組閣の苦悩
雨宮龍一が内閣総理大臣に指名されてから数日が経過した。前任の晴地智毅総理が政権運営の行き詰まりと党内支持の低迷を理由に総辞職し、その後を引き継いだ雨宮に課せられたのは、揺らぐ政党の立て直しと、国民からの信頼の回復だった。
閣僚人事はほぼ固まりつつある。実務能力に優れた議員を中心に据え、特に国際的な信頼を回復するため、外交・防衛分野には高尾陽子を選定。
しかし、問題は党役員人事だった。副総理や政調会長、総務会長といった党運営の中枢を担う人選が難航している。
党内の派閥力学は根深く、特定の派閥に偏ると他派閥からの反発を招く。
特に国会対策委員長の選定には慎重を要する。国会運営を滞らせれば、いくら政策が魅力的でも政権の求心力は失われる。
さらに、不祥事を避けるため、当選間もない若手議員を起用する方針を取ると、経験不足を指摘されるリスクもある。ベテランの保守性と若手の新鮮さ――この二律背反をどう克服するかが問われていた。
雨宮は資料に目を通しながら、頭の中で組閣後のシナリオを描いていく。国会開会直後には「経済復興基本計画」を柱とした補正予算案を提出する予定だ。消費税率引き上げを凍結する代わりに、特別国債の発行を軸にした財政出動を行う。
しかし、この案は党内でも意見が割れている。財務省は長期的な財政健全化に懸念を示し、与党内の財政規律派も反発している。彼らをどう説得するか、根回しが必要だ。
さらに、若手を多く登用することでクリーンなイメージを訴求する狙いもあるが、マスコミの注目を浴びれば、過去の失言や未熟さを掘り返されるリスクも高まる。組閣直後の支持率上昇は、政権運営の勢いを決定づける。それだけに、一つのミスも許されない。
翌日、雨宮は首相官邸に設置された組閣本部に入った。電話やFAXがひっきりなしに動き、秘書官や政策秘書たちが忙しなく働いている。議員たちのプロフィール、過去の実績、派閥のバランスを考慮しながら、最後の調整が行われる。資料には細かいメモがびっしりと書き込まれ、誰がどのポストに適しているかが綿密に検討されている。
官邸内の空気は張り詰めていたが、雨宮の表情には迷いが見えなかった。彼の頭の中では、マスコミへのリーク対策や党内への根回し、さらに支持率向上に向けた戦略が同時に組み立てられている。最初の国会答弁で優位に立つためには、組閣直後の支持率を一気に上げる必要がある。若手の登用が話題となり、世論を味方につけることができれば、政権発足当初の勢いを維持できる。
雨宮は一つ深呼吸をすると、改めて資料に目を通した。外部からは単なる「人事」としか見えないこの作業が、政権の安定性、ひいては国家の未来を左右する重要な鍵となる。それを理解しているからこそ、彼は一瞬たりとも気を緩めることができなかった。
彼にとって、これは単なる政治的課題ではない。信念を貫き、国民の信頼に応えるための戦いである。そして、雨宮はそれを乗り越える覚悟を胸に秘めていた。
そこで、手元のスマートフォンが震え出した。
(なんだよ、こんな忙しい時に……)
「はい、もしもし?」
『おおー、どうだ? 組閣はうまく行きそうか?』
雨宮と片岡は、千葉県から出馬し、二〇〇七年の衆議院議員選挙で初当選を果たした同期である。当時から片岡は、明るい性格で周囲とすぐに打ち解ける一方、雨宮は冷静沈着で、議論では一歩も引かない性格が際立っていた。
ただ、片岡にはひとつだけ変わらない癖がある。それは、雨宮が多忙を極めている時に限って電話をかけてくることだった。議会対応や地元行事で手いっぱいの中、唐突な雑談や些細な相談が飛び込んでくる。
「またか」と思いつつも、同期の情を断ち切れず応じる雨宮だったが、忙しさを理由にたまに無視することもある。
とはいえ、互いに異なる性格ながらも、政治の荒波を共にくぐり抜けてきた関係は、表面の皮肉を超えた信頼の下に築かれている。
「まあまあだ。もう組閣本部は設置してある」
『おお、早いな。いやー、それにしても、まさかお前が総理大臣になるとはな』
「すまんな、抜け駆けして」
『本当だよ。雨宮にできるなら、俺にもできそうだけどな』
この発言に、雨宮は多少癪に障った。
しかし、片岡の言うことも一理ある。事実、雨宮自身、当選間もない若手が総裁選に出馬し、一種の勢いで当選してしまったという自覚がある。それが「ノリ」と見られるのも無理はない。
しかし、総裁選は一時の熱狂で終わらない。政権運営の現実は、地道な調整と支持の積み重ねによって成り立つ。だからこそ雨宮は、この意見も甘んじて受け入れる覚悟を決めた。それが自分の立場に課された責務であり、信頼を取り戻すための第一歩だと理解しているからだ。
癪に障る感情を抑え、冷静に対応する。それが、若手から一国のリーダーとなった雨宮の成長を問われる瞬間でもあった。
「うるせぇよ。なんか用事はあるのか?」
『いや、ない。ちょっと邪魔してやろうと思って』
「なんだそれ、切るぞ」
『おお、まあせいぜい頑張れよ。史上最短の総理にはならないように』
「分かってるよ」
『おう。じゃあ、今日の閣僚発表楽しみにしてるぞ』
そうして片岡との電話を終えた頃、雨宮は深く息をついた。この日は眠れないな。
翌朝、まだ太陽が顔を出そうかとしている頃。
ようやく人事の準備が整い、まもなく新閣僚たちが首相官邸に呼び出される。続々と集まる閣僚たちに、国民の目は釘付けだろう。
特に今回は、注目を浴びるサプライズ人事を数名織り交ぜている。これらの人選が「革新」として受け入れられるか、それとも「無謀」と批判されるか――雨宮は、ここが初陣の正念場であると自覚していた。
午後、官房長官が記者会見で閣僚名簿を発表した。予想通り、マスコミの関心はサプライズ人事に集中した。特に法務大臣の川畑耕太、外務大臣の高尾陽子、そして経済産業大臣の森川平太といった顔ぶれが話題に上がる。
彼らはいずれも雨宮と同じく二〇〇七年初当選の同期であり、若手ながらも党内で頭角を現している。
しかし、これが「身内贔屓」と揶揄される危険もあった。
ところが、マスコミの初動は予想外に好意的だった。閣僚の平均年齢が歴代内閣で最も低いことから、雨宮内閣は「新鮮さ」を評価され、若手を積極登用した英断が一定の支持を得た。初日の世論調査では、内閣支持率が六十五パーセントに達し、これは政権発足時としては好調な滑り出しだった。
幹事長や片岡からも「よくやった」と賛辞を受け、雨宮は一瞬、自分が本当に政治のセンスを持っているのではないかと錯覚した。
しかし、その期待は同時に重圧となった。初動の成功に浮かれる間もなく、政権運営の現実が目の前に立ちはだかる。党内の不満分子の声、次々に降りかかる国会対応、そして短期間で結果を求める国民の眼差し。
果たして、この先の嵐を乗り越えられるのか――雨宮は内心にそう問いながら、これからの「内閣ライフ」に向けて少しだけ身を引き締めた。
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