晩冬

夜が更けるにつれて、雪はさらに激しさを増していた。僕は厚手のコートに身を包み、駅へと向かっていたが、電車は渋谷までしか動いていないというアナウンスが流れていた。


「こんな日に……」


ため息をつきながらも、ここで引き返すわけにはいかなかった。柊さんが置き手紙を残して去ってから、僕の中にはずっと拭えない不安が渦巻いていた。祖母の話を聞いて、彼女が抱える運命について少し理解したつもりだった。でも、それだけで彼女を一人にしていい理由にはならない。


渋谷駅に着くと、外は一面の白い世界だった。街灯に照らされた雪が風に舞い、道行く人々は足早に家路を急いでいた。だが、そんな人影もまばらで、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。電車の音も止まり、雪の吸音効果で街全体が不思議な静けさに包まれているように感じた。


「まるで別の世界みたいだ……」


僕はコートのポケットに手を突っ込み、雪が降り積もる道を歩き始めた。足元は滑りやすく、冷たい風が容赦なく顔を叩く。それでも、どこか引き寄せられるような感覚に背中を押され、歩を進めた。


目指していたのは代々木公園だった。特に理由があったわけじゃない。ただ、心の中で「きっとあそこにいる」という思いが消えなかった。歩くうちに、どこか懐かしさを覚える感覚が胸に広がった。


雪の降る夜、幼い頃に迷い込んだ雪原のような景色が頭をよぎる。あの時、僕は凍えるような寒さの中、助けを呼び続けても誰も来なかった。それでも、ふと現れた白い影が僕を救ってくれた。温かな気配と共に差し伸べられたその手の感触が、今でもぼんやりと心に残っている。


「……あの時の場所?」


その記憶はぼんやりとしか覚えていないけれど、代々木公園へと向かう足取りは、そのときの感覚と重なるようだった。まるであの場所に、何かが僕を引き寄せているような気がした。街灯に照らされた雪に反射する光が、道しるべのように僕を導いているように思えた。

 

公園の入り口にたどり着いたとき、そこは一層の静寂に包まれていた。雪は地面を厚く覆い尽くし、木々の枝にまで重たそうに積もっている。昼間にはたくさんの人で賑わう場所が、今は息を呑むような白銀の世界に変わっていた。


「ここにいるのか……?」


足を進めるたびに、雪がギシギシと音を立てた。辺りには自分の足音以外、何一つ聞こえない。冷たい空気が肌に染み込み、手先の感覚がどんどんなくなっていく。それでも、僕は奥へと進んだ。途中、昔訪れた代々木公園の記憶が断片的に蘇る。滑り台やブランコで遊んだ場所が今では雪に埋もれ、どこか現実感を失わせていた。


「……懐かしいような、違うような。」


思わず呟きながら進むと、広場が見えてきた。



そして、その中央に彼女の姿を見つけた。


柊さんは、まるで時間が止まったようにじっと立ち尽くしていた。肩には雪が積もり、薄いコートの裾が風に揺れている。足元には彼女がつけたのだろう、小さな足跡が点々と残っていた。それが静かな白銀の世界に強いコントラストを作り出していた。


僕が近づくと、彼女はゆっくりと振り向いた。その顔には、どこか遠くを見つめるような静けさが宿っていた。


「柊さん……」


声をかけたが、彼女は何も言わなかった。ただ、雪が舞う中でその瞳が僕を見つめ返してきた。その目には、悲しみと覚悟のようなものが交じり合っていた。


「どうしてここに……?」


言葉が喉の奥で詰まりそうになる。雪の冷たさが吹き抜ける中、僕は柊さんに何を言えばいいのか、わからなくなっていた。その場で立ち尽くしながら、彼女の沈黙の中に潜む感情の重みを感じ取ろうとした。彼女の瞳の中に映る世界は、僕がまだ知らない孤独と恐れに満ちているように見えた。


『もしかして……ここに、ずっと立ち続けていたのか?』


そう思うと、胸の奥がざわつく。吹き付ける風が冷たさを増し、雪が舞い降りる中、彼女の姿はあまりにも儚く見えた。彼女の肩に積もった雪や薄いコートを見るだけで、どれだけの時間をここで過ごしていたのかを想像せざるを得ない。


