第4話 それぞれの蠢動

 その日、俺は夜の会議があって、帰りが遅くなった。

 マンションへ帰り着きシャワーを浴びた後は動くのも面倒で、ついうたた寝をしてしまったようだ。気付くと10時近くになっている。部屋の冷蔵庫をのぞいても空っぽだった。今週は忙しくて、買い物するのを忘れていた。買い置きのカップ麺すらない。俺は仕方なく買い物に出かけることにした。

 外へ出ると5月に入ったばかりの京都の夜は、まだ少し冷えた。

 俺のマンションは学校から鴨川沿いにずっと上がった左京区にある。この辺りは店も少なく、本道を離れて一本中へ入った道には事務所や古い家が並び、夜の通りは、ひっそりとしている。俺は通勤に毎日使っている緑の自転車にまたがると、ゆらゆらと夜の街を走らせた。

 寂しげな街灯の道を少し走ると、青く眩しいほど光を集めたコンビニが現れた。

 店内に入ると、客はいない、カウンターの向こうにコンビニの制服が1人いるだけだった。

 俺は、缶コーヒーと弁当を手に、会計に向かう。

 店員は、少し間があって、お決まりのセリフをつぶやいた。俺はそんな店員に声をかける。

「よお、お疲れさん」

 俺の言葉に、商品を手にした店員の手が動きを止めた。

「先生……」

「俺のマンション、この近くなんだ。遅いの大丈夫か?」

「すみません、今日はいつもの人が休んじゃって、どうしてもっていうことで……」

「無理すんなよ」

「あ、もちろん十時で終わります。すぐに店長さん来てくれるはずなんで」

「そうか、気をつけてな」

 それだけ言うと俺は会計を済ませてコンビニを出る。すれ違いに慌てるようにして入って来た、人の良さそうな中年男が、柊に「ごめんね」と謝っていた。良かった。あれが店長さんか。

 柊がここでバイトをしているのに気づいたのは、4月の中頃のことだった。

 夜、買い物に出掛けて、高校生らしいのが結構夜遅くにいるなと思ってたら、次の日に、学校でそいつを見かけた。

 18歳未満は法律上10時以降に働いてはいけないはずだと思って確認すると、うちの学校はバイトは許可しているが、夜は9時までとなっていた。その男子生徒が2組の柊碧人(ひいらぎあおと)だとわかったので、それとなく担任の中倉先生に聞いてみた。

「ああ、柊ですか。実はちょっと心配してるんですよね。彼の家、爺ちゃんと2人きりで、しかもその爺ちゃん、身体の具合悪いらしくて、色々と介助が必要らしいんですよね。中学の先生が心配して電話して来てくれたんですよ、気をつけてみてやってくれって。なんでも中学の頃から朝の新聞配達して、爺ちゃんの世話もしてって感じで。とにかく本人は頑張り屋で、そのことを人に言わないからって」

 朝もバイトしてるのか……、その上、夜まで。

 中倉先生には、バイトの情報だけは伝えておいた。

 夜のバイトも一応9時までらしいからセーフなんだが、心配なことに違いはなかった。 

 今回、彼が対抗戦のメンバーを引き受けてくれたというので、少し驚きもし、注意して見ていたのだ。

 俺は、コンビニの前で缶コーヒーのタブを開けると、ゴクリと飲みながら空の満月を眺めていた。

 そうしていると、柊が出てきた。

「よお、柊、お疲れさん」

 俺はそう言って、もう1本の缶コーヒーを差し出す。

 俺の姿に、少し気まずそうにした柊は、くせ毛の髪をさわりながら挨拶を返しコーヒーを受け取った。

「見ろよ、今日は満月だぜ。やっぱ満月って、こうパワーを感じる気がするよな」

 横に立った柊は、179センチの俺より少し高いが胸板は薄く、空を見上げたその頬は、コンビニの青い光と月明りの中で、青白く透き通るように見えた。

「うちは、2ブロック先のメルベーユ北山って所、知ってる? あの名前、外見の古さにあってないだろ、俺、最初見た時、ちょっと驚いた。まあ、ここからなら自転車でも通えるかって決めたんだけど。柊は、この近くなの?」

「はい、うちは上賀茂の方です」

「そっか、柊、家のこと、しんどいことあったら言ってくれよ。できることを一緒に考えるっていうのは、俺にだってできるからさ。これでも大人だ。お前より色々知ってること、あるから。 

