【FILE006】マーボードーフ×オーバードーズ×オーパーツ
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皆さん、こんにちは。
土野子夏っていいます。改めましてよろしくお願いします。
私は遊府桜町の私立忌野高校に通う女子高生で、オカルト研究部に所属しています。
トラブルメーカーの部長と、切込隊長の祢津さん。そして副部長の私……。
毎日のように出所不明の噂話や事件を仕入れてくる部長のおかげで、相変わらず退屈しない高校生活を送っています。
例えば、未来からやってきたタイムトラベラーを探すだとか、異世界へ行く方法を片っ端から試してみるだとか──。
そのほとんどがハズレなんですが……ごくたまにアタリがあるんです。
今回はその「アタリ」の話をしようと思います……。
皆さんの住んでいる場所には「都市伝説」って存在しますか?
あ、いえいえ、怪異とか怪談みたいな大層なものじゃなくても構いません。
「真相はわからないけど、知り合いから聴いた変な噂」くらいの話なら、充分都市伝説として数えられますので。
もうひとつ質問なんですが、皆さんは入ったことのない個人経営の飲食店に、躊躇なく入れますか?
私はそういうの、あんまり得意じゃなくて……独特の勇気が要るというか、アウェー感があるというか……常連のお客さんがいたりしたら尚更辛いんですよね。店主とその常連さんのやりとりを、自分が注文することで邪魔してるんじゃないかって考えちゃったり……。私の自意識過剰なのかもしれませんが……。
でも、そこが中華料理屋だった場合、店主と常連客が醸し出す身内感よりも、もっと「辛い」ことがあって――。
~~~
グラウンドの方から野球部のかけ声が微かに聴こえる、放課後のオカルト研究部室。
私と祢津さんは机に突っ伏しながら、今日も今日とて部長を待っていた。
「最近、めっきり暑くなってきましたねえ……」
「ほんと……いい加減ここで遥人を待つのもキツくなってきた……」
祢津さんの言う通り、灼熱地獄と化した部室で、毎日のように待たされるこっちの身にもなってほしかった。
と言うのも、オカ研の部室にはクーラーはおろか、扇風機すらないのだ。窓を開けたとしても、時折思い出したように生ぬるい風が流れ込んでくるだけで、焼け石に水だ。
ここで夏を乗り切ることができるのは、煩悩を全て消し去った修行僧くらいのものだろうな。そんなことを考えてふと顔を上げると、祢津さんの白い首筋に伝う汗が、やけにはっきり見えた。
「今食べたいもの、順番に言っていきましょうか……」
「……なんでもいいから、アイス」
「いいですね……私は冷やし中華です……」
「冷やし中華もいいね……」
気を紛らわせるために、中身のない会話を始めたときだった。
「君たち! 何をダラけているのだ!」
ようやく部室の扉が開かれ、聴き慣れたうっとうしい声が響いた。
祢津さんが「もっと暑苦しいのが来た」と呟き、机に預けっぱなしだった上体を起こす。その言葉とは裏腹に、彼女の表情は嬉しそうだ。それにつられるように、私も扉の方を見やった。
「こんにちは~」
そこには部長ともう一人、祢津さんの友人で女子バスケ部員の、都井さんが立っていた。
彼女と顔を合わせるのは、先日のカタギリさん騒動以来だ。
「あれ、詠子じゃん。部活は?」
驚きながら尋ねる祢津さんに対して「「今日は休みだよ~」と、のほほんとした調子で答えた。都井さんは何故ここに来たのだろうか。彼女の様子を見るに、またカタギリさんのような怪異が出現したわけでもなさそうだ。
私は探りを入れてみることにした。
「お久しぶりです都井さん。部長と都井さんの組み合わせなんて、珍しいですね」
「土野さん久しぶり~。さっき部室に向かってる岡田さんとバッタリ行き会ってね、色々話しながら来たんだよね~」
