初雪
翌日の放課後、僕は学校の図書室にいた。
特に目的があったわけじゃない。ただ、家に帰る気にならなかった僕は、本棚の間をなんとなく歩いていた。
すると、窓際の席に彼女が座っているのが目に入った。
柊結奈だ。机の上にはノートと分厚い本が広げられていて、彼女は静かにペンを走らせている。
「……熱心だな。」
小さく呟いてみたものの、声が届くはずもない。それでも、なんとなく気になって、
僕は彼女の近くの棚で本を手に取るふりをしながら様子を伺った。
彼女は少し眉をひそめて、何かを考え込んでいるようだった。その姿が妙に真剣で、
声をかけるべきか迷った。
「なにか用ですか?」
突然声をかけられて、僕は一瞬驚いた。気づかれていたらしい。
彼女が静かにこちらを見上げている。
「あ、いや……その、何か難しそうなことしてるなと思って。」
慌ててそう言うと、彼女は少しだけ首を傾げた。
「別に。ただの勉強です。」
そっけない返事だったが、僕はその冷たいようでどこか柔らかさのある声に不思議と引き込まれていた。
「そうなんだ。なんか、すごい集中してたからさ。」
少し間が空いた後、彼女は「はぁ」と困惑混じりに小さく呟いて、またノートに目を落とした。
会話はそれで終わりかと思ったが、彼女がふと手を止めて僕を見た。
「あなたは、どうしてここに?」
「え? ああ、なんとなく。本でも読もうかなって。」
彼女は少しだけ目を細めた。それが笑っているようにも見えたけれど、確信は持てなかった。
「……そうですか。」
また彼女はノートに向き直り、僕はなんとなくその場に立ち尽くしてしまった。
その静かな空気の中で、僕は彼女が纏う不思議な雰囲気にますます惹かれている自分に気づいた。
翌週の昼休み、教室を出た僕は校庭の隅にあるベンチに彼女が座っているのを見かけた。
冬の冷たい空気の中で、彼女はじっと遠くを見つめていた。
その姿を目にしても、特に声をかける理由はなかった。けれど、どこか気になって、
僕はその方向へと歩き出していた。
「また一人なのか?」
なんて言葉が口をついて出たのは、自分でも意外だった。
彼女は一瞬僕を見たが、特に驚いた様子もなく、静かに「ええ」と答えた。
それだけの返事に、僕は少し戸惑った。
「ここで何してたんだ?」
どうしても間を持たせようと、僕はもう一つ問いかけた。
「ただ、考え事をしていただけです。」
彼女の声はいつも通り静かで、表情にはほとんど変化がなかった。
でも、その視線の先に何があるのか、ほんの少し気になった。
「寒くないのか? こんな日に外でじっとしてるなんて。」
冗談交じりの言葉に、彼女は微かに目を細めた。その仕草はどこか遠くを見るようなものだった。
「寒さには慣れているんです。」
それだけ言うと、再び彼女は前を向いた。
「慣れてるって、どんな環境だよ。俺なんてちょっと外にいるだけで指先が凍えそうだ。」
軽く笑いながら言ったつもりだったが、彼女の反応が薄いと少し恥ずかしくなる。
その沈黙の後、彼女は一瞬考え込むように視線を落とした。
「……北の方に住んでいたことがあるんです。」
短い言葉だったが、どこか過去を隠しているような響きがあった。
「へえ。じゃあ、新潟とかその辺か?」
僕が軽く尋ねると、彼女は首を横に振った。
「それよりもっと北の……ずっと寒い場所です。」
彼女が具体的な地名を避けるように答えたことに、僕はそれ以上踏み込むのをためらった。
その後、しばらく二人で空を眺める時間が続いた。
冷たい空気の中で、僕の吐く息は白く、彼女はまるでその寒さを感じていないように見えた。
冬の空には、ちらちらと小さな雪が降り始めていて、それを見た瞬間、頭の中にぼんやりと
新潟での冬の記憶が浮かんだ。
新潟にいた頃、雪はもっと湿っていて、ずっしりと重たかった。
降り続ける雪を眺めながら、幼い僕はおばあちゃんから雪女の話を聞かされたものだ。
『雪がたくさん降るときは、雪女が怒っているのかもしれないね。』
おばあちゃんが冗談めかして言った言葉を、僕は笑いながら聞いていた。
でも、あの静けさの中で窓越しに雪を眺めているときだけは、不思議と心がざわついたものだ。
