第3話

11、『 患者 』


「これが、紹介状なんですが」

 そう言う垢ぬけない疲れ切った様子の年増女を目の前にして、神林は咄嗟に職業的な笑顔を満面に浮かべた。

「はい、お話は医療センターの○○先生からよおく聞いてますよ。奥さんも大変でしたね」

 すると、相手はようやくその久しく潤いを失くしているであろう顔面の緊張を心なしか緩めた。

「うちの亭主、何かとご迷惑をおかけしますけども、先生、どうかよろしくお願いいたします」

 神林はそれに応えて大きく頷いて見せた。診察室の奥で、先代の頃から働いている婦長がじっとこちらの様子を窺っている。やれやれ、また後で何やら言われそうだな。神林はわけもなく気を滅入らせた。

「ご心配要りませんよ。奥さんも適当に休んでくださいね。これからが本番なんだから」そう言って不自然にならない程度に相手の肩に右手を置く。

『患者ってのはな、身体の病気よりも、まず自分の気持ちに負けそうなもんなんだよ。医者はそれを気遣って初めて、一人前と云えるんだ』

 神林はふと亡父の口癖を思い出した。はいはい、父さん。あんたは本当に偉大でしたよ。長男の神林はその時急に子どもじみて、そう一人心に呟いた。

「それにしても先生、最近本当にお父さんに似てきらっしゃった」

 女が神林の不意を突くかのように言った。

「そうですか?」

 相好を崩して愛想よく返したつもりだが、きっと婦長は苦笑いしているだろう。全くどっちが院長だか分かりゃしない。「それじゃ、旦那さんの入院の手続き、済ませちゃいましょうか?ね、婦長」

「ええ。森田さん、こちらから事務所の方にどうぞ」

 婦長はこれまた職業的な、程よい愛想の良さで女を診察室から促した。神林はその何層にも肉の付いた背中を眺めながら、一度しか会った事がない婦長の息子のことを考えた。

 確か自分より五つ年下。本当か嘘か知らないが、堅物の亡父が婦長との不倫の結果、産ませた子どもとかどうとか…。

「まさか、な」

 神林はそう笑ってみて、もう随分前の、母親の引き攣った顔を思い出した。


『そんな、根も葉もない噂話…』

 高校生の頃、どこからか聞き仕入れてきた与太話を、面白半分に兄弟たちに話していた神林は、母親にいつになく厳しく叱られた。『あなたはお父さまに申し訳ないと思わないんですか?』

 長男の神林は物心ついてから、事ある度にそう母親から叱責された。母親の判断基準は常に院長である夫と、その後継者として相応しいか否か、その他にはなかった。もともと人と抗う性格ではなかった神林は、そのうちそれがこの開業医の家の長男に生まれた自分の、動かせざる運命なのだと思い知るようになった。

『お父さまはね、本当は大学に残って研究を続けるおつもりだったの』

 いつか母親はそう言った。『でも、おじいさまが急に亡くなられて…』

 なるほど、父さんもその実、人生の苦渋を背負ってきたということか。

 神林はあらためて、旧館のまだ板張りの床だった診療室に座っていた亡父の姿を思い浮かべた。四角い、骨ばった顔。いつもは陰気さの漂う雰囲気なのに、患者と話していると、時折何とも云えない子どもっぽい表情になった。『はい。じゃあ、ばあちゃん。お嫁さんとももう少し仲ようしてな』

亡父がそう言うと、診察の間じゅう愚痴をこぼしていた老女も、いつの間にか穏やかな口調に変わっていた。『はい。あれもあれで、心根が優しいところもありますんで』

そんな時の亡父はこれ以上ないくらい満足そうに微笑んで、患者の身体を片手でポン、と叩くのだった。


 父親は一体患者の何を看ていたのだろう?

 神林は父親譲りの白衣のすそを手でつまんでみる。父親は自分が医者の道に進むことも、家業を継ぐことにも何も口出しをしなかった。もちろんそれなりに出来のいい弟・妹たちがいたせいもあるだろうが、それにしても自分には全く干渉しなかった。それが自分には母親と対照的にきつかった時期もあった。

 母親が進行性の癌にかかった時、父親は自分のところではなく、あえて同じ町内のK病院に入院させた。そして忙しい合間を縫っては病室を訪れ、風采の上がらぬ姿を尚更小さくさせていた。

『お父さまはね、本当は研究を続けるおつもりだったの』

 意識を失くす前日まで母親はそう繰り返していた。家業を継ぐかどうか迷っていた自分は、「母さん、もう心配いらないからさ」と咄嗟に嘯いた。その時だ。母親が急に自分の頬に手を伸ばし、『お兄ちゃん、有難う』、そう言ったのだ。

