第3話

「出て行きなさい。」


五月五日。ゴールデンウィークもそろそろ終わりに差し掛かろうという日の夕飯の席でのことだった。この国においては、子供が何者に対しても最強の座を譲ることなく一日を謳歌することができる今日この日、僕は両親から家を追い出された。追い出された、なんていうと少し被害者意識が強すぎるかもしれない。高校を卒業してから二ヶ月余りの間、大学の二次応募やその他専門学校への進学を選ばず、かと言って就職先を探すでもなくダラダラと日々を消費し続けていた僕に対して、両親も堪忍袋の緒が切れたというのが正確な状況だろう。

正直このうだつの上がらない引きこもり生活に、先の見えないニート生活に、どこかで終止符を打たなければならないことはなんとなくではあるが理解していたので、ある意味良いきっかけになったという楽天的解釈もできなくはないだろう。ミニマリストを自称するほどではないにせよ、自室にモノの少ない僕は特別身支度に時間がかかるということもなく、最低限の荷物をまとめてその晩のうちに家を出ることにした。居間でテレビの野球中継に怒号を飛ばしていた父とは対照的に、少しだけ心配そうな顔をしていた母は、当面の生活費が入っているであろう封筒を僕のリュックにねじ込み、気をつけて、とだけ残して居間に戻って行った。その丸まった背中に、どこか後ろ髪を引かれるような感覚を覚えると同時に、瞬間見えた封筒の厚みからその中身を想像する。その能天気さと、自分の置かれている状況とのギャップに我ながら呆れる。とりあえず今日は、駅前のインターネットカフェで寝るとするか。

久しぶりの外出(というか勘当されたんだけど)に対してなのか、あるいはこれからの全く白紙の生活に対してなのか、場違いに高鳴る胸の鼓動に背中を押され、僕は十八年間暮らした家を後にした。


母親から渡された当面の生活費は、十八歳の僕にはもはや使途不明なほどの大金に思えたのだけど、僕が思っているよりも人生というのは金が掛かるようだった。インターネットカフェを一週間利用し続けたところで一度支払いを要求され、金額を見て僕はそのまま店を後にした。どうやら真剣に生きていく術を考えなければならないらしい。


とりあえずは収入と住居である。とはいえ収入、ようはアルバイトに関しては存外すんなりと見つかった。喧騒から逃げるように適当な下町を宛ても無く散策していると一軒の古書店が目に入った。と言うより、古書店の軒先に貼られた「手伝い募集」の文字が目に入ったので考えるよりも先に戸を開いていた。店主は物静かな好々爺で、こちらの事情を詮索することもなく、あっさりと雇用契約を結んでくれた。少し肩透かしなくらい。時給はこのご時世に決して高いとはいえない額だったけれど、せっかく掴んだ生活の糸口を手放すのは怖かったし、なにより文句が言えない身分であることもわかってきていた。収入源を確保した僕は、さながらライトノベルで異世界に転生した主人公の最初のジョブ選択を終えたような軽快な気分で、次なるタスクである住居の確保へと向かった。下町といっても駅前には不動産屋が複数店舗あり、物件情報を入り口付近に貼り出していた。それらを上から下まで眺め、右から左まで眺め、わりと長めに眺めたが、果たして自分の懐から拠出できる資金で賃貸契約を結べる物件は皆無だった。店員に問い合わせれば膨大なデータベースから数多の物件を紹介してもらえるなんて言うことはつゆも知らずに、不動産屋って意外と扱っている物件数は少ないんだなあなんて自分勝手に業界を見下しつつ、せっかくの威勢に水を刺されたような気持ちで店先を離れた。気がついた時には、見覚えのあるチェーンのインターネットカフェの個室で横になっていた。頭も身体も疲れ切ってしまって、脳みそが帰巣命令を下したのだろう。数ヶ月前までは毎日学校に通い、人と触れ合い、青春の限りを尽くしていた(これは過言かも)と言うのに、半日の外出がやっとの筋金入りの出不精に成り下がった自分にほとほと呆れてしまった。

気分転換に動画サイトでもみようとパソコンを立ち上げると、前の利用者の閲覧画面の履歴が未削除の状態のようだった。こんな杜撰な管理体制で運営されているのがインターネットカフェなら、僕も今後利用するに際しては履歴の削除を失念しないようにしなければ、なんて思いながら少しばかりの好奇心で表示されたサイトを見てみると、事故物件の情報を集積したデータのマッピングサイトだった。昔友人とそれぞれの自宅を検索し、炎のマークがついていないことに確かな安心と多少のつまらなさを感じたことを思い出したりした。

