はどうやらまだ三十かそこらだろうし、親父さんが急病で倒れたとか、そんなところかもしれない。

　鍋の底で油が弾け、水分が大きな音を立てて蒸発する。香ばしい臭いが食欲を掻き立て、お玉が奏でる小気味良いリズムに、ついつい腹の虫が合いの手を入れる。今か今かと待ち侘びる間に、俺の空腹は絶頂を迎えた。

　調理の合唱が止む。ややあって、カチャッと耳覚えのある音が耳に届いた。炊飯器のご開帳だ。いよいよ、麻婆茄子定食が俺の前に並べられる。

「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」

　ふっくらと小山に盛られた純白のご飯。湯気の立つ挽肉たっぷり麻婆茄子。控えめに添えられた卵スープに、漬け物ではなくザーサイというのも少し嬉しい。

　いざ。と、肺を広げて鼻腔一杯に甘美な香りを吸い込んだそのタイミングで、空いた皿を下げる女将と目が合ってしまう。なんとも恥ずかしいところを見られたと、慌てて定食に向き直る。まず口をつけた卵スープは、ほっと優しい味がした。

　麻婆茄子は旨かった。決して過剰な美味ではない。が、「街角の小汚い中華屋に望まれる味」に的確に応えた素朴な美味さを備えていた。やや甘めの味付けと塊の残った挽肉の歯ごたえが白米によく合う。茄子も火が通り過ぎずちょうどいい。

　しばらく、夢中で頬張った。舌が少し口直しをさせろとせっつけば、割り箸の先をザーサイに向ける。卵スープで一息吐いたところで、再び麻婆茄子で白米を掻き込む。花山椒の香ばしさが堪らない。

　そんな至福の時間を、乱暴な扉の音が掻き乱した。俺はビクリとして店の入り口を振り返る。

　ぬっと突き出したのは、黒光りするヤマアラシのような頭髪だ。厳つい体躯の男が店に入って来た。シャツの胸元から覗く入れ墨に気が付くまでもなく、サングラスの下から覗く眼光だけで、その男がその手の筋の者だというのは察しがついた。

　男の登場により、店内は一回りも二回りも狭くなった気がした。立ち尽くしていた女将が慌てて水を用意しに行く。男は厨房に一番近い席に陣取ると、メニューも見ずに唸った。

「カレー」

　そんなものはメニューにはない。裏メニューという訳でもないことは、ぽかんと口を開けた女将の様子からも見て取れた。

「カレーライスっつってんだろうが！」

　男の掌が机を叩く。女将はビクリと体を震わせたが、顎を上げた顔には怒り混じりの強い意志が宿っていた。

「かしこまりました」

　一連のやり取りを見て、俺はこの店が繁盛していない理由を理解した。安くて旨い。店主は美人。だが、暴力団関係者――つまりはヤクザ者の御用達となると、客足が遠退くのも無理はないだろう。そうでなくても、怒鳴り声というのは飯を不味くする。俺は逃げ出した食欲を求め、皿の上に箸を漂わせた。

　男は壁に背を預けて横向きに座り、机に肘を投げ出して踏ん反り返っていた。男が唾を呑むたび、派手に突き出た喉仏が別の生き物のようにぬるりと動く。

　不意に、男がこちらを振り返った。

「……あ？」

　あ、やばい。これは関わったらいけないやつでは――と本能が警告するものの。俺は威嚇するように箸を構え、真っ向から男を睨み返していた。

「んだ、てめぇ？　何か言いたいことでもあんのか」

　男がゆっくりと立ち上がる。俺はサッと視線を落としたが、時既に遅し。男は俺を標的と定め、サングラスの下から殺意を迸らせていた。

　ところが、男が大きく一歩踏み出したその瞬間。男は厨房から出てきた女将と鉢合わせした。鼻先に突き付けられる、炒飯用の八角皿。どろりと濁った女将の双眸がサングラスを見上げた。

「お待ちどうさまです」

「お、おう」

　女将は華奢だ。男の胸にも届かない。にもかかわらず、ヤクザ者は気圧されるように後退り、大人しく丸椅子に収まった。

　男の前にカレーが置かれた。こんもり盛られた白飯と、堀のように周りを埋めるカレーのルーが実に旨そうである。

「おい、注文と違うんじゃねえか。オレが言ったのは――」

「キーマカレーもカレーでしょう」

　女将はぴしゃりと言い放ち、皿の隣に茶封筒を叩き付けた。

「どうぞ。今月分です」

　女将から事情を聞いたのは、それから数回通った後のことだった。

「借金がありまして」

　女将は苦労が恥じらいまでも奪い去ってしまったという顔で、他界した父が借金を残していたこと。払えないなら土地を寄越せと言われたが、父の店をどうしても手放したくなくて、なんとかやり繰りして今日まで返済を続けていることを話した。

「所謂、闇金融です。いつ返し終わるのやら」

　自嘲気味に微笑んだ女将を見て、俺は胸の奥がじくりと痛んだ。

　例のヤクザ者は週に三回ほど、十二時半になると現れる。そのたびに奥の指定席に座り、メニューに無い物を注文するのだそうだ。女将はあの手この手でそれに応え、月初には「今月分」の入った茶封筒を渡していた。

「でも、いい人なんですよ、あの人。無茶な注文はするけど、乱暴な取り立てはしないし、ご飯も必ずお米の一粒も残さず食べてくれるもの」

　ただ、どうして掻き入れ時のランチタイムに取り立てに来るのかは彼女にもわからず、十三時以降の客足の激減は明らかに奴のせいだということは、彼女も気が付いていた。

「営業時間外にして、とは言ってみたんですか？」

　俺は卵スープを啜りながら聞いてみる。女将は困り顔で首を振った。

「怖くて、そんな。返済を待ってもらっている身ですし、それ以上のことは……」

　聞いてくれてありがとう、と女将は唐揚げをひとつおまけしてくれた。