 神林が家業に入った時も、特に父親は業務上の打ち合わせの他は何も言わず、代わりに自分が着ていた白衣をその場で脱いで息子に渡した。咄嗟にまごついた神林はそばにいた婦長の手を借りてその幾分丈の小さい白衣に手を通した。その時、父親は一瞬眩しそうに眼を細め、そして背中を向けた。

 父親が亡くなったのはそれから五年後だった。奇しくも母親と同じ病気で、父親は治療もほどほどに、できるだけ患者を看ることに時間を割いた。神林もそれを止めようとはしなかった。時に婦長から診察の時の様子を聞くことがあったが、むしろ遠方の兄弟たちからの苦情が多いくらいだった。

 神林が時折床に就いた父親に業務のことで話をする時、父親は『細かい事は婦長に任せておけばいい。お前は院長であること、そして医者であることを何より優先させるんだ』そう説き続けた。神林はそのどちらも正体を掴み切れぬまま、間もなく父親も病気で失うことになった。


 婦長が戻ってきた。

「森田さんの様子は?」

神林は声を掛ける。

「旦那さんの方ですか?」

婦長は聞いた。

「そう」

神林は頷く。

「今は眠ってらっしゃいますね。奥さんの方は一旦家に戻って、身の回りの物を取ってくるって」

「あとどれくらいかな、森田さん」

「医療センターからは何て?」

「いつも通りの詳細なデータの山。さしずめここは、末期医療の下請けって言わんばかりさ」

「シャンとしてくださいね、院長」

婦長は急に声を固くした。神林は待ってましたとばかり、背筋を伸ばす。

「分かってますよ。『医療の現場に上も下もない』、親父の口癖でしたから」

「『ただそこに、上と下の医者がいるだけだ』、そうも仰ってましたね」

 婦長はにこりともせず、言い添える。

 この人は果たして、この婦長としての顔以外にいつ戻るのだろう?神林はふと思った。

「婦長、息子さんお元気?」

「え?まあ、元気でやってると思いますよ。最近は連絡も寄こしませんけど」

「そう。頑張ってるんだ」

「どうだか。そのうち煙たがられて、私は老人ホーム行きですよ」

「でも婦長は、そこでも周りの世話、やり出しそうだね」

「しませんよ。『今度ばかりは』って楽させてもらいます」

 婦長は言い、神林は笑った。

「森田さん、あんまり苦しまないといいんだけどな」

「私の方からもお願いします」

「え、何で?」

 婦長の珍しい申し出に、神林は思わず尋ねた。

「同級生なんですよ、二人とも。あれでご主人は野球部のキャプテンで、若い頃はなかなかの二枚目だったんですよ」

 婦長は言った。

「奥さんはバレーボール部のキャプテンで。二人とも私なんかからしたら地元のスターみたいなものだったんです」

「そうなんだ」

「その後、結婚して。仕事も上手く行ってたのに、最初の子どもさんが事故でね」

「ああ、知ってるよ。新聞に載るくらいだったものな」

 神林は自分の古い記憶のページをめくった。

「相手は若い女で、子どもが飛び出したのに気づかなかった」


 インターホンが鳴って、婦長はそっちの方に意識を向けた。

「ちょっと行ってきます」

「はい」

 神林はそう応えて、もう一度机の上の資料に目を向けようとする。瞬間、その事故の翌朝のことが頭に浮かんできた。朝の食卓で、父親は一言、『人と人の出会いには、時としてこうも救いのない場合があるんだな』と言った。まだ小学生だった神林にはそれがただ難しい話にしか思えなかったが、今になってみると当時の父親は、今の自分と大して変わらない歳だったはずだ。


 神林は椅子から立ち上がり、背筋をもう一度伸ばした。少し早いが入院患者の回診を始めよう。その時、ふと診察室にある姿見に自分が映り、神林は一瞬どきりとした。

 結婚でもしてみるか。神林はそう呟いて、ひとり苦笑いした。




マリ ~「 道端 」


 確かトオルとか云った。小学生の頃、学校への道すがら、その男の子はよく地域の悪ガキたちから囃したてられていた。理由は何でもよかった。要は彼が知恵遅れで、何かと云うと奇声の混じった笑い方をし、何より世知辛い世の中に生まれた子どもたちにとって、彼はこの世とあの世の境界を想像させうる数少ない存在であったから。