ふと部長を見ると、今すぐ遊びに行きたい衝動を必死で抑える子供のように、そのちんまい身体をうずうずさせながら、私たちの会話が終わるのを待っている。私と祢津さんは顔を見合わせ、同時に悟った。
さては都井さんが、部長に余計なことを教えたな。
その予感を的中させるかのように、あっけなく我慢の限界を迎えた部長が叫んだ。
「何をグズグズしている! 土野くん、祢津くん、そして都井くん! 急いで明尊亭へ向かうぞ!」
明尊亭。その名前は私も聞いたことがあった。町はずれにある、個人経営の小さな中華料理屋だ。実際に店を訪れたことはなかったが、味は絶品らしい。
しかし、心霊スポットやUMAの探索でもなく、何故飲食店に行くのだろうか。
四人で部室をあとにし、昇降口に着いたとき、私は部長に問いかけた。
「明尊亭って中華料理屋さんですよね? もしかして、部長か都井さんが奢ってくれるんですか……?」
淡い期待を抱く私に、部長は上履きをローファーに履き替えながら「都井くん、この二人にも説明してやってくれたまえ」と言った。
そして都井さんが話し始めた内容に、その期待は派手に打ち砕かれた。
「ウチのおじいちゃんから聴いた都市伝説的な話なんだけどね。明尊亭で特殊な注文の仕方をすると、とんでもない量の麻婆豆腐が出てきて、それを完食すると賞金として三十万円がもらえるんだって~、って岡田さんに話したら、その真相を突き止める! って張り切り始めちゃって……痛っ!」
祢津さんがうんざりした表情で、都井さんの頭を小突いた。正直、私もそうしたい気持ちだった。さきほど祢津さんとの会話の中で自分が発した「冷やし中華が食べたい」という言葉が、頭の中であてつけのようにグルグルと回り始めていた。
未だ厳しい暑さが続く中、私たちはこれから、恐ろしい量の麻婆豆腐を食べに行く。
それは今まで直面してきたどの心霊体験よりも、私の身体を震え上がらせた。クーラーも扇風機もない部室に戻った方が、まだマシとさえ思えた。
絶望に打ちひしがれている私の肩にぽんと手を置いて、祢津さんが部長にも聴こえるように言った。
「死んだら遥人の夢枕に立ってやろうね」
「部長と呼びたまえ祢津くん。君たちが化けて出てきたら、苦しまずに除霊してやろう」
この先は、地獄だ。
【FILE006 マーボードーフ×オーバードーズ×オーパーツ】
忌野高校からバスに揺られて数十分、そこから更に歩いた場所に、その小さな中華料理屋はあった。
「明」「尊」「亭」とそれぞれ書かれた三巾の赤い暖簾が、ぬるい風に揺れていた。
「ここが決戦の場か、腕が鳴るな。いや、この場合は腹が鳴ると言った方が正しいか?」
「……」
「……」
「……」
目的地が近づくにつれて口数が減り、今や言葉を失っている私たちを、ニコニコしながら眺めている都井さんが恨めしい。
三人の無言を勝手に肯定とみなした部長が、もはや地獄の門にしか見えない引き戸を、ガラッと勢い良く開けた。
「……いらっしゃい」
カウンター内で丼を洗っていた八十代ほどの店主が、ぶっきらぼうに言った。
小ぢんまりとしたコの字カウンター。壁は油が染み付いて薄く黄ばんでおり、いかにも老舗を思わせる様相だ。カウンターに沿って十個ほど並べられた丸椅子のひとつに腰掛けていた、店主よりも少し若いくらいの老人が一瞬こちらを物珍しそうな目で一瞥し、再び手元のタンメンをすすり始めた。
私たち四人は並んで丸椅子に座る。その一番端に腰を下ろした部長が、一息に言った。
「店主、注文だ! 麻婆豆腐大盛り、肉少なめ豆腐多めでな!」
部長がそう注文した瞬間、こちらを見た店主の目が、鋭く光った気がした。そしてその刹那、何かが床に落ちる音がした。
見ると、先ほどまでタンメンを食べていた老人が割り箸を取り落とし、私たちの方を愕然とした表情で凝視していた。
「嬢ちゃんたち、正気か……?」
「無論だ、どうかしたのか、ジジイ」
平然と答えた部長に、彼は慌てたように言った。
