そこまで語ると、しおりは獄楽に目を向けた。

「おかしいですよね。そんな場所にいる、姿も見えない存在を信じて、友達になっちゃうなんて」


 しかし獄楽は、薄笑いを浮かべたまま答えた。

「お話の内容に感想を持つのは、私の仕事ではありませんからな。私はただ、あなたのお話に買い取るだけの価値があるのか、見極めているだけです」


 ビオラの音色のような落ち着いた声は、だが淡々と答えた。

 ――本当に不思議な人だ。


 しおりは知っていた。

 同情などというものは、語り手の、そして聞き手の自意識を一瞬満足させるだけで、何の価値もない事を。


 だから今のしおりにとっては、今までに会ったどんな人物とも違う、獄楽のそんな姿勢が心地好かった。


 少し温くなったニッキ水を口にする。しかしピリリとした味わいは、口に強烈な清涼感をもたらした。


「……さて。そしてあなたは、それからどうなさったのですかな?」

 獄楽が促す。

 透き通った緑色の液体が揺れる瓶を両手で包み、しおりは口を動かした。


「私はその声と約束をしました。その日の放課後、必ずまたここに来ると。すると声は、ならば、早く教室に戻りなさい、いつまでもここにいては、秘密がバレてしまうからと、そう言いました――」



 ***



 授業が終わるチャイムを確認してから、しおりは教室に戻った。

 クラスメイトたちの視線が、一斉にしおりに注がれる。けれど、怖くはなかった。

 私は何も、悪い事をしていないのだから。


 するとすぐに、担任の先生に呼ばれた。

 職員室の端の面談用の椅子で、しおりは先生と向き合った。

「一体どうしたの? あなたが授業をサボるなんて」

 ……サボる。確かにしおりは、授業をサボった。それは悪い事だろう。

 けれどそれには理由があるし、その理由をただせば、しおりは決して間違ってはいない。


 けれどしおりは分かっていた。

 大人は、結果しか見ていない。その原因なんてどうでも良くて、結果が間違っているように見えたら、それは悪い事にされる。


 だから、どんなに言い訳をしたところで機嫌を損ねるだけだ。本当の事なんて、言わない方がいいと思った。

 しおりは答えた。

「一時間目の国語のテストが、全然できなかったから、それで……」

 先生は自分の席からテストの束を持ってきて、パラパラとめくる。そしてしおりの答案用紙を抜き出してテーブルに置いた。

「しおりちゃんらしくないじゃない」


 ――私らしさ。

 先生が、私の何を知ってるというの?

 何も分かってないくせに、私を型に嵌めないで。


 そう思ったけれど、反論するのも面倒で、しおりはペコリと頭を下げた。

「ごめんなさい」


 ……教室に戻ると、嫌な空気がしおりに襲い掛かった。

 ヒソヒソと遠巻きに囁く視線。いつもは大声を上げている圭人も、窓際で取り巻きと集まり、小声で何か話している。


 だがしおりは淡々と、机から本を取り出し読みはじめた。

 そんな視線はもうどうでも良くて、今のしおりはただ、授業が全部終わるまで、静かに自分らしく過ごせれば、それで良かった。


 そして六時間の授業が終わり、やや薄らいだ日差しの中を、より濃度を増した影を通り抜けて小屋に向かった。

 ささくれ立った木の扉を開けるのに、躊躇はなかった。


 すると、それはすぐに目に入った。

 黒ずんだ小便器の前。

 竹箕が置かれ、その上に瑞々しい木蓮モクレンの大きな葉が、何枚か重ねられている。

 それに丁寧に包まれるように、しおりの消しゴムが置かれていた。


 そっと手に取る。

 しおりの大好きなキャラクターの描かれたケースは破れ、まだ少ししか使っていなかった白い角は真っ黒に削れている。

 それに悲しい気持ちになりながらも、しおりは消しゴムの下面、鉛筆で黒く塗り潰された面を指で擦った。


 ……すると鉛筆の汚れは薄くなり、現れたのは、青い油性ペンのママの文字。


「やっぱり私、間違ってなかった……」

 目に溜まった涙は頬を伝い流れ落ちた。

「ありがとう……」

 震える言葉に、薄黄緑のペンキが剥がれた扉の奥から声がした。

「良かったわ。しおりが喜んでくれて」


 ――その時、ふと疑問が浮かんだ。

 教室に戻ってから、しおりはトイレくらいしか教室を出ていない。

 圭人の席は、しおりの席の斜め後ろ。

 クラスメイトでない人がそこにいれば、気付かないはずがない。


 それにどうして、一度扉から出たにも関わらず、またこうして個室に籠っているのか?


 その疑問を打ち消すように、声は明るく続けた。

「私たち、友達だもんね」

「う、うん……」



「私の友達を悲しませる奴には、バチが当たるよ」




 ――その後、しおりは逃げるように帰宅した。

「ただいま」

 精一杯明るい声でそう言ってから、しおりは自分の部屋に入った。


 そして、筆箱から取り出した消しゴム。

「…………」

 お気に入りだったはずのそれは、しおりの手の中で、極めて不気味なもののように見えた。


 けれど、今ある消しゴムはこれしかなく、また買ってもらおうとすれば、失くしたと言い訳しなければならない。そんな事をすれば怒られるのは目に見えている。


 仕方なく、しおりは破れたケースをテープで補修し、汚れを丁寧に擦り取った。

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