第4話

 日常というのはいつだって急激な変貌を遂げるものであり、尚且つ僕の人生においてそれはいつだって好転じゃあない。小学生の頃好きだった女の子は想いを伝える前に転校してしまうし、中学生の頃の部活動は先輩方の卒業を機に部員不足で廃部になってしまうし、挙げ句の果てには両親から突然の勘当を言い渡されてしまう始末だし。

いつものようにアルバイト先の古書店で暇を潰すべく、随分と昔に翻訳されたらしい洋書のミステリー小説を読んでいた時のことだった。

どうにも没頭できない。というより、文章が理解できなかった。文字は読めているのに単語、文章として処理できないのだ。食事をしているのに全く味がしないようなとても気持ちの悪い感覚で少し呆然としていたのだが、声をかけられすぐに我に帰った。珍しく客が来たと思い少しの緊張感とともに顔を上げたが、誰もいなかった。立ち上がらずとも狭い店内は見渡せるので店内に客がいないことは瞭然だった。読書もままならなず、おまけに幻聴と来たらこれは体調でも崩したかなあと不安を感じていると今度ははっきりと、どこか聞き覚えのある声が聞こえた。

「ねえ、こんなところで何をしているの?」

「そのままじゃあ、空っぽになっちゃうよ。」

古書店で働き始めて、気がつけば二月が経とうとしていた。その間、客の問い合わせの内容がわからないことは度々あったけれど、しかし問い合わせ(というよりは問い質し)の主がわからないなんていう体験は初めてだった。一応振り返って奥の部屋にいる店主の様子を伺うが、作業が行き詰まったのだろう、首をかくかくと揺らしながらうたた寝していた。ならば一体誰に声をかけられたのだろうか。じんわりと首筋を汗が伝う。ただ単に、空耳かもしれない。ただそう結論づけるには少しばかり気がかりなことも、考えてみれば一つあったのだ。


事故物件。


あの部屋に巣食う悪霊の類が、僕に取り憑いてしまったのだろうか。しかし事故物件にまつわる心霊現象の都市伝説において、外出する悪霊なんて寡聞にして聞いたことがない。部屋に憑いてるんだもん。

それじゃあ地縛霊じゃなくてただの野良の幽霊だ。やはり気のせいということにして仕舞おうと、今日は読み進めることを諦めた洋書を片付けようとした時、違和感を感じた。違和感、というか嫌な感じ。

そこには何も見えない。見えないものはないに決まっているのだけれど、この場合しっかりとそこにそれはあった。

……………影?


かげ【影】(名詞)

[一]日、月、星や、灯火、電灯などの光。

[二]光を反射したことによって見える物体の姿。

[三]物が光を遮って、光源と反対側にできる、そのものの黒い像。

[四]つきまとって離れないもの。

[五]死者の霊魂。


本棚に戻そうとした手元の洋書には、影が差していた。とは言っても僕はまだ立ち上がっていなかったので、店内の照明と洋書を結んだその直線上に僕はいないのだ。違和感が、確信に変わっていくのを感じる。確信を通り越してもはやこれは覚悟かもしれない。目に見えないそれを、ここにはいないそれを、確かにいると認める覚悟。そうしておっかなびっくり目の前の虚空を見つめていると、また聞こえた。

「ひどいなあ、そんな化け物を見るような目で。お前が目を背け続けた結果がこれだろうに。まあ見たくないっていうのなら見なくたっていいけれどさ。ただ、忠告はしたからね。じゃ。」

「ちょっと」

まさに鳩が豆鉄砲を喰らったようだった。

あまりの衝撃に喉がからからに渇き、うまく言葉が出てこない。

「ちょっと、待ってよ!」

静寂の店内に僕の声が響き、待てども待てども返事はなかった。普段出さない大きな声に驚いた店主が様子を見に来たが、こんな荒唐無稽な体験談を語ったところで精神を患ったと評価されて最悪職を失うかもしれないと思い適当に往なした。その後の就業時間は特に何も起こらず、閉店の時間を迎え僕は帰路についた。普段と比べてずいぶんと疲れた。ふらふらと、さながら酔っ払いのような足取りで歩きながら、今日自分が体験した出来事は一体何だったのだろうと考える。

往生際も悪く、やはり夢だったのではなんて考えたくなるが、彼の、否、影の言っていたことが頭をぐるぐると巡る。

忠告、か。

お財布が空っぽにならないためにアルバイトをしている僕に対して、あんな世迷言を浴びせてきたあの正体不明の影がなんだか次第に憎たらしく思えてきた。なにより、彼奴が何者であろうが誰かに後ろ指を刺されるような(後ろでもなければ指を刺されていたのかすら見えなかったが)真似はここ数ヶ月の生活の中でしていないじゃあないか。

———ここ数ヶ月?

忘却の彼方に葬り去るには、まだまだ時間の足りない三月の出来事が脳裏をよぎったが、急いで見ないふりをした。よし、気分を切り替えよう。今日の勤労と緊張を労って、普段は一日一本と決めている砂糖たっぷりのエナジードリンクをもう一本飲もう。そして帰ってゲームでもしよう。幸いにも明日は日曜日。古書店は休業日である。

アパートの前の自動販売機に立ち寄ったその時の光景を、今度ばかりは見ないふりなど出来ようもなかった。昼間とは真逆の違和感。

初夏とはいえ二十時を回った空は暗く、自動販売機の明かりは煌々と僕を照らし出していた。それなのに、エナジードリンクを取り出そうと視線を落とした僕の足元には、僕の影がなかった。

生暖かい初夏の夜の空気がじんわりと汗ばんだ僕の首筋を通り抜け、昼間の声にどこか聞き覚えを感じた理由がようやくわかった。

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