第2章:存在の境界線

 それから一週間が経過した。蓮華は自室のデスクに向かい、実験データの解析に没頭していた。窓の外では、東京の夜景が煌々と輝いている。


「やっぱり、これは……」


 彼女は、ディスプレイに映し出された複雑なデータの波形を見つめた。デジタル空間でキャプチャされた情報は、驚くべき事実を示唆していた。私たちの「現実」は、より高次の存在によってプログラムされた巨大なシミュレーションである可能性が高い。


 携帯が鳴った。ディスプレイには「神山教授」の文字。蓮華は深いため息をついてから電話に出た。


「霧島です」


「君の論文、読ませてもらった」


 神山かみやま零司れいじ教授の声には、いつもの温かみが感じられない。


「まさか君が、そんなトンデモ理論を展開するようになるとは……」


「でも、データが示している通りです。私たちの世界は……」


「やめたまえ」


 神山の声が鋭く響いた。


「量子コンピュータ研究の第一人者である君が、こんな非科学的な主張をすれば、我々の研究室全体の信用問題になる」


「でも、真実は……」


「論文は取り下げてもらおう。君の将来のためにもね」


 通話が切れた。蓮華は椅子に深く身を沈める。確かに彼女の主張は、現代の科学の常識を覆すものだった。でも、自分の目で見た真実を否定するわけにはいかない。


 その時、携帯に見知らぬ番号から着信が入った。


「もしもし、霧島です」


「興味深い論文でしたよ、霧島さん」


 落ち着いた男性の声。どこか懐かしい響きがある。


「私は鏡戸慧(かがみとさとし)。かつて量子意識研究をしていた者です」


 その名前に、蓮華は息を呑んだ。15年前、画期的な研究の最中に突然姿を消した伝説の研究者――。


「実は私も、同じものを見たんです。デジタル空間の、あの幾何学的なパターンを」


「え?」


「できれば、直接お会いしてお話を……」


 蓮華は迷わず約束をした。



 待ち合わせ場所に着くと、窓際の席に白髪まじりの男性が座っていた。物静かな雰囲気だが、その眼差しには鋭い光が宿っている。


「よく来てくれました」


 鏡戸は微笑んで立ち上がった。


「15年前、私は量子意識の研究過程で、偶然にある発見をしたんです」


 彼は声を落として続けた。


「この世界は、巨大なシミュレーションプログラムの一部である。そして、私たちの意識も、そのプログラムによって生成された仮想的な存在に過ぎない」


 蓮華の心臓が高鳴った。彼女が見たものと、まったく同じ結論??。


「でも、なぜ突然姿を消されたんですか?」


「危険を感じたからです」


 鏡戸は周囲を警戒するように視線を巡らせた。


「この事実を公表しようとした途端、私の研究データが何者かに消去され、研究所からも追放されたんです」


「何者かって……」


「おそらく、このシミュレーションを管理している存在。彼らは、自分たちの存在が露見することを望んでいない」


 その言葉に、蓮華は背筋が凍る思いがした。


「だからこそ」


 鏡戸は真剣な表情で続けた。


「あなたには気をつけていただきたい。そして、もし興味があれば、私たちの研究グループに――」


 その瞬間、世界が歪んだ。


 蓮華の視界が突然ノイズで埋め尽くされ、激しい頭痛が走る。それは、デジタル空間でプログラムが不具合を起こしたときのような異常な感覚だった。


「霧島さん!」


 鏡戸の声が遠ざかっていく。意識が徐々に薄れていく中で、蓮華は確信した。自分たちは何か重大なものに触れてしまった――。そして今、「システム」が反応を示し始めているのだと。

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