 それに、俺、今はチームの監督だしな。まあ名前だけって感じかな」

 柊はコーヒーを開けもせず、黙って月を見上げていた。

「……さてと、帰って飯にするか。じゃあな」

 俺は、自転車にまたがると手を振って、別れた。

 少し走って振り向くと、街灯の向こうに遠ざかる柊の細い背中が見えた。

 ちょっと説教くさくなったな。あかんな俺、こういう時に上手く声かけられないな。

 俺は、自転車のペダルをグッと強く踏み込むと、家路を急いだ。


 その後、対抗戦の練習は順調で、「今年のメンバーは、これまでにないやる気に溢れてますよ」と日野が自慢するだけはあった。柊も、週に一度は顔を出し、その時は、毎日練習している他のメンバーも驚くほどで、相当鍛えている日野ですら負けるのだと言う。今では岡崎に次ぐナンバー2は柊になっている。

「ずるいぞ柊、お前どんな練習してんだよ。教えろよ」

と、伊山に詰め寄られ、

「いや、時間あったら、札をおさらいして、取る練習してるだけだよ」

と言っても信じてもらえず、あまりに責められるので俺のとこへ避難してくるぐらいだ。まあ、柊も少しは俺を頼ってくれてるってことで俺は気分が良かった。

 伊山と天見も熱心で、特に天見は、根っからの真面目さと、まっすぐな性格で、暇があると歌を書いた単語カードと睨めっこをしている。家が井手町で、通学に1時間かかる上、門限が18時だとかで、この間見たように17時には帰らなければいけないようだが、そんな中でも寸暇を惜しんでやっている。

 教室でも、いつもカードを手にしているので、

「おい天見、熱心なのはいいけど、まさか俺の授業中はしてないだろうな」

と冗談のつもりで言うと、顔色を変えてぶるんぶるん頭を振っていた。

 まさか、こいつ……、次の授業からは要注意だ。

 

 5月の連休明け、鴨川高校は少人数のせいか、他の高校ではまずやらない新入生保護者面談というのがある。入学してからの様子や進路の話などをするのだ。まあ保護者の話を聞けば、生徒の背景がよく見えてくるから、早めに知っておくにこしたことはない。基本、この親にしてこの子ありだ。今も、伊山の親父さんの、ひとり親の苦労話で大いに盛り上がってしまい、10分も時間オーバーしてしまった。やたら明るい親父さんが部屋を出ていくと、俺はふうーと一息ついて時計を見る。

 さすがに伊山の親父さんだ。規模は小さいというが会社の社長さんをしているというが、その明るいパワーに圧倒された。話の中で、お手伝いさんが日常の家事をしてくれているみたいだが、夕方には帰ってしまうので、いつも伊山が夕食の準備や親父さんの世話をよくしているという。意外というか、やはり聞いてみないとわからないものだ。

「あいつは自分が亡くなった母さんの代わりのつもりかもしれないんですがね」と、唯一しんみりと言った親父さんの言葉が心に残った。

 しかし、面談も一日やり続けると、喋り疲れて口だけが惰性で動いていると感じだす。

 俺が、少し息を継いでいると、いきなりドアがガラリと開いた。

「先生、もういいですか。もう10分も待ってるんですけど」

 顔を出したのは、次に待つ天見のお母さんのようだ。

「あ、すみません、どうぞ、どうぞ」と慌てて、招き入れる。

 すると、天見の母親の後ろから男性も続く、ん? お父さんもか。

 高校生の面談に両親共にというのも珍しい。2人は俺の前に、どさりと腰を下ろすと、人を見定めるような視線を遠慮もなく向けてくる。そして、いきなり母親が、我慢ならないという顔つきで口火を切った。

「時間は守ってくださいよ、こっちだって暇じゃないんですから」

 俺は、いきなりのマイナスオーラに驚きつつ、とにかく平身低頭、謝罪を述べて、なんとか本題の生徒の話にもっていく。だが、どうも母親の不機嫌の嵐は収まらないようだった。

「もともとうちのは、こんなところに来るはずじゃなかったんですから。もうほんと、中学の担任に騙されたわ、こんな美術ばっかりやってるなんて。これで、ほんとに大学とかいけるんですか? ここ」

「ええ、それはもちろん、そういう進路を選んでいる者も多くいます。特にこの普通科クラスの者は、大半がそうだと思いますが」

 どうもこの母親、美術が気に入らないようだ。ことあるごとに、美術なんてと言う言葉を間に挟んでくる。これは参ったな。父親は、終始、横で腕を組み、むすっとしてこちらを見ているだけだ。母親の言葉に、賛成も反対も示さない。

