月光
ある日の朝、教室に入ると冬の冷たい空気が肌を刺すようだった。暖房が壊れたらしく、クラスメイトたちは手をこすり合わせながら寒そうにしている。
「これ、どうにかならないのかよ。」
友人がストーブの前で肩をすぼめながらぼやく。窓の外には薄い雪が積もり、さらに冷え込んでいるのがわかる。
「月島君、おはよう。」
静かな声が耳に届いた。振り返ると、柊さんが教室の隅で静かに座っていた。彼女の周りだけ、どこか冷たさとは別の静けさが漂っているようだった。
「おはよう、柊さん。」
声をかけながら席に着くと、ふと考えが浮かんだ。彼女の力なら、この状況を何とかできるかもしれない。
「ねえ、柊さん。」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと本を閉じて顔を上げた。その動作はどこか慎重で、まるで何かを警戒しているようにも見えた。相変わらずの無表情だったが、その瞳の奥には少しだけ不安が滲んでいるように感じた。
「寒いの、気にならない?」
僕の問いかけに、彼女は一瞬考えるように視線を落とした。そして、低い声で答えた。
「……私は、慣れているから。」
その言葉には淡々とした響きがあったが、どこか感情を押し殺しているようにも感じられた。
「もしこの寒さを和らげられたら、クラスのみんなも喜ぶと思わない?」
彼女は目を伏せたまま、長い間沈黙していた。その沈黙の中に、何かを飲み込むような葛藤が見え隠れしているように感じた。その姿を見て、僕は少し言い方を変える必要があると思った。
「いや、無理にとは言わないけどさ……柊さんの力、結構すごいって思うんだ。前に見たときも、あれ、本当に綺麗だったから。」
僕の言葉に、彼女は一瞬だけ表情を変えたように見えた。そして、小さく息を吐いた。それから、静かに口を開いた。
「でも、私は……あの力が怖いの。誰かに見られるのも、嫌だ。」
「わかるよ。でもさ、人の役に立てるかもしれないって思うと、ちょっと違うかもって考えたりしない?」
彼女はゆっくりと顔を上げた。その目には迷いが浮かんでいたが、同時にどこか期待するような光も宿っているようだった。
「例えば、この寒い教室。誰にも気づかれないように、少しだけ暖かくすることだってできるんじゃない?」
僕の提案に、彼女は一瞬動きを止めた。その後、視線を落とし、何か深く考え込むような仕草を見せた。そして、小さく頷いた。
「……少しだけ、試してみる。」
その言葉を聞いて、僕はほっと胸を撫で下ろした。
彼女が手を軽く伸ばすと、教室の空気がわずかに変わった。窓の外から冷たい風が完全に遮られたような感覚があり、次第に教室の中が暖かくなっていく。
クラスメイトたちは気づかないまま、会話や作業を続けていた。
「なんだか、少し暖かくなった?」「お、これでやっと寒さから解放されるか?」
誰かが呟くと、それに同意する声がいくつか上がった。
その様子を見ながら、僕は柊さんに小さく頷いた。彼女もまた、少しだけ微笑んだように見えた。
これが柊結奈にとって、この力が初めて人の役に立ったと感じた瞬間だった。
・冬の体育
その日の体育は、外のグラウンドでの授業の予定だった。だが、冬の冷たい空気が朝から漂い、地面は霜で覆われている。体育の教師がその状態を確認し、困ったように首をひねっていた。
「このままじゃ危なくて使えないな。」
教室の窓からその様子を見た僕は、ため息をついた。他のクラスメイトたちも窓越しにグラウンドの状態を見てざわついている。
「グラウンド、どうにかならないのかな。」
友人が窓の外を眺めながらぼやく。体育の授業ができないことを心配する声がいくつか上がり、教室内には少し落胆した空気が漂っていた。その中で、僕はふと柊さんの方に目を向けた。彼女は静かに席に座り、教室の隅で本を読んでいる。
あの力なら、もしかして……