心配と不安が混じり合い、喉の奥が締め付けられるようだった。言葉にならない思いを抱えたままだったが、その時はただ、僕は彼女に近づきたかった。


僕が一歩、彼女に近づこうと足を踏み出すと、柊さんは突然声を張り上げた。


「近づかないで!」


その声は、これまで聞いたことのないほど強く、悲しみに満ちていた。彼女の目はどこか遠くを見つめているようで、その奥には深い絶望が渦巻いているように見えた。


「お願いだから、これ以上近づかないで……私……何をしてしまうかわからない。」


僕の足が止まる。彼女の言葉は、まるで冷たい氷が胸に刺さるようだった。それでも、僕はもう一度足を前に出した。


「それでも……」


その瞬間、周囲の空気が一変した。吹き荒れる風が凍りつき、木々や周囲の物が次々と白い氷に覆われていく。寒さが肌を突き刺し、息を吸うたびに肺が痛むようだった。空気は緊張感で満ち、氷の裂ける音が耳を劈くように響いた。


「これが……私の力……」


柊さんの声は震えていた。彼女の周りに渦巻く冷気は、これまで感じたことのないほどの重たさと冷たさを帯びていた。その中に立つ彼女の姿は、あまりにも孤独で、あまりにも美しく、そして悲しかった。


「私は……この力で、誰かを傷つける前に、このまま雪に消えてしまいたい。」

彼女の言葉に、僕の胸が締め付けられる。その決意の重みと悲しみが痛いほど伝わり、心が軋むようだった。


「十七歳を迎えると、この力は暴走する。そして、雪女は代々そうやって孤独に生き、孤独に消えていく……それが私たちの運命なの。」


彼女の涙が頬を伝い、雪に落ちてはすぐに氷になる。その言葉には、運命を受け入れた者の悲しみがあった。冷たい風が彼女の髪を揺らし、その姿は雪景色に溶け込むようだった。


「柊さん、柊結奈!」


僕の声が静寂の中に響いた。その名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。僕はその一瞬を見逃さなかった。何かが心の中で動いたのかもしれない。それでも彼女は振り向かない。ただ、凍えるような風の中でじっと立ち尽くしているだけだった。


「そんな運命、壊してしまえばいい。」


僕の声は震えていたけれど、心の中で確かなものがあった。


「僕は君を孤独にさせない。誰もいないなんて思わせない。」


彼女は首を振りながら、泣き崩れそうになった。


「でもそれだと……君に、周りに迷惑をかけてしまう……」


その言葉が彼女の中でどれだけの重みを持っているのか、僕には痛いほどわかった。それでも、僕の答えは変わらない。


「そんなのいくらでもかければいい。」


僕は彼女に向かって歩き続けた。


「僕が全部受け止める。君がどんなことをしても、そばにいる。もう孤独にはしない。」


柊さんの体が震え、涙が止まらないようだった。僕は彼女の元にたどり着くと、その肩を強く抱きしめた。


「僕は……幼い頃、助けてくれたのは君だって気づいたんだ。」


僕の声は詰まり、涙が止まらなかった。


「大雪の中、僕を救ってくれたのは君だった。だから、今度は僕が君を救う番なんだ。」


彼女は僕の言葉を聞きながら、嗚咽を漏らした。そして、僕の腕の中で泣き続けた。雪が止む気配はなく、世界は白銀の静寂に包まれていたが、その中で彼女の泣き声だけが響いていた。


「……孤独じゃない……」


彼女は呟いた。その声には、これまで見せたことのない安堵と温もりが混じっており、長い間凍りついていた彼女の心を、ゆっくりと溶かしていった。


僕たちはそのまま抱き合い、冷たい雪の中で夜を過ごした。時間がどれほど経ったのかはわからなかった。ただ、僕たちは二人だけの時間に沈んでいった。



朝日が昇り、瞼をあけると、雪は嘘のように止んでいた。代々木公園は白銀の世界に包まれ、朝日の光が雪に反射して、幻想的な景色が広がっていた。


周囲の木々は凍てついたままだったが、その中で朝日が作り出す光のカーテンが世界を照らしていた。柊さんは静かに僕の肩にもたれかかりながら、その景色を見つめていた。


「綺麗……」


その声は、どこか穏やかで、これまでの悲しみを少しずつ溶かしていくようだった。僕は彼女の手をしっかりと握り、ただその景色を見つめていた。


「もう大丈夫だよ、柊さん。」


そう呟いた僕の言葉に、彼女は小さく頷いた。彼女の目には、もう以前のような悲しみはなく、代わりに希望の光が宿っていた。そして、二人の周りには春の訪れを知らせるような、静かで温かな空気が流れていた。


ふいに、彼女がそっと笑顔を浮かべたその瞬間、僕の胸の奥に温かな感情が広がった。それは、どんなに冷たい雪でも溶かすことのできる、確かな希望の灯だった。


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