第2話
卒業式と言われても、一体僕は何を卒業したのだろう。
何を卒業して、何者になったのだろう。何者かになれたのだろうか。
三月某日。今年は少し早めに七分咲いた桜をぼんやりと眺めながら、そんな主人公めいた物思いに耽っていた僕は、卒業式というイベントの空気に、やはり中てられていたのかも知れない。
何を卒業したのかって、そりゃあ高校生としての学業を卒えたとしか言いようがないのだけれど、それでも僕がこの卒業式をもって何者になるのかということに関しては、回答を持ち合わせていなかった。
誕生日が三月末だから、現時点で周りの人間よりもひとつ年下であるという事実も、全くの無関係ではないのだろうが、もっと実際的に、わかりやすい理由として、僕は進学先が決まっていなかったのだ。
第一志望か否かという問題は置いておいて、概ねの生徒は四月になったら大学生活がスタートする。高校生から大学生になる。新しい肩書を得て、新しい何者かになる。細かいことを言えば、もちろん浪人する生徒だって一定数居ることには居る。ただ、十七歳の僕にとってみれば、関わったことのない同窓生なんて、ものの数には入らない。
だから感覚的には僕だけが、高校生ではなくなり、何者にもなれない。そんな気持ちになってしまうのだ。
ちょうど一年前、このクラスの生徒として集ってまもなく、担任教師がまるで動物園のようだとその賑やかさに呆れていた程に、比較的仲の良いクラスだった。そんなこのクラスも今日で解散とあって、いつにも増して取り留めのない有様だ。まるで今生の別れかの如く咽び泣く女子の集団、気合が空回りして似合わない髪型で登場した男子を囲み笑い合う仲良しグループ、教壇には担任教師からの激励のメッセージを頂戴するべく数人の列もできていた。がやがやというのはこういう状況のことを指す言葉なのだろう。
…いや、間違っている。
そう、何が間違っているかと言って、まさしく今僕に対して抱いたイメージ以外の何でもない。僕は別に友達がいないわけじゃない。友達がいないから、がやがやと楽しそうな教室の、最後の教室の風景のその一部に透明人間かの如く忍んでいるのではない。先述の通り、仲の良いクラスだったのだから、僕に限らず誰か一人を除け者にするようなクラスではないのだ。ただ。
ただ、今は彼らと何を話せばいいのか、わからないだけなのだった。
いや、これも間違っている。僕は彼らに謝らなければならないのだ。
謝らなければならないことを思うと自然、顔を合わせる勇気も萎む。
嘘を吐いたことがあるだろうか。あるだろう、一度くらい。
…あるよね?
嘘には終わりがない。嘘を隠すために嘘を重ねて、重ね着して、もはや平安女性もびっくりの十二単状態である。その嘘の衣を纏った醜い塊は次第に身動きが取れなくなって、立ち行かなくなって、暗い闇に沈んでいく。立ち上がるには、真っ黒ですすだらけの顔面をなんとか持ち上げ、ごめんなさいをするほかない。言ったところで、嘘が終わるだけで、嘘を吐いた結果が終わる、とは誰も約束してくれない。
………いじいじと御託を並べてきたが、白状しよう。
というかおおよそ予想もつくだろうが。
僕は友人たちに嘘を吐いた。
「東京の大学に行くんだ。だから春からは一人暮らしをする。」
電車を三本乗り継げば、約一時間半をかけて東京に到達する場所に位置する僕らの街は別に田舎というわけではないのだけれど、それでも地元か遠くても
隣県の大学への進学というのが一般的だった。東京に進学するということにすれば、地元の大学への進学を詐称するよりもバレるリスクが幾分か少ないと踏んだのだ。
これが間違いだった。
やれやれ、間違いが多いなあ、この章。
沸いた。
沸いてしまった。
その勢いは仲間内では止まず、結局クラスが沸いた。
「え、えぇ!?」「すごいね、どこ大!?」「マジかよどこ住むの!?」「やっぱ渋谷!?」「いつの間に受けてたの!?」「いや新宿でしょ。」「ねぇねぇどこ住むの!?」「お前頭良かったんだな…。」「でも従兄が渋谷も新宿も住むところじゃないって。」「で、大学はどこなの!?」「いいなぁ私も東京行きたーい。」「一人暮らしってことはマスかき放題だな。」
「馬鹿、デリヘルだろ。」「男子キモいんだけど」「東京の大学ってめっちゃ美人多いらしいぜ!!」「ちょっと、うちらだって美人なんですけどー、ねー?」「馬鹿言えよ、モデルがその辺歩いてるらしいぞ。」「ま、お前がそんな子捕まえられるわけねーけどなー。」「こいつん家で東京パーティしようぜ!!」「何だよ東京パーティって…。」
体温が下がっていくのを感じた。
周囲の誰の声も、自分を突き刺す棘のようだった。
