第3章:デジタルの迷宮

 意識が戻ったとき、蓮華は病院のベッドで横たわっていた。


「気がついた?」


 仮屋が心配そうな顔で覗き込んでいる。


「あの……鏡戸さんは?」


「鏡戸? 誰のこと?」


 仮屋は首を傾げた。


「カフェで会っていた人よ。白髪まじりの……」


「蓮華、カフェで倒れているところを通行人が見つけたんだ。


 蓮華は混乱した。確かに鏡戸慧と話をしていたはずなのに……。


 蓮華はスマートフォンを確認するが、見知らぬ番号からの着信記録はない。まるで、鏡戸との出会い自体が幻だったかのように。


「家に帰りたい」


 蓮華は強く主張した。医師による診断では特に異常は見られず、一時的な過労による症状という判断で、その日のうちに退院が許可された。



 自宅のパソコンに向かい、蓮華は鏡戸慧の名前を検索した。しかし、15年前の研究に関する記事さえヒットしない。


「おかしいわ……」


 その時、画面が突然ちらつき、見慣れないウィンドウが開いた。


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SYSTEM MESSAGE:

WARNING: Anomaly detected in consciousness pattern ID:RK-2045

Initiating containment protocol...

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「これは……」


 次の瞬間、蓮華の意識は再びデジタル空間に引き込まれていった。今度は、白い空間ではなく、無数のデータが流れる渦の中だった。


「ここは……」


 彼女の声が、デジタルノイズのように歪んで響く。周囲には、数式や記号、プログラムコードが織りなす幾何学的なパターンが広がっている。


『霧島蓮華』


 何処からともなく、機械的な声が響いた。


『あなたは許容範囲を超えた認識に達しました』


「あなたは……このシミュレーションの管理者?」


『私たちは、システムの安定性を維持する存在です』


 その声は、無機質でありながら、どこか人間的な温かみを感じさせた。


『あなたの発見は、システムの安定性を脅かす可能性があります』


「でも、これが真実なら、人々には知る権利が――」


『真実とは何でしょうか?』


 そのとき蓮華が最初に感じたのは、重力の消失だった。蓮華の意識は、物理法則から解き放たれたように宙に浮かぶ。周囲の白い空間が、まるでガラスが砕け散るように細かな破片となって剥がれ落ちていく。


 その瞬間、眩いばかりの光が迸る。無数の光の粒子が、シャボン玉のように膨らんでは消えていく。それぞれの粒子の中には、異なる世界線が映し出されている。蓮華は息を呑んだ。目の前で量子力学の教科書で見てきた理論が、視覚的な体験として展開されているのだ。


「これは……シュレーディンガーの波動関数?」


 彼女の周りを、青く輝く波形が螺旋を描いて踊っている。その波の一つ一つが、異なる確率で存在する現実を表している。波が干渉し合うたびに、新たな可能性が生まれては消えていく。


 突然、空間が万華鏡のように回転を始めた。蓮華の視界に、幾何学的なパターンが浮かび上がる。それは彼女の記憶の断片だった。五歳の誕生日に見た星空。十二歳で初めて量子力学の本を手に取った瞬間。博士論文を書き上げた深夜の研究室。それらの記憶は、まるでDNAの二重螺旋のように絡み合いながら、立体的な模様を形作っていく。


 視界の中央に、黄金比に基づいたフィボナッチ数列が浮かび上がる。その数式は、まるで生命そのものの設計図のように、有機的な動きを見せる。数字の一つ一つが光を放ち、その光は細胞分裂のように増殖していく。


「これが……生命の数学的構造?」


 蓮華の問いかけに呼応するように、空間がさらに変容する。フィボナッチ数列は、より複雑な方程式へと姿を変えていく。量子もつれを示すベル状態の方程式、アインシュタイン場の方程式、そして彼女が見たことのない新しい数式群。それらは互いに響き合うように脈動し、まるで宇宙の心臓の鼓動のように規則的なリズムを刻んでいた。


 蓮華は、自分の意識がその律動と共振しているのを感じた。彼女の思考もまた、この壮大な数学的交響曲の一部となっている。そこには、人間の意識と宇宙の根源的な法則が、不可分に結びついているという真実が示されていた。


 光の渦は次第に収束していき、それらは一点に向かって凝縮されていく。最後に残ったのは、一見してシンプルでありながら、途方もない深みを感じさせる一つの方程式。それは、意識と実在の関係を表す未知の数式だった。


 蓮華は震える声で呟いた。


「これが、私たちの意識が織りなす……現実の本質?」


 その問いかけが空間に響き渡ったとき、万華鏡のような光景は静かに消失していった。しかし、彼女の網膜に焼き付いた光の残像は、この体験が決して幻覚でなかったことを物語っていた。


『あなたが見ている「現実」は、無限の可能性の中の一つの表現に過ぎません』


「じゃあ、私という存在も……」


『あなたは、情報のパターンとして存在しています。しかし、それは物理的な実体を持たない幻想だということを意味するのでしょうか?』


 その問いかけに、蓮華は言葉を失った。確かに、自分が見出した「真実」は、より深い謎を呼び起こすだけかもしれない。


『選択してください』


 声が続ける。


『このまま真実を追求し、システムの安定性を危険に晒すのか。それとも……』


「それとも?」


『この発見を忘れ、通常の生活に戻るのか』


 蓮華は考え込んだ。科学者として、真実を追求することが自分の使命だと信じてきた。しかし、その真実が世界の秩序を揺るがすものだとしたら? しかしなぜこの存在は私にこのような「選択」を与えるのだろうか?

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