覗き穴から……

遠藤みりん

第1話 覗き穴から……

 俺は時間を忘れ、扉にピタリと顔を付けて覗き穴を見ていた。

  

10分……20分……いや、もう1時間は覗いているのかもしれない。


 真夏の夜だ、汗が次から次へと顎をつたい、ポタリとポタリと地面に落ちていく。


 大の大人が夜中に覗き穴にかじり付き、向かいの部屋の扉を覗いている……

 こんなおかしな癖が付いたのはいつからだっただろうか?全ての原因は向かいの住人せいだ。



 ある夏の夜に目が覚めてしまった。喉が渇き冷蔵庫から飲み物を取ろうとキッチンに向かうと玄関の扉の向こうから、何やら声が聞こえてくる。


「207号室の……は……なの……」


 玄関の扉を隔てている為、声は途切れ途切れにしか聞こえない。どうやら向かいの住人が誰かと話しているようだ。

 時計を見るともう夜中の1時を過ぎている。こんな夜中になんて非常識な奴だ。そんな事を思ったがさほど気にはしなかった。


 その夜からだ……次の日も、また次の日もある決まった時間に向かいの部屋から声が聞こえてくる。

 会話の内容までは聞こえなかったが、こう毎日続くとどうにも気になってしまう。


「いつも……なの……ほんとにねぇ……」


 相変わらず途切れ途切れの声に苛立ち始める。いつからか話しの内容が気になり、玄関の扉に耳を押し付け、必死に言葉を聞き取ろうとしていた。


「……から……だって……ほんとにね……」


 しかし、会話は大事な所が聞こえずに声にモザイクがかかっているようだ。苛立ちはさらに積もる。

 

 俺は扉の覗き穴から向かいの部屋の様子を覗いてみた。

 扉は若干、開いているが人は見えない。扉の隙間から部屋の中の明かりが漏れている。

 玄関の中で話しているのだろうか?


 疲れた俺は玄関にへたり込んでしまう。その瞬間に向かいの部屋の扉が閉まる音が響いた。

 俺は、急いで立ち上がり再度、覗き穴を見る。しかし会話の相手はすでに帰ったのか、そこには誰も居なく、閉まった扉だけが目に映る。


 非常識な奴の顔を一度拝んでおきたかった。一体どんな奴と会話しているのだろうか。タイミングを逃した俺はベッドに戻る。

 時計を見るとすでに夜中の2時を過ぎていた。


 毎日のように聞こえてくる、煙のように掴めない会話に半ばノイローゼになっていた。

 毎日、毎日、会話が聞こえてきては覗き穴を見る。それでも相手を確認する事が出来ない。 

 決まって夜中だ、近頃は眠りも浅くなっていた。


 今日も覗き穴から目を離した瞬間に扉が閉まる音が聞こえる。

 また覗き穴を見ても誰も居ない、静かな扉が映っているだけだ。

 まるでこちらの様子を分かっていて遊ばれているような気分だ。


 もう我慢ならない……俺は思い切って外に出てみた。まだ会話が終わって間もない、会話の相手がまだこのマンションに居るはずだ。

 しかし、上のフロアと下のフロアを探しても誰も居ない。それどころか、人の気配も感じられない。

 

 自分の部屋のフロアに戻り、向かいの部屋の扉の前に立つ。

 クレームを入れてやろうとインターホンを押した。ベルは鳴るが誰も出てこない。

 俺は何度もインターホンを押し続けた。睡眠不足からかもう、正常な判断が出来ていなかった。


「すいません!居ないんですか!?」


 ついには俺は扉を叩き、大声を張り上げ向かいの住人へ問い掛ける。


「おい!居るんだろ!出てこいよ!あんたの会話が気に触るんだよ!」


 もう正常な判断は出来なくなっていた。しかし反応は無く、静けさがフロアに広がる。扉に耳を付け中の様子を伺ったが人の気配しなかった。


 俺は無意識に隣りの部屋の覗き穴を覗いていた。もちろん外から中の様子は見えない。


 そして覗き穴から目を離した瞬間……


 太い針が覗き穴から突き出てきた。先端は狂ったように動いている。まるで生き物のように不気味に動く。

 扉と針はガチャガチャガチャと不快な音を立てて辺りに響いた。


 あと少し覗き穴から目を離すのが遅かったら確実に目を潰されていた。

 俺は恐怖でパニックになり扉の前に尻もちをつく。腰が抜けて立ち上がる事が出来ない。


 覗き穴の突き出た針はしばらく動き続けるとピタリと止まった。

 俺は動けないまま針の先端を見つめていた。


 すると……


「あはははははははは!あはは!あはははははははははははは!あはは!」


 狂ったような女の笑い声がフロアに響く。神経に突き刺さるような嫌な笑い声だ。

 女はしばらく笑い続けているとピタリと笑いを止めた……

 

 ドアノブがゆっくりと開く。


 俺の額から汗が流れ落ちてくる。


 錆びた鉄の音と共に扉が開く。


 俺の支える両腕が恐怖に震える。


 扉の隙間から光が溢れる。


 俺は動く事が出来ない……




 

 



 


 

 

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