「悪いことは言わねえから、やめておけ。俺ぁハタチの時分からここに通い始めてもう五十年になる常連だが、アレを食いきった奴ぁ今まで見たことがねぇ。ましてや学生の、女四人で挑戦するなんざ無謀もいいところだ、考え直せ!」
「そ、そうですよ部長、麻婆豆腐はやめて、冷やし中華を注文しましょう!」
「何を言っている土野くん! 我々は事の真相を解明せねばならんのだ!」
ここぞとばかりに乗っかった私に、憮然とした態度で部長が檄を飛ばす。すかさず老人が助け船を出した。
「と、隣の嬢ちゃんの言う通りだ。俺も、誰かがアレを完食するところを見たくないと言えば嘘になる。だがな、あんたらにゃ無理だ」
「ふーん……そこまで無理無理って言われると、燃えてくるじゃん……」
あっ、追い込まれると熱くなるタイプの祢津さんが部長側に寝返ってしまった。もう終わりだ。絶望している私に、未だ何かを喚いていた老人を制する店主の声が聴こえた。
「おい小林、てめぇが他人の注文にケチ付ける権利はねぇだろ……小娘ども、本当にいいんだな? そこの男が言うように、生半可な代物じゃねぇぞ」
カウンターから身を乗り出し、部長がそれに答えた。
「承知の上だ。ただしひとつ、条件がある。聞いてもらえるか、明尊亭店主、樋口建三」
「……どうして俺の名前を知ってやがる」
「我輩の調査を甘く見るな、貴様のことは何もかも知っている。貴様が古代のオーパーツである水晶髑髏を持っていることもな!」
その言葉に、店主は先ほどよりも鋭い目つきで部長を睨んだ。小林と呼ばれた老人客が、息を呑む音、それだけがはっきりと聴こえた。
オーパーツ。それは発見された場所や年代にまったくそぐわない、時代錯誤な出土品のことだ。ナスカの地上絵やヴォイニッチ手稿もそれに該当するが、その中でも特に有名なのが水晶髑髏――その名の通り、水晶で作られた髑髏だ。そんな貴重品を、しがない中華料理屋を切り盛りしている老人が所有しているだなんて、到底思えなかった。
やがて店主、樋口建三はゆっくりと奥の厨房へ引っ込み、立方体の小さな木箱を手に、こちらへ戻ってきた。彼がそれを開けると、そこには美しく透き通った髑髏が、蛍光灯に照らされて怪しく煌めいていた。いつもはうるさい部長ですらも思わず言葉を吞み、前髪の奥の目を見開いたほどだった。
ややあって、彼は沈黙を嫌うような咳払いを一度してから、ぽつりぽつりと語り始めた。
「もう半世紀以上も前のことだ。当時ジャーナリストだった俺は、世界各地を転々としていた。グアテマラに訪れたとき、そこで怪しげな商人からこいつを買ったんだ。今思うと、あのとき出した金がありゃ、この店は倍以上の広さにできたな……ま、こいつぁこの店の守り神みてぇなもんだ……」
そう言って自嘲気味に笑ってから、樋口さんは再び部長を見据えた。
「で、これをどうしたいって?」
「単刀直入に言おう。我々が貴様の麻婆豆腐を完食した暁には、その髑髏を譲ってもらいたい! 賞金は要らん、貴様にとってはほんのはした金だろうしな。我々の生半可でない心意気を、貴様にも汲んでもらいたいのだ」
部長の言葉に、樋口さんは鼻を鳴らした。
「いい度胸じゃねぇか、乗ってやる。二十分だけ時間をくれ」
樋口さんが再び厨房へ入っていくと、小林さんが意を決したように言った。
「嬢ちゃんたち、ここからは老いぼれの戯言だと思って聴いてくれ。実は俺も数十年前、町の荒くれ共を三人従えて樋口に挑戦状を叩きつけたことがあったんだ……結果は惨敗だった。大の男たちが一人、また一人と倒れていくところを、俺は水の入ったコップを咥えて見てることしかできなかった……いいか嬢ちゃんたち、今から出てくる麻婆豆腐の怖いところは、量だけじゃねえ。問題はその『辛さ』だ。本場の四川から仕入れた花山椒、豆板醤、甜麵醬、辣油、イギリスで開発された約二百五十万スコヴィル値の唐辛子まで……とにかく辛いもんがありったけぶち込まれた代物だ。味覚じゃなく痛覚に直接訴えかけてくる味だ。だが食べてる最中に水を飲みたくなっても、絶対に飲むな。一度水を飲んだら、二度と口には入れられないと思った方がいい。経験者が言える助言はこれだけだ……健闘を祈る」