視界が狭くなり、もはや誰の声も聞こえなくなった。
僕は卒倒したらしい。
保健室で目が覚めた。ベッドの傍らには、在校生の期末試験の採点に追われる担任教師の姿があった。未だ整理がつかない僕の目覚めに気がついた担任教師が心配そうに顔を覗き込んできた。
「おいおい、大丈夫か?」
「…はい。ただあんまりよく覚えていなくて…。」
「教室で急に倒れたって聞いて、びっくりしたぞ。軽い貧血だそうだから、落ち着いたら今日は帰って休みなさい。」
「…はい。」
「あ、それと。」
だんだんと脳みそが覚醒し、これから嫌な話が始まる、そう思った。
「クラスの連中から聞いたが…。お前何故あんな嘘を吐いたんだ?」
生徒の進学先を把握するために、合格証明書を学校に提出することになっているので、担任教師は僕の進学先が未確定である事実を知っていた。東京の大学に進学するなんて、学年でそんな者が出れば、教師が把握していないはずもないのだ。バレバレの嘘だった。
「……」
「他に浪人する奴だっている。そんなに後ろめたく思うようなことではないだろう。…いや、これは配慮に欠ける言い方だったな、すまない。周りと足並みが合わなくなることは不安だろう。その気持ちはわかる。しかし、あいつらとの仲だろう。きっと素直に打ち明けたら応援してくれるはずだぞ。」
「みんなに話しましたか?」
「なにを?」
「だから、みんなに、あれは嘘だって話しましたか?」
「…話してないよ。というか話している余裕もなかった。お前をここに運ばなきゃならんかったからな。」
きっと僕の顔は安堵していたのだろう。すかさず担任教師は続ける。
「バレなければ、それでいいのか?」
「そうじゃないですけど…。」
「今年一年お前たちを見てきた。いいクラスだったよ。みんな優しくて、思いやりがある。少し騒がしすぎる点には頭を悩まされたが、それも今となっては笑い話だ。本当のことを打ち明けたらどうだ?
彼らはお前を指差して笑ったり、馬鹿にするような奴らじゃない。」
「…わかりました。」
卒業式の十日前、大学入学試験よりも心持ちとしてはよっぽど難しい高校生活最後の試験が僕の前に立ちはだかったのだった。
倒れた翌日とその翌日は大事をとってということで学校を休んだが、親に必要以上に心配をかけるのも面倒なので、その後は学校に登校した。とはいっても授業のないこの時期、高校生としてはモラトリアム期間であり、教室に居場所を固定されるということもなかったので、図書室や旧校舎などで時間を潰し、帰りのホームルームが終わるとさっさと帰宅した。逃げ続けたのだ。謝罪から。ホームルームで担任教師から心配するような、哀れむような視線を送られ続けたが、ついに僕はクラスメイトに対して謝罪会見を開くことができなかった。
回想終了。あれから十日経って、現在。卒業式当日である。
あの一件以来、様子のおかしい僕を気遣ってか、はたまた単に腫れ物に触れづらいだけなのか、話しかけてくる人間はほとんどいなかった。ありがたいような、追い込まれるような、居心地の悪さが僕の心にまとわりついていた。もう既に卒業式自体はつつがなく終了して、先述の喧騒である。ここ一週間と少し孤立して口を閉ざしていた僕も、いよいよ一念発起。謝罪の時間である。その矢先。
「おう、体調はもう大丈夫かよ。」
クラスの中でも昼休みや放課後を一緒に過ごすことが多かった数人が声をかけてきた。
「悪かったな。俺たちが騒ぎすぎたもんで、ちょっとうざかったよな。まさか倒れちゃうなんて。本当すまなかった。」
「い、いや。気にしないで。本当。その、実はさ」
「最近あんまり教室いなかったり、すぐ帰ってたのって東京行きの準備だったんだろ?俺たち色々大変なことがあるって想像もできてなくてさ。でもこのままお別れってんじゃ寂しいから、最後に今日くらいは楽しんでさ、お前のこと東京に送り出させてくれよ。」
「そ、そうだね。…最後に思い出つくろう。」
言い出せなかった。彼らは良い奴だから。東京行きが物珍しいから騒ぎ立てていたのであって、嘘だと打ち明けることさえできれば、なんだそうだったのか、と少しいじられて終わりだと思っていた。でも彼らは良い奴だから、本当に僕を応援し、別れを惜しんでくれていた。
だから僕は考えることをやめた。考えることを諦めた。今日一日、嘘を貫き通して仕舞えば、謝罪会見も必要ない。糾弾の的にもならずに済む。それでいい。それが一番楽だ。こうして僕は高校生として最後の一日を、何者かと言うと食わせ者として過ごしたのだった。
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