僕は思い切って彼女に声をかけることにした。
「柊さん、ちょっといい?」
彼女は顔を上げ、少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「何?」
僕は彼女の隣に腰を下ろし、小声で話を切り出す。
「体育の授業、グラウンドが使えないみたいなんだけどさ……もし君の力でどうにかできたら、すごいと思わない?」
彼女は視線を窓に向けた後、短く息を吐いた。
「……人に気づかれたらどうするの?」
「誰も見てないタイミングでやれば大丈夫だよ。それに、助けられるならクラスのみんなも喜ぶと思う。」
僕の言葉に彼女は少し考え込んだ。そして、窓の外をじっと見つめた後、静かに頷いた。
「分かった。でも、絶対に見られないように手伝ってよね。」
授業が始まる前の休憩時間、僕たちはこっそりグラウンドに向かった。教師がまだ職員室にいる間に、彼女はゆっくりと手を上げた。
冷たい空気が一気に引き締まり、彼女の周りに薄い霧が立ち込める。次の瞬間、霜で覆われていた地面が少しずつ溶け、乾燥した土が現れ始めた。その光景はまるで魔法のようで、僕は息を飲んだ。
「すごい……」
彼女は無言で作業を続け、最後に手を下ろしたときには、グラウンドはすっかり整っていた。
「これでいいはず。」
彼女が振り返り、控えめにそう言った。僕は大きく頷いた。
「完璧だよ、ありがとう。」
その後、教師がグラウンドを確認し、安全だと判断して授業は予定通り行われた。クラスメイトたちは何も知らずに楽しそうに走り回り、寒さを吹き飛ばしていた。
その様子を見ながら、僕は結奈さんに小声で言った。
「みんなが喜んでいるの、君のおかげだね。」
彼女は少し照れくさそうに笑い、ぽつりと言った。
「……そうかもしれない。」
その瞬間、彼女の表情が少しだけ柔らかくなった気がした。それは、力を使うことへの彼女の考えがほんの少し変わり始めた兆しだったのかもしれない。
・冬イベント
東京の冬の空気は澄んでいて、少し冷たい。そんな中、僕と柊さんは東京タワーに向かっていた。夜のイベントに行くのは初めてだったけれど、冬限定のライトアップが見られると聞いて、なんとなく足を運んでみることにした。
「東京タワー、来たことある?」
僕が歩きながらそう聞くと、柊さんは小さく首を振った。
「ない。こういう賑やかな場所は……あまり好きじゃない。」
彼女の返事は予想通りだった。人混みが苦手な彼女には、こう
したイベントは居心地が悪いのかもしれない。それでも、どこか興味を引かれるものがあるのか、彼女はタワーをじっと見上げていた。
「まあ、人は多いけど、イルミネーションはきっと綺麗だよ。」
彼女は返事をしなかったが、その瞳には少しだけ期待が混じっているように見えた。
会場に到着すると、すでにたくさんの人が集まっていた。東京タワーのライトアップが夜空を彩り、その周囲には屋台やフォトスポットが並んでいる。
「すごい……」
柊さんが小さく呟いた。その声には、ほんの少しだけ感嘆の色が含まれていた。
僕たちは人混みを避けながら、ゆっくりとイベント会場を歩いた。そこには家族連れやカップルが楽しそうにしていて、どこか暖かい空気が漂っていた。
しかし、その平和な雰囲気は突然のトラブルで一変した。
「イルミネーションが消えた!?」
スタッフの声が会場中に響く。メインのライトアップが突然暗くなり、会場はざわつき始めた。子供たちが「どうして?」と不安そうに声を上げ、大人たちも困惑している。
「どうしたんだろう……」
僕も状況を見守りながら、柊さんの方に目を向けた。彼女は困ったように立ち尽くしていたが、その目には何か考えているような色があった。
「ねえ、柊さん。」
僕が声をかけると、彼女は静かにこちらを見た。
「君の力で……何とかならないかな?」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「そんな……ここで使ったら、みんなに見られる。」