私は彼のことがずっと怖かった。背が高く、それでいて普段はその身体を大きく捩って歩く姿は、まさに『異形の者』そのものだった。誰からかその名を『トオル』だと聞いた時、私の中で彼のイメージは決定された。それ以来私は彼の実家である自転車屋の前の道をなるべく通らないようにした。本当なら少し右足に難のある私には、ずいぶんな遠回りになるのだが、ほぼ毎朝登校中の私たちを監視するように道端に立つ彼が、もし後ろから追いかけてきたら、そう考えると幼い私は居ても経ってもいられない気持ちになった。

 あれから二十年足らず。私が帰郷してから初めて彼と再会した時、私は自分の中で時間の巻きネジがパツンと弾けるのを聞いた感がした。彼は昔の姿、そのままだった。同じ背格好、同じ服装、そして同じ仕草でそこに立っていた。私はタクシーから彼の姿を見かけた時、思わず隠れるようにシートに身を深く沈めた。そんなはずもないのに、何故か私は彼から今の自分の姿を見られるのが怖かったのだ。いや、むしろ恥ずかしかったのかも知れない。事情はともかく、故郷に逃げるようにして帰ってきた自分が。姿格好ばかりそれらしくなった半面、自分と云う拠り所を何処かに放っぽいて帰ってきた自分が。

 それから私が暇を見つけてはこの町の近辺を歩くようになって、時折彼、トオルとばったり会うことが多くなった。彼の姿は遠くからでもすぐに見分けがつく。右に左に、上に下に、彼の身体は謂わば自由自在に冷え込んだ町の風に乗りながら、不意に立ち止まると天を仰ぐような格好になった。私はその横を子どもの時以来緊張しながら通り過ぎた。少しして振り返ると、彼は依然その格好でそこに立っていた。私はふと自分の耳に何かが滑り込んでくるのが分かった。

 カーン、カーンという金属音。どこから聞こえてくるのか分からないそれは、気づいてみると町全体を包み込み、やがてそれを取り囲む山野ですら飛び越えてゆきそうだった。

 そうか。トオルはあの頃から、この音を聞き続けているのかも知れない。そう思った時、私は彼のことが何故か、怖くなくなった。




12、『 本屋 』


 健至がその店のガラス戸を開けると、中から見慣れた顔が一つ現れた。

「何だ、健坊か」

「こんちは」

 健至は挨拶する。

「珍しいな」

「叔父さん、元気?」

 健至はポケットに手を突っ込んだまま言った。

 相手の初老の男は、かけ慣れた老眼鏡を触りながら手元の帳面をごそごそと片づけ、手でこっちに座れと健至を誘った。

「何だ、今日は。今更『少年ジャンプ』でもなかろうに」

「あれ、今日水曜だっけ?」

「そうだよ」

「昔は毎週水曜が待ち遠しくてさ、学校が終わると走ってこの店まで来てたんだよね」

「今はもう水曜じゃないんだ、発売日」

「そうなの?」

「で、今日は何だ?」

「別に。叔父さんの顔を見に来ただけじゃ悪い?」

「気色悪い事言うな」

 健至はそれを聞いて思わず声に出して笑う。

「たまにはさ、本でも読んでみようと思ってね。真面目な話」

「どうしたんだ?お前がそう云うことを言いだす時は、大抵何かある時なんだ」

「本当に何もないよ。何も無さ過ぎて困ってるくらいだよ」

「若いもんが、仕様がないな」

 男は苦虫をつぶしたような顔で言った。

「ま、強いて云えば…」

「何?」

「今度見合い話があってさ」

「ほう」

「でもな…」

「何だ?」

「何か、いまいちと云うか」

「気が乗らないのか」

「いや、そうじゃないんだけど」

「じゃ、何だ」

 矢継ぎ早に問われて健至は何と返していいか分からなくなった。

「おじさん、見合いしたことある?」

「ないな」

「しようと思ったことは?」

「ない」

「結婚は?」

「お前さ、昔同じようなことを俺に聞いてなかったか?」

「あるかも」

 健至は同意した。

「嫌なら止めとけ」

 男は言った。

「母ちゃんが煩いんだよ」

「それがどうした」

「それがどうしたって、叔父さんの一応『姉さん』なんだからさ」

「『姉さん』と云うより、ほとんど『保護者』だったな、あの人は」

「まあね。歳離れてるもんね」

「口を開けば『あんた、もっとしっかりしなさい』だ。俺はみそっかすだったし、さっさとこんな町出ていくつもりだったけどな」

「出て行ったじゃない」

「でも帰ってきた」

「そう。どうして?」

 健至がそう聞いた時、学校帰りの小学生の二人連れが店の中に入ってきた。

「ノートとシャープペンシル、ください」

「あいよ」

 男は一応の客商売とばかりに立ち上がると、文房具のある一角でその女の子たちを相手に、あれこれ商品を並べ始めた。健至はその様子を見ながら、自分も同じ頃によくそうやって叔父の店を密かな隠れ家にしていたことを思い出した。やがて小学生二人組は目当ての物が決まったと見えて、小さい財布からそれぞれ札のお金を出して支払いを済ませ、何やらひそひそ話しながら店を出て行った。

