二
蒼は俯いてしまって、正座をした膝の上で拳を握りしめている。その手が微かに震えているのに気付いて、志明は大きく溜息を吐いた。
「一応可哀想だから、兄さんに聞いてきてあげるよ」
「……は?」
何を言っているのかというような、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。それがどうにも愉快に思えて、志明は笑いながら立ち上がる。
白い着物の袖を払い、水色の袴の裾がめくれ上がっているのを屈んで直す。それから、落ちてきた髪の毛を後ろへやるようにして。
「だから、兄さん。陽新
蒼はぽかんとした顔で、志明を見ていた。ここまで言ってもまだ、何を言われているのか呑み込めていないらしい。
まったく、もっとふてぶてしくしていれば良いものを。〈根ノ国〉の関係者がここまで何も調べていないとは思わなかった。もっとも、あえて与えていないという可能性もある。そうだとすれば、それはつまり蒼も利用されているということにはなるが。
「残念ながら〈
太陽が殺され、夜が明けなくなり。
人間というものは、光を浴びないと気が狂うらしかった。志明はそんなことはないが、そうして狂気を発症してしまった人間がいる。対処の方法はひとつ――光を、絶やさないこと。
「あの!」
「何」
蒼が志明を追うようにして、腰を浮かせていた。
「あの、お前は……〈根ノ国〉を、恨んでいないのか」
一体何を言っているのだろう。蒼はここまでの志明の話を聞いていなかったのか。いや、これは聞いていたけれど、まったく志明の感情など理解していないということか。
「はは、愚問」
口の端を吊り上げて、笑みを形作る。さて、この笑みは蒼からはどのように見えているのだろうか。できる限り酷薄で、できる限り嘲笑っているように見えていれば良い。
「恨んでないわけ、ないだろ? 頭の中に花でも咲いてるの?」
太陽は死んだ。
志明の父と母は死んだ。
これで〈根ノ国〉を恨んでいないとなれば、頭の中がお花畑だ。恨んでいない、憎んでいない、赦します。そんなきれいごとを並べるのは簡単だが、心などそんな簡単なものではないのだから。
蒼はまた、俯いていた。そんな顔をされたとて、罪悪感など何もない。
「じゃ、うろちょろしないで、そこにいてよ。勝手に動き回ると、さすがに僕も君の安全は保障できないからさ――ほら、色々と」
庭に面する廊下へと続く襖を開けた。人差し指で示した庭の暗がりで、ぐるると何かの唸り声がする。姿を見せることはないが、そこに『何か』が確実にいるということは、蒼にも判断できるだろう。
蒼の「分かった」という声を聞いて、志明は廊下に出た。ぴしゃりと襖を閉じてから、足袋で廊下を踏みしめて進む。
久方ぶりに、心が波立っている。ざわついている。これは間違いなく、蒼が陽新の屋敷に現れたせいだ。
何が――〈白焔〉を貸して欲しいだ。何が、夜明けのためだ。騙されていたと蒼は言うが、だから「はいそうですか」とはやはり言えるはずがない。事実〈根ノ国〉がしたことで、失われたものが数多ある。そういうものすべてを「騙されていたから」のひとことで呑み込めと言うのなら、それは虫が良すぎるというものだろう。
奥座敷の前で、深呼吸をした。つんと鼻につく独特のにおいは、何度嗅いでも慣れられそうにない。
「佐々礼、僕です」
声をかければ、奥座敷の内で何かが動く気配があった。
「構わん、入れ」
「はい」
音を立てずに、襖を開く。
いくつもいくつも立てられた無数の燭台と、蠟燭の明かり。ひとつひとつは柔らかなものだろうが、これだけあると目が眩む。何だったか、あれは落語だったか。人間の寿命の蝋燭があって、それを見せられる男の話があったように思う。あの男が見た光景はこういうものだったのだろうかと、志明はこの奥座敷に入るといつも思うのだ。
輝く蝋燭に囲まれるようにして、彼は在った。顔にかけられた白い布で、その表情は分からない。ただその下で、何かが動いていることが分かるのみ。
「どうかしたのか?」