「でも、こんなことをどうにかできるのは、君だけじゃない?」
その言葉に、彼女はしばらく黙って考え込んだ。そして、深い息をついて静かに頷いた。
「……少しだけなら。」
これまでのように柊さんがそっと手を上げると、周囲の空気が冷たく澄み渡り、瞬間的に変化した。
周囲の光を受けて、雪のように輝く小さな粒が舞い上がる。それらは柊さんの力によって空中で広がり、反射し合いながら柔らかな光を生み出していく。
「すごい……」
誰かがそう呟く声が聞こえた。やがて、会場全体が静かになり、その光景に目を奪われていく。
柊さんの力が生み出した光のカーテンは、東京タワーのライトアップと溶け合い、まるで天から雪が舞い降りるような幻想的な空間を作り出していた。
周囲から感嘆の声が上がり、誰かが「あなたがやったんですか?」と柊さんに尋ねてきた。
彼女は一瞬驚いたように目を見開き、どう答えていいか分からない様子で視線を泳がせた。困ったように小さく息を飲み、答えようとしたその瞬間、僕がすかさず間に入った。
「ライトが反射して、たまたまこう見えるんじゃないかな。」
僕は軽く笑いながら言い、場を収めるように付け加えた。「こういう偶然も、イベントの面白さってやつですよね。」
柊さんが人目につかないようにフォローしながら、僕たちは会場を後にした。
帰り道、彼女は静かに呟いた。
「……みんな、喜んでいた。」
「うん、君のおかげだよ。」
彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。その笑顔は、とても自然で暖かいものだった。
* * *
東京タワーの冬イベントが終わり、結奈は駅で月島君と別れた後、一人で家に向かう道を歩いていた。夜空には星が静かに瞬き、冬の冷たい空気が頬をかすめる。だが彼女の心の中は、先ほどの出来事の余韻でざわついていた。
『みんな、喜んでいた。』
帰り道で呟いた自分の言葉が脳裏に浮かぶ。あの時、月島君が「君のおかげだよ」と言った瞬間、胸の奥で何かが動いた気がした。それは温かく、けれど少しだけくすぐったいような感覚だった。
これまで、自分の力を肯定的に捉えたことは一度もなかった。幼い頃から、力を使うたびに誰かが離れていく。その繰り返しが、彼女の心に深い傷を残していた。
『この力があるせいで、私は……』
そう思い続けてきた。だから、誰にも気づかれないように、力を隠して生きてきたのだ。
だが、今日の出来事は違っていた。あの光のカーテンを見た人々の顔が、彼女の目に焼き付いている。子供たちが笑顔で喜び、大人たちが感動した表情を浮かべていた。
「私の力が……誰かを喜ばせることができるなんて。」
思わず、彼女はそっと手のひらを見つめた。その手には冷たい感触が残っている。けれど、そこにあるのはただの冷たさではない。光と雪のような粒が舞うあの瞬間、自分が少しだけ特別な存在だと思えた。
「月島君……」
ふと足を止めて夜空を見上げた。冷たい空気が彼女の呼吸に白い息を添え、東京タワーでの光景が脳裏に浮かぶ。あの瞬間、月島君が隣で何を考えていたのかが気になった。
「あのとき、君はどう思っていたんだろう。」
彼女は写真を手に取りながら、月島君の言葉を思い出す。
『すごかったよ。君の力、本当に綺麗だった。』
その言葉には、疑いや恐れが一切なかった。それがどれほど安心できるものだったか、彼女自身が驚いている。
「もしかしたら……少しだけ、この力を好きになってもいいのかもしれない。」
そう呟くと、彼女は小さく笑みを浮かべた。その笑顔は、これまでの彼女のどの表情とも違い、柔らかく、ほんのりと温かさを帯びていた。
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