「全く、女ってのはいろいろ細かいこと気にするから、めんどくさくて仕様がねえ」

 男はまた急に地の喋り方に戻って、元いた場所に座った。

「仕方ないでしょ。商売なんだから」

「言うじゃないか。そう云うところは死んだ父親に似てきたな。愛想無いわりに文句は一人前だ」

「叔父さん。うちのオヤジ、苦手だった?」

「あまり考えたこともなかったな。俺は若い頃から親戚中の鼻つまみ者だったし、お前の父親は真面目腐った性格だったしな」

「実際はそうでもなかったけど」

「まあ、酒と女にはだらしなかったな」

「でも時々話はしてたでしょ」

「そりゃ、一応な」

「あんまり叔父さんとうちの親父が一緒に何かしてたの、記憶がないんだよな」

「男同志ってのはそんなもんだろう」

「そう?」

「だと思うが」

 会話が途切れた。健至は仕方なく叔父の本屋兼文房具店の店内を見渡す。何だか昔よりすっきりした感じがする。前はもっと本棚と書籍が、埃と、何とも云い知れない如何わしさと共に、そこいらじゅうに積み上げてあった気がする。

「本、少し片づけた?」

「あ?ああ、売れねえもんをいつまでも置いてても仕方ないしな」

「なんだか、すっきりしちゃったね」

「変か?」

「そうじゃないけど、昔はもっとさ」

「お前さ…」

「何?」

「いや、いい」

「何よ?」

「いいよ。ほら、何か読むもの探してんだろ。どんなのがお前の好みなんだ?」

「そうだね、一応ミステリーとか…。」

 健至はそう言いつつ、改めて店内を見渡したが、どうしてだか急にその欲が萎んでいくのが分かった。

「…いや、やっぱ、いいわ。御免、叔父さん、今日はこれで」

「何だよ、お前急に」

「邪魔したね、また来るよ」

「ああ」

 男は健至の気まぐれに機嫌を損ねたのか、もう甥っ子の顔を見ようとはしなかった。健至はそのまま店を出て、車道脇の歩道をすたすた歩き始めた。車は近くのスーパーに停めてあった。せっかく半日暇になったのに、今日は何の当てどもない。スーパーまで戻ると、仕方なく中でパックの牛乳を一本買って、車中で飲んだ。開け口が破れていて、思いがけなく口元に牛乳がこぼれた。

「あ、くそ」

 健至はそう独りごちてから、誰かに見られなかったか外を見回したが、広々とし過ぎたスーパーの駐車場には、押し車で横断する中腰の老婆と、奇妙な動きで他を圧倒し続けるトオルの姿だけが遠くに見えた。











13、『 食堂 』


「おばさん、こんにちは」

 聞き慣れた女の声に本田安江は身体を起した。見ると相手は張惷花だった。その後ろでは同じ国の言葉がまるで競わんばかりに飛び交っている。

「今日は何にする?」

「昨日は肉だたから、今日は魚にしよかな」

「はいよ」

 この社内食堂でもう二十年以上働いている安江は、早速定食の魚料理の皿をカウンターに並べていく。今日はサヨリの焼魚と、青菜と刻んだてんぷらの煮つけ、それにじゃがいもの味噌汁だ。

「ありがとう」

 そう言ってトレーを抱えながら、仲間のいるテーブルに向かう張の小柄な背中を眺めながら、安江は「あの子、幾つだったっけ?」と考えてみる。確か二十四、五…。

 この吉田縫製では工場勤務の四割が、今や中国からの出稼ぎだ。彼女たちは実によく働く。日本に来るまではほとんど喋れなかった日本語も、半年の研修が済む頃には見違えるほどに上達している。それもほとんど例外なくだ。

「おばちゃん、俺、ハンバーグ」

 高校上がりの男の子が慣れ慣れしく注文する。

「あいよ」

「あ、ご飯、少なめにね」

「何で?いっぱい食べなさいよ。お腹すくよ」

「今、ダイエット中」

 安江は一瞬耳を疑う。ダイエットって…、それ以上痩せたら、それこそサヨリみたいになっちゃうじゃないか…。その言葉が安江の喉元まで出かかるが、あえて我慢する。今時の若いもんには何言っても無駄だ。ちっちゃい頃からビデオやゲームにばっかり慣れているから、目の前の相手の話にも『一期一会』を感じることができない。それどころか最近は暇さえあれば色とりどりのイヤホンをその両耳に押し込んでいる。こちらが気を使って大きな声で話そうともするものなら、「聞こえてますよ」とばかりに冷ややかな目を返してくる。