「〈根ノ国〉の関係者が、屋敷に来ました。敵意がないようなので、弾かれませんでしたが」
蒼は何事もなく、屋敷の門をくぐってきた。すべての敵意あるものは弾くようになっているその門をくぐったということは、蒼には敵意がないということになる。
ただそれは、門が正しく機能していれば、という注釈はつく。もちろんそんなことになっているとは思わないが、一応は確認をしておくことにした。
「〈
「それはお前、私の作ったものがおかしくなったと疑っているのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
機嫌を損ねただろうかと佐々礼を見たものの、白い布が揺れるばかりで何を考えているのかは分からない。ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れて、白い布に奇妙な陰影を映し出した。
「それで? その関係者とやらは何が目的だ?」
「陽新の〈白焔〉を貸して欲しいそうですよ」
「はは、それは傑作。してどうする、焼くも
「まさか。貸せるものはないと、お断りしましたよ」
志明は何も、嘘はついていない。貸せるものがないのは本当。志明の父が母と共に〈永劫ノ夜〉の日に死んだのも本当。そして、父が〈白焔〉を持っていたのも本当だ。
「お前の髪を見ても疑わなかったと?」
「知らないのではないですか。〈白焔〉を宿す者は髪を伸ばすという、陽新のしきたりは」
「それもそうだな」
志明の髪は、腰まである。それを頭のてっぺんに近いところでひとつに括っているが、それでも邪魔なものは邪魔だ。座れば踏みそうになる、屈めば前に落ちてくる。それでも短くせずにこの長さを保っているのは、すべて陽新のしきたりによるものだ。
蒼は確実に、それを知らない。知らないからこそ、志明のことばを額面通り素直に受け取ったのだろう。
「しかし――夜明け、か」
佐々礼のその声音は、嘲笑っているかのようだった。
「奴ら、はりぼての太陽でも掲げるつもりか?」
「さあ……そこまでは」
太陽は殺された。
つまり夜明けを迎えるとは、新しい太陽を空へ戻すということである。〈岩戸〉は閉ざされているというのに、〈根ノ国〉は一体どんなつもりで「夜明け」などと言っているのか。
「まあ良い、暫し見ておけ」
「はい?」
「何だ、察しの悪い。屋敷に留め置き、見ておけ。何か裏があるならば、そのうち分かるだろうよ。腐敗の女王が何を考えているのかも分からんからな」
「佐々礼がそう言うのなら、そうします」
「そうしろそうしろ」
陽新の屋敷は広く、居候がひとり増えようがふたり増えようが、特に何も変わらない。
志明が「それでは」と佐々礼の前を去ろうとした瞬間に、一斉にすべての蝋燭の炎が揺らいだ。ぞわりと何かが這い上がるような感覚に、志明の足も止まる。
「おい……来たぞ」
「分かっております」
この感覚は、影だ。地の底から、此岸から続く彼岸から、招いてもいない〈骸ノ影〉がやってくる。
「その〈根ノ国〉の関係者とやらが手引きした可能性は?」
「分かりません。ひとまず、見てきます」
「そうだな。では、いつも通りに」
「いつも通り……」
言われていることは、分かっている。佐々礼の言う「いつも通り」が何を示しているのかということも。
「そう、いつも通りだ。お前はただ、突っ立っておけ」
ざわざわと空気がざわめく気配がする。廊下に出て、奥座敷の襖をぴったりと閉めて。
庭の片隅では、唸り声がしていた。暗がりにいる獣もまた、〈骸ノ影〉を警戒している。けれどこの屋敷にまでは、〈骸ノ影〉はやってこれない。
置いてあった草履に足を入れ、縁側からそのまま庭に出る。じゃりじゃりと砂利を踏んで玄関へと向かい、立てかけてあった竹箒を手に取った。こんなものは気休めで、何の役にも立たないけれど。
門を抜ける。ぞわりと立ち上がった黒い影がある。ぎょろりとした真っ赤な瞳が、ひたりと志明を見据えていた。
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