そして最近、ニュースで今年は例年より寒く、雪が降りやすいと言っていたことを思い出した。
その言葉がやけに印象に残っている。
ふと現実に引き戻されるように、僕は結奈さんに目を向けた。
降り積もり始めた雪が、彼女の髪や肩にうっすらと溜まっているのが目に入る。
それでも彼女はそれに気づいていないかのようだった。
「柊さんって、変わってるよな。」
思わずそう言ってしまった。悪意はなかったが、失礼だったかもしれない。
「……そうですか?」
彼女は少しだけ微笑んだように見えた。その微笑みは、
雪が静かに降り積もるような穏やかさを持っていた。
その日の放課後、校門を出たタイミングで、偶然彼女と出会った。
「月島君。」
不意に名前を呼ばれて、僕は驚いて振り返った。
いつも静かな彼女が、自分から声をかけてきたのは初めてだった。
「帰るの?」
「まあ、そうだけど……どうしたの?」
彼女は少しだけ目を伏せて、何かを考えるように沈黙した。
それから意を決したように口を開く。
「その……途中まで一緒に歩いてもいいですか?」
予想外の言葉に戸惑いながらも、僕は「いいよ」と答えた。
並んで歩くのはぎこちなかったが、僕の勝手な思い込みだと思いつつも、
彼女が少しずつ距離を詰めようとしているような気がした。
「月島君は、新潟から来たんですよね。」
彼女の言葉に、僕は少し驚いて振り返った。
こんなふうに話題を振られるのは初めてだったからだ。
「そうだけど、どうして知ってるの?」
「クラスメイトが話しているのを聞きました。それに……雪の多い土地って、どんなところなのか興味があって。」
「興味?」
彼女は微かに頷いた。その仕草には、どこか懐かしむような感情が混じっているように見えた。
少しの間、二人の間に沈黙が流れ、ちらちらと降り始めた雪は、
まるで話の続きを待っているかのように舞っていた。
「東京でもこんなに雪が降ることがあるんだな。」
ふと僕が呟くと、彼女は空を見上げながら小さく頷いた。
「今年は例年より寒い冬になるって聞きました。」
その言葉を受けて、最近ニュースで聞いた気象情報をまた思い出した。
『今年は寒波の影響で、東京でも積雪が増える見込みです』というアナウンサーの声が耳に蘇る。
そんな記憶を巡らせていると、いつの間にか雪は次第に強くなり始めていた。
冷たい風が頬をかすめ、僕は肩をすくめて首元を手で覆った。
「いやー、今日はやけに寒いな。」
そう言いながら息を吐くと、白い蒸気が空に消えていく。彼女はそれをじっと見ていた。
「月島君、手を見せて。」
突然そう言われ、僕は驚きながらも手を差し出した。
「どうしたの?」
彼女は答えずに、そっと僕の手を両手で包み込んだ。
その手は冷たいはずなのに、不思議と心地よい温もりが広がっていった。
「なんだか……暖かくなった気がする。」
そう言いながら手を見つめると、彼女は微かに微笑んだ。
「気のせいじゃないですか?」
その一言を残して、彼女は歩き出した。
僕はその後ろ姿を見つめながら、胸の中に小さな違和感を覚えた。
それが何なのかは、まだはっきりとは分からなかった。
* * *
月島君という人は、不思議な人だった。
普通なら、あの図書室での短いやり取りで私に対する興味を失うだろう。他の人たちのように。
けれど、彼は違った。
図書室で彼と目が合ったとき、彼が少し驚いたような顔をしたのが印象に残っている。
その表情は、どこか警戒心がなくて、むしろ好奇心のようなものを感じた。
まるで、私を見て何か新しいものを見つけたかのような。
でも、どうしてだろう。
私は自分が普通の人間ではないことを知っている。それを隠しながら生きてきた。
だから、誰かと深く関わることは避けてきた。
けれど、月島君のあの目は、私の中に眠っているものを見透かしているような気がして、
少しだけ心が揺れた。
あのとき、私に声をかけた理由が知りたい。
ただの偶然なのか、それとも……。
考えすぎかもしれないけれど、月島君の存在が、
私の心に小さな波紋を広げ始めているのを感じていた。
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