 いつの頃からか、安江は地元の者より、むしろ中国の出稼ぎたちの方に親近感を持つようになっている。そのことで同僚たちには時折からかわれるが、安江には自分でも不思議なくらい、彼らに対して近しいものを感じるのだ。


「それって、分かる気がするな」

 そう言ったのが他ならぬ社長だったので、安江は意外だった。十日ほど前のこと。

「彼らってさ、見てると『明日』ってもんを信じてるんだよ。根拠なんてないんだよ。でも、目の前のことに貪欲に取り組んでいれば、『今日よりは明日、明日より明後日』って、無邪気に思っていられるんだ」

 そう言われると、安江にも思い当るところがあった。何より彼らの表情は総じて明るい。そして抜け目がない。

「社長。給料の件、どうなったの?」

 安江は子どもの頃から知ってる三代目に聞いてみる。

「そう簡単にいくもんか。ここは日本だっちゅうの。そりゃ、彼らの労働力は当てにしてますけどね。それはそれ、これはこれ」

 そう社長は言い切ってから、「でさ、今度また人入れるから」

 唐突に話題を変えた。

 この三代目は、何かと云うと食堂に現れ、社内のあれこれを安江とあと二人の食堂職員に報告(?)していく。時にはまるで彼女らに何かを委ねるかのように。

「誰?」

「ほら、前、バイトで来てた俺の後輩」

 そう言われて、安江はいくつかの顔を思い浮かべた。

「戸田だよ、戸田」

 思い出した。他でもない、中学校の先輩の息子だ。確か顔は母親似だったが、バイトで来てた頃はどちらかと云うと暗めな印象だった。

「へえ、久し振りだね」

「また、いろいろ頼むよ」

 社長はそう言うと、さっさと食堂のテーブルの方へ足を向け、中国人たちの塊の中に入っていった。そういう物怖じしないところは天性のものなのだろう。何のかんの云っても彼は『シャチョウ』として確固たる存在感があるのだ。不意に輪の中から笑い声が上がった。

突然、安江の中にひらめくものがあった。そうか。思い出した。この感じ、あの頃と似てるんだ。


 安江は中学を出ると、一旦は大阪に集団就職した。もう盛りの頃は過ぎていたが、それでも安江たち若者はまだまだ社会に必要とされていた。膨大な仕事と、煩わしい人間関係、そして年齢に見合った青春…。考えてみれば立ち止まるのも惜しいほど賑やかだった。よく仲間と束になって遊び、話し、泣いた。時代は学生運動がまだ其処らじゅうを行き交っていたが、正直安江たちには縁遠く感じられた。大学に通える暇も金もある者たちの、それは一時のドまぐれにしか思えなかったのだ。そしていつしか、安江は同じ県人会で知り合った男と結婚し、地元に戻ってくることになった。

 

向こうのテーブルで、また笑い声が上がった。彼らはよく笑う。どうやら次の休みには皆で旅行の計画でもあるらしい。

「あの、日替わり、まだ残ってますか?」

 声の方を見ると、まだ着慣れぬのか、制服に着られた格好の三十男が立っていた。

「あるよ」

「じゃあ、それで」

男は戸田健至だった。一週間前、十数年ぶりに会った印象は、安江にとって想像通りでもあり、意外でもあった。いつも相手に距離を取っているのは昔のままだったが、外見は昔と違って亡くなったらしい父親によく似ていた。

 戸田は自分の分をトレーに乗せると、中国人たちと少し離れた窓際のテーブルに一人座った。すると先程の張惷花が何気に戸田の方を覗いているのが安江には分かった。何だろう?安江には、戸田が異国の女にモテるタイプには思えなかったが、張の視線にはそこはかとない熱を感じて気になった。そして昼休みももう終わりを告げ、食堂から社員たちが居なくなった頃になって、安江はまたハッとした。

 そうだった。戸田の父親は若かりし頃、細身でクールな、往年の青春映画スターによく似ていたのだ。

 安江は自分の発見に一人合点しながら、今度は大量にたまった洗い物の食器と格闘すべく、白い割烹着の袖を大きくたくし上げた。





























14、『 幽霊 』


 何故自分がここにいるのか、戸田守一には未だに思い当たるふしがない。

自分は死んだはずだ。それも最期はかなり苦しかった。もう病室のベッドに横になったきり、ピクリとも身