 天見の家での様子を詳しく聞く間もなく、あっという間に予定の時間を過ぎ、これ以上長引かせても無駄だと思った俺は話を切り上げた。

 来た時同様、嵐のように部屋を出て行った2人に、俺はひどくぐったりしてしまった。そして言うべきことを言えなかったイライラをゴクリと飲み込む。

 開いたままのドアを閉めに行くと、廊下の向こうに天見の両親の背中が見え、その後をついて歩く天見がいた。

 もしかして、廊下で待ってたのか。まさか話は聞こえてないよな……。

 俯き両手を上着のポケットに入れて歩く天見の背中は、これまで見たことのないほど小さく見えて、俺は口の中がひどく苦くなっているのに気づいた。


 翌日の放課後、懇談もようやく終えた俺は、和室へ生徒会の練習を見に行った。

 柊は来ていなかったが、他のメンバーは揃っている。

 今日は、岡崎がみんなに札の払い方を教えていた。

「みんな、いい。この取り方の練習が、取れるかどうかの分かれ目になることが多いの。時間にして0コンマ何秒の差よ。だから、かるたは『畳の上の格闘技』って呼ばれるの」

「おお、かっこいいじゃないっすか。畳の上の格闘技、ますます燃えるねえ」

「美紅、飛び込めばいいってもんじゃないからね」

「いやいや、ボス、格闘の世界は、そんな甘いもんじゃありませんぜ」

「美紅、それはドジな手下Bってとこか?」

「いえ違いますよ、日野先輩、美紅が最近ハマってる〇〇なんです」

 天見が日野に伊山の解説をまじめにやっている。伊山は演技の練習だと言って、しょっちゅう何かのキャラを演じているが、1年生たちは、すでにみんなスルーするようになっている。

 日野を含めた3人が、名前にでた最近よくドラマで見かける若い俳優について盛り上がり始めたのを、岡崎が制した。

「はいはい、そこの3人、コントはそのぐらいにして。

 わかったかな、家でも、この札を取る練習は、できるだけやって欲しいの」

 岡崎が、みんなの前でやってみせる。背筋をしっかりと伸ばした前傾姿勢からさっと右腕が札を払う。なるほど、手がすっと前に出て、札に向かう。綺麗で無駄がない。岡崎は前傾姿勢から、前、手前、右前、右手前、そして左と、リズム良く順に札を払ってみせる。

「さすが結愛先輩」伊山の言葉に天見がうなずき、フォームを真似ようとする。

「ほんと、先輩と比べると私なんかブレブレだ」

「よし、ソラ、練習しようぜ」

 天見が練習しているのを見ていると、彼女の右手にある褐色の痣に、つい目がいってしまう。

 右手甲の親指の下に褐色の痣がある。火傷だろうか、子供の頃のものだろう。天見は、意識してか、しらずか、その右手を気にしているところがある。

 かるたをしていても、右手の動きが、不自然に鈍い時があるのだ。そういえば、よくポケットに手を入れている。この年代だから、そういう人の目が気になるのは仕方ないな、俺はそんなことを考えていた。

 俺は、見てるだけでは飽き足らず、「日野、俺と勝負だ」と参戦する。

 懇談続きで体が固くなっていた俺は、久しぶりにみんなと汗をかき、その日の練習を終えた。

 帰りの廊下、賑やかに歩くみんなの一番後を歩いていると、ふと横に天見がいた。

 その天見が、何か言いたそうにしている。

「ん? どうした」

 天見は、俯いて少しためらう様子だったが、思い切ったように顔を上げて俺の方をまっすぐに見て言った。

「先生、ありがと」

「え? なんのことだ、天見」

 戸惑う俺に天見はニコリとして言った。

「先生、この間の懇談、私のこと、かばってくれてたでしょ」

「ああ、懇談か……、聞いてたんだな、でも俺は何もしてないだろ。でもな、なんかちょっとって思ってな。だって、こんなにいつも一生懸命で、真っ直ぐな奴はいないって言うのにな。それをお母さんにわかってほしくてさ」

 そう、あの懇談の時、俺はすごく違和感を覚えた。何で自分の子のことあんなに否定的に言うんだろうって、その時にはあまり喋らなかった父親の方まで、それに同意していた。俺が学校でのことを褒めても、あっさりそれを否定の言葉で上書きする。それでつい熱くなってお母さんに言ってしまったのだ。俺の知っている天見空と違うものをこの人たちは見ている。そのあまりの違いように、驚きそして最後までその見方を変えられなかった敗北感で俺はショックだったのだ。

「すまん、あまりうまく話せなかったな」

 俺がそういうと、天見は首を振って、

「全然そんなことないです。ほんとありがとうございました」

 そう言うと天見は、顔を赤くして前へ駆けて行った。その後ろ姿は、この前見た小さな背中とは違っていつもの天見だ。今も伊山や日野たちと楽しそうに笑いあっている。

 俺の知る天見は、控えめだが、誰に対しても、いつもまっすぐに相手に向かう。

 強い意志を感じるその目の光には、時折はっとさせられることがあるほどだ。

 そして、何よりも、いつも彼女の周りには人がいた。

 本人は静かなのに、彼女のいる所は、いつも日溜まりのように明るく見える気がする。

 そんな彼女の後ろ姿を見ていて、俺は、この間のことも少しは良かったのかなと思えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る