そして、事故物件に関してもうひとつ、破格の家賃で入居可能であると言う都市伝説的な噂を思い出した。事故物件と聞くと、幽霊が出るのではないか、などと物騒な勘繰りをしてしまいがちだが、単にそこが誰かの人生の終点だっただけというモノも数多くあるのだ。マッピングサイトには事故物件を専門に斡旋している窓口が開設してあり、藁をも縋る思いで僕はオペレーターへ電話をかけた。電話口の男性の対応は、「事故物件」などという不気味な響きからは程遠い、ホスピタリティに満ちたものだった。エリアと金銭的キャパシティを伝え、提示された物件は、なんと今いる街のとあるアパートだった。バイト先の古書店と近いところに住めるのはありがたい。駅からもそれほど離れていないし、生活するにも不便はないだろう。

なにより提示された家賃は一万八千円だった。安っ。

明日にでも入居可能との案内を受け、では物件前で待ち合わせをと約束をして通話は終了した。

なんだ、やればできるじゃないか。生活の基盤を確保できた。その事実に大変満足が行った僕は、フリータイム利用者の特権である甘口のカレーライスをこれでもかと皿に盛り、ついでにマグカップにこれでもかとトグロを巻いたソフトクリームまで用意して、一人暮らし開始の前祝い、その日暮らしの自分の送別会を開催したのだった。

翌日の昼頃、約束通り件の物件前で昨晩電話で対応してくれたであろう男性と合流し、当該物件のおおかたの説明を受けた後に部屋の鍵を入手した。昨晩までの寝床と比較するのも馬鹿馬鹿しくなるほどの広大なスペースが、今日をもって自分の支配下となった事実にそれはそれは大きな満足感を抱き、一方身ひとつで乗り込んだこの新しい住処には一切の生活感がないというもの寂しさも感じていた。しかし母から渡された資金を丸ごと充当すれば、健康で文化的な最低限度の生活を営むための家具は揃えられそうだったので特に心配することもなく、新生活応援フェアはそろそろ終わってしまったであろう駅前の商業施設に向かったのだった。

 腰が痛い。アパートからバイト先の古書店まで徒歩で十分足らずといった距離なのだが、出勤初日から足取りは重かった。改めて僕は世の中を舐めていたらしく、手許資金で購入できた生活必需品は本当に「最低限度」の生活を営むに足るレベルで、まさかインターネットカフェのシートよりもクッション性が乏しいとは想定外だった。ほとんど床をのたうち回っていたような、睡眠とは到底言えない時間を夜半過ごした結果、僕の体は労働前にして悲鳴を上げていた。どちらかというと夜型の僕は消灯前、寝坊したらどうしようなどと緊張をしていたのだけれど、むしろ少し早めに寝床から脱出する始末だった。

指定の時間より早めに店に到着するとシャッターは半分開いていた。潜って店内に入ると、店の奥の部屋で店主はコーヒーを片手に煙草を吸っていた。僕に気を遣い灰皿に火種を擦り付ける店主をあわてて制し、職務内容の再確認と実務的な説明を受け僕の初仕事は始まった。とはいっても下町の、言い方は悪いが寂れた古書店である。僕の誇らしい社会経験の乏しさを披露するための客はなかなか現れなかった。僕の給料、本当に支払われるよね…?

暇を潰すことに関して、この数ヶ月誰よりも研鑽を積んできたと自負していたのだけれど、それは自室やインターネットカフェの個室においての話であり、あくまでも就業中という状況を鑑みるとなかなかどうして暇は潰れないのだった。店主は僕に店番を任せると奥の部屋で何やら作業をしているようだった。慣れない手つきでパソコンを弄りながら、唸ったり、首を捻ったりしている。いくら社会経験の乏しい僕だって、就業中にスマホゲームに勤しむような蛮行に及んではならないことくらいわかる。正直なところ、少しくらい適当な態度だったところで店主にお叱りを受ける気はしないのだけれど、何かがまかり間違って懲戒なんて展開は御免である。ならばどうしてこの暇を潰そうかと思案した結果、僕は本を読むことにした。もちろん店主には承諾を得たし、この店の商品データベースを理解しておくことは業務上理のある行為だという大義名分もあった。流行の漫画や小説、ライトノベルなどはほとんど皆無のラインナップから長い長い暇つぶしのお供を選ぶのは簡単な作業ではなかったけれど、そもそも書籍として世の中に流通したいわばプロの成果物であるという点に敬意を表し、選り好みすることなく片っ端からローラー作戦的に閲読するという方法を最終的には選択した。初出勤であった今日、結局来店客はほとんどなく、仮に日報を求められていたら原稿用紙数枚に渡り時代錯誤の家族観に対するヘイトスピーチまがいの読書感想文を提出することになっていただろう。とは言っても就業時間をいかに乗り越えるかという方針が固まったことは、僕にとってはとても大きな収穫だった。

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