ホテルニューさわにし:帰る

野村絽麻子

園田先輩のいない日

 ちょっと里帰りして来るわ、と園田先輩が言った。ええー、と寂しく思いながらもそれは致し方がなく、私は一人でフロントに立つことになる。


 *


 先輩がいないと妙なお客様ばかり来る。

 服の裾からぽたりぽたりと水滴を垂らすズブ濡れの子供、スーツ姿で丁寧だけど顔の辺りにだけ雲が浮かんでいる男性、長袖の袖口から鋭い鉤爪の覗く女性、エトセトラ、エトセトラ。

 その度に、先輩がしていたように軽く微笑みながら、例の手提げセットをお渡しすることになる。


「試験を受けに来られたんですよね?」

「試験?」


 頭の中でこれまで見てきた先輩が話す姿をトレースするように、内容を復唱する。説明が進むうちお客様の顔に納得したような表情が浮かんで、私もそっと胸を撫で下ろす。よかった、ご案内できた。

 いつの間にかフロントの前には行列ができていて、私はそれを少しずつ少しずつ、絶え間なくご案内していく。頬に笑みを浮かべたまま。一定のトーンを保って。言うべきセリフを繰り返していくのだ。試験を受けに来られたんですよね?


「試験やなくて、納品やなぁ」


 一人だけ、そう声をあげる女性がいた。

 貼り付けた笑顔のままで、はた、と顔をあげる。すると視線がかちりと合わさって、私の口から「あ、」と声が漏れた。

 銀糸の刺繍を散りばめた白い着物。小鳥の帯留。艶のある唇がゆるりと弧を描いた彼女は、まさしくいつかの雪の日に大吉卵店の鶏舎で出逢った女性の姿だ。

 ちょうど先輩の不在から心細くなっていた私の胸が、ふわりと陽射しが照らしたみたいに温かくなる。


「こんにちは、先日は卵を融通して下さってありがとうございました」

「いいえぇ、こちらこそおおきに」


 彼女の周りには相変わらず、白い羽とも雪ともつかない何かがふわりふわりと漂っている。フロントのカウンターに舞い落ちてきたそれは綿のようでもあり、砂糖菓子にも見える。鶏舎で遭遇した時は間違いなく羽だと思ったのに。指で摘んでみようかと逡巡しているわずかな時間に羽は再びふかふかと舞い上がり、そのまま空気に溶けるようにして静かに姿を隠す。


「そしたら、どないしたら宜しいのやろ」


 声にハッとして、それから、料理長のいる厨房を案内すれば、彼女は「ほな、またな」と柔らかく笑ってフロントに背を向ける。後には羽も雪も一欠片も残さない。

 そう言えばあのオーロラ色に輝く卵は何の卵だったのかを聞くのを再び忘れたことに気が付いたけれど、それを問う前に、彼女の姿はもう消えてしまっていたのだった。


 *


 園田先輩は思いのほかすぐに戻って来てきた。出て行く時と同じボストンバックから大小の包みを取り出しながら「なんや落ち着かなくてな」と小さな声でぼやく。


「これな、お土産」

「……ありがとうございます」


 受け取った小さなポーチの中ではセロファンに包まれた金平糖がしゃらりと音を立てていた。



 白っぽく半透明な金平糖は少し雪の結晶にも似ている。手のひらに乗せればひやりと冷たくて、口に含むとやっぱり冷たくて、齧ると甘くて、じゃりっと鳴る。

 金平糖の食感を思い出しながら朝食バイキングの行われているラウンジの片隅に立っていると、同じくフロアに目を配っていた先輩がいつになく小さな声で名前を呼んだ。ラウンジには、背中に大小の淡く透き通った翼を生やしたお客様が行き交っている。


「アミちゃん」

「はい、先輩?」


 先輩は、どこかくすぐったそうな表情だ。


「ただいま」


 それで、私も何だかくすぐったくなって笑ってしまった。


「お帰りなさい、先輩」



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