「そ、その荒くれさんたちは、どうなったんですか……?」
恐る恐る尋ねた私に、小林さんは無言で天を指さし、合掌した。
きっかり二十分後、樋口さんが厨房から出てきた。彼の両手には、まるで洗面器のような大きさの丼が抱えられており、その重さにギリギリで耐えている両腕が小刻みに震えている。それを見て何かを思い出したのか、小林さんが「ぐっ」という短い呻き声を上げた。
「お待ちどう!」
カウンターにどんと下ろされた丼の中に、私は沸き立つマグマを見た。それは深く大きな丼になみなみと盛られた、真っ赤なマグマとしか言いようがなかった。
量にして四キロはあるだろうか。油膜の浮いた真紅の麻婆の海に、ゴロゴロとした豆腐が見え隠れするその様相は、血の池地獄で為す術もなく浮き沈みする罪人をも彷彿とさせた。
湯気が目に染みて、思わず目を背ける。今まで嗅いだこともない刺激臭が鼻腔をつんざき、鼻と喉の境目に鋭い痛みが走り回った。
間違いなくこれまでで最大の敵を前にした部長が、ふうっと息を吐き髪を後ろで束ねる。それと同時に、ストップウォッチを手にした樋口さんが、ルール説明を始めた。
「制限時間は一時間。完食できたら賞金、もとい水晶髑髏をお前らにやる。しかし残した場合は罰金四万円だ。サービスとして、水はおかわり自由だからな」
小林さんの助言が正しければ、最後のセリフは罠だ。麻婆豆腐から立ち上る湯気……いや、陽炎の向こうで不敵な笑みを浮かべる樋口さんの背後に、真っ赤な顔を歪めて牙を剥く鬼の姿が、一瞬、蜃気楼のように見えた気がした。
私たちは各々れんげを片手に、腹を括った。
「それじゃ……始め!」
樋口さんの合図と同時に、真っ先にれんげを丼の中に沈めたのは、なんと都井さんだった。
「実は私、激辛が大好きなんだよね~」
「わはは! やってしまえ都井くん!」
部長が声を上げて都井さんを鼓舞した。
そうだったのか! 都井さんが辛い物を得意としていることを部長は知っていて、この挑戦状を叩きつけたのだ。つまり勝機は、ゼロではない。
ほっと胸を撫でおろした私が見守る中、都井さんはニコニコ顔のまま、麻婆豆腐を一口頬張った。その瞬間、彼女は声もなく丸椅子から転げ落ちた。
「どうした都井くん!」
「都井さん!?」
「え、詠子ッ!?」
私たちの叫びが店内にこだました。
慌てて祢津さんが駆け寄り、都井さんの脈をとる。それを見下ろす私たちに向けて、彼女は首を振り、唇を震わせながら呟いた。
「……死んでる……」
部長が心底悔いるように目を閉じ、胸で十字を切った。
「安らかに眠れ都井くん……いくぞ土野くん、祢津くん! 彼女の死を無駄にしてはいけない!」
そうは言われても、たったいま殉職した都井さんの姿を目の当たりにして、これを食べろという方が無理な話だった。祢津さんはもちろん、部長でさえも額に汗を浮かべながら、マグマを掬ったれんげを口に入れる寸前で躊躇っていた。
勝ちムードから一転、絶望のドン底に突き落とされ、早々に戦意を喪失した私たちに、眼前でボコボコと音を立てるそれを完食できるはずがなかった。
「……五分経過」
樋口さんの無慈悲なカウントダウンが聴こえた、そのときだった。
「……あたしがいく!」
そう声を上げるや否や、祢津さんが一口、二口、そして三口とれんげを口に運んだではないか。目を固く閉じ、ほとんど噛まずに麻婆豆腐を嚥下していく。
「祢津さん、凄いです!」
私がそう叫ぶのと同時に、四口目を掬い上げた祢津さんの動きが止まった。とんでもない量の汗が、彼女の顔面から流れ出していた。
