【SF短編小説】実在という幻想 ―Quantum Cage― (9,989字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:量子の扉

 霧島きりしま蓮華れんげの指先が、青白く光るホログラムのキーボードの上を舞った。研究室に響く打鍵音は、まるで雨粒が窓を叩くような心地よいリズムを刻んでいた。2045年10月31日午後11時58分。彼女は、この瞬間が人類の歴史を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。


「レンちゃん、本当にやるの?」


 後ろから聞こえた声に、蓮華は振り返った。相棒の仮屋洸希かりやこうきが、不安げな表情を浮かべている。


「もちろん」


 蓮華は微笑んで答えた。28歳にして量子コンピュータ研究の第一人者となった彼女の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。


「でも、人間の意識をデジタル空間にアップロードするなんて……」


「私たちはすでに、マウスの意識の部分的なアップロードに成功しているわ。理論上は、人間でも可能なはず」


 仮屋は溜め息をつきながら、分厚い眼鏡を押し上げた。


「理論と実践は違うよ。もし失敗したら……」


「その場合は、プロトコルどおりにシステムをシャットダウンして」


 蓮華は言葉を切り、モニターに映る自分の脳のスキャンデータを見つめた。複雑な神経回路の模様が、まるで宇宙の星図のように美しい。


 時計が午前0時を指す。実験開始の時間だ。蓮華は準備された特殊なヘッドセットを装着した。


「じゃあ、行ってくるわ」


 彼女の意識が徐々にデジタル空間へと溶けていく。それは、まるで深い眠りに落ちていくような心地よい感覚だった。



 目覚めた場所は、無限に広がる白い空間。蓮華は自分の「身体」を確認した。物理的な実体はないはずなのに、確かな存在感がある。


「意識のアップロード……成功したみたいね」


 彼女の声が、不思議な残響を伴って空間に響いた。突然、その白い空間に幾何学的な模様が浮かび上がり始める。まるで、巨大なプログラムのソースコードのように。


「これは……」


 蓮華は息を呑んだ。目の前に展開される光景は、明らかに人工的なパターンを持っていた。それは、現実世界における物理法則そのものがプログラムされたものであることを示唆していた。


「まさか、私たちの世界は……」


 その瞬間、激しい眩暈(めまい)が襲ってきた。意識が急速に現実世界へと引き戻される。


「蓮華! 大丈夫か!?」


 目を開けると、仮屋が心配そうに覗き込んでいた。


「ええ……でも、信じられないものを見てしまったわ」


 蓮華は震える声で言った。彼女は確信していた。自分が目にしたものは、この世界の根源的な真実の一端だということを。

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