そして数秒後、信じられないことだが――祢津さんは、まるでドラゴンの様に、炎を吐いた。炎は一直線に祢津さんの喉奥から飛び出し、正面の壁を黒く焦がした。
「ね、祢津くん、きみ、今炎を……!」
「あわわわわわ……」
突然の怪現象にパニくる私たちを睨みつけた祢津さんの瞳は、既に爬虫類のそれに酷似していた。今にも中国四千年の歴史に取り込まれんとする祢津さんが、唇の端から炎を漏らしながら叫んだ。
「二人も早く! 食べて!」
「相わかった! 覚悟を決めるぞ土野くん!」
「は、はい!」
私たちは三人同時に麻婆豆腐を口に運び、三人同時に炎を吐いた。
「ウボオオオオオ!」
「ギエエエエエエ!」
「ゴゴゴゴゴゴゴ!」
もはや麻婆豆腐を食べる女子高生三人組の姿はどこにもなく、そこにあるのは三頭の龍の狂宴だけだった。
大量の山椒と唐辛子によって絶え間なく与えられる、舌がもげそうなほどの口腔内の痛み。胃袋はオーバーヒートしたエンジンを呑み込んだように熱い。れんげから落ちた一滴の麻婆が、ボコボコとカウンターを溶かして貫通していく。倒れそうになるのを何度もこらえ、一口、また一口と、なるべく舌に当たらないよう、マグマの如きそれを嚥下していった。
上下の唇は倍ほどに腫れ上がり、長い前髪を顔の上半分に張り付けたまま白目を剥き、涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになった部長は、妖怪が見ても裸足で逃げ出すほどの有様だった。祢津さんに至っては、両手から鋭い爪が伸び、腕にはウロコがびっしりと生え、呼吸をするごとに店のそこかしこを焦げつかせていた。
一体私はどんな風に見えているだろうか、という、そんな恥じらいすら覚える余裕もなかった。
朦朧とする意識の中、しかし、それでも私たちは、れんげを口に運び続けた。
「……三十五分経過」
樋口さんがそう告げたとき、丼の中の麻婆豆腐は、半分近くまで減っていた。いつの間にか息を吹き返し、小林さんに看病されていた都井さんが「がんばれ~」などと呑気な声を上げた。
辛さと熱さで、自分が今満腹かどうかすらも定かではなかった。もしかしたら、とっくに限界を超えていたのかもしれない。私は未だ内側から激しい発熱を起こしているお腹を抱えて、カウンターに突っ伏した。
「グルルルル……」
もはや人の言葉を忘れた祢津さんも、隣で悔しそうに唸りながら、私と同じく上体を倒し、力尽きていく。その姿を見ながら私は、ああ、明尊亭へ来る前と同じ構図だ、とぼんやり思った。
「土野くん、祢津くん……」
薄れていく意識の中、部長の声が微かに聴こえた。これ以上発破をかけても無駄ですよ部長。もう諦めましょう……そう言いたかったが、今の私には、言葉を発する力も残されていなかった。しかし部長の口から飛び出したのは、誰もが予想し得なかった言葉だった。
「見ていろ二人とも……これが我輩の……岡田遥人の……オカルトに捧げる熱意だあああああッ!」
部長はブレザーを脱ぎ捨て、シャツの袖を捲った。そしてあろうことか両手にれんげを持ち、残った麻婆豆腐を盛大に掻き込み始めたのだ。吹き出す汗で目が塞がり、刺すような匂いで鼻腔の粘膜がやられ、鼻血を出してもなお完食を目指す部長の姿に、樋口さんまでもが驚愕の表情を浮かべて、呟いた。
「い、一体このチビのどこに、この量が入っていきやがる……!」
その言葉通り、麻婆豆腐はみるみる減っていき、僅かに一瞬、丼の底が見えた。ゴールはもうすぐだ。
「五十五分経過……残り五分!」
「い、いけますよ部長! もう少し……もう少しです……!」
しかし、私の祈りは届かなかった。
丼に五口ほどの麻婆豆腐を残したまま、部長の手は、れんげを口に運ぼうとした手前でぴたりと止まった。
「ぶ、部長……?」
私が恐る恐る声をかけたその瞬間、岡田遥人は、おそらく胃袋から発生した人体発火現象によって、真っ白に燃え尽き、意識を失った。その表情は、まるで春の小川のせせらぎのように穏やかなものだった。
「残り二分!」
私は部長に向けて敬礼をし、丼を自分の前に手繰り寄せた。残り五口……ここまで部長が減らしてくれたんだ。あとは私が頑張らなければ……!。
文字通り決死の覚悟でれんげを手にし、麻婆豆腐を掬おうとした刹那――横から伸びてくる、もうひとつのれんげが目に入った。
「祢津さん!」
「気合い入れていくよ、子夏!」
「残り一分!」
樋口さんのカウントダウンと同時に、私たち二人は揃って麻婆豆腐を口に運ぶ。忘れかけていた痛みが口内で爆竹のように炸裂し、悶絶する。それでも手を止めない、いや、止めてはいけない。せっかくここまで来たのにチャレンジ失敗なんて、冗談じゃない。
「残り十秒!」
カウントダウンが聴こえる。
まだ僅かに残っていた体内の水分が、汗や涙となって流れ出す。互いに二口を食べたとき、ズタズタの口内とパンパンの胃袋は、ついに極限状態を迎えた。
丼には僅かにあと一口分の麻婆豆腐が残っている。しかし、その一口がどうしても食べられない。
早く食べないとダメなのに……頭の中ではわかっていても、もう腕が、身体が動かない……れんげが手からこぼれ、私たちは揃って天を仰いだ。
残り五秒。これまでなんとか保っていた姿勢が崩れ、重くなった私の上半身が大きく傾く。
残り四秒。祢津さんが丸椅子から転げ落ちた音。身体が宙に浮く感覚。
残り三秒。倒れ込む一瞬に見上げたカウンター、そこに置かれた丼にれんげを伸ばす、白く細い腕。
「よくやったぞ二人とも!」
残り一秒。最後の一口を食べ終えた部長を見届け、私は親指を立てながら床に倒れた。
はっとして目を覚ますと、明尊亭の黄ばんだ天井が目に入った。髪が揺れる感覚がして顔を横に向けると、うちわで私に風を送っている都井さんがいた。
「あ、土野さんおはよ~、ナイスファイトだったね~」
「都井さん……そうだ、結果はどうなりました!?」
都井さんが指さした方を見ると、水晶髑髏の入った木箱を持って小躍りする、腹の膨れた部長の姿が見えた。
私は泣きそうになりながら、祢津さんが持ってきてくれたコップを受け取り、注がれていた水を一息に飲み干した。
「祢津さん、もう炎は吐ききりましたか……?」
「え、なんのこと?」
そう言った祢津さんの瞳はしっかり人間のものだったし、腕の鱗もなかった。店内を見渡しても、壁は焦げていない。どうやら私は、あのおそろしい麻婆豆腐によって幻覚を見ていたようだった。
「それにしても、一番食べてたくせによくあんなにはしゃげるよね。あたしだってまだ苦しいのに」
そう言って部長を見つめる祢津さんの表情は、やっぱりどこか嬉しそうだった。
不意に店の戸が開き、暖簾を持った樋口さんが入ってきた。
私たちの視線に気づいた彼は、ぶっきらぼうに、しかしどこか清々しさを孕んだ口調で言った。
「明尊亭は今日で店じまいだ。守り神を失っちまったからな……つっても、そろそろ引退しようと思ってたところだ。お前ら、引導を渡してくれてありがとよ」
「樋口よ、今回我々の挑戦を呑んでくれたこと、感謝する! 麻婆豆腐、美味かったぞ!」
部長の言葉に樋口さんはフンと鼻で笑って「ありがとよ」と呟いてから、言った。
「それ、大切にしろよ」
帰り道で都井さんに尋ねたところ、小林さんは部長の完食を見届けてから、一言「いいもん見せてもらった」とだけ残して、店を出ていったという。
「あの人、今日で明尊亭が閉業することを悟ったんじゃないかな~」
そう言って、都井さんは笑った。
水晶髑髏は今もオカルト研究部室の隅に飾られている。
それは、山積みの机や椅子の隙間から時折漏れる陽光に照らされ、怪しく煌めいている。
FILE006 マーボードーフ×オーバードーズ×オーパーツ おわり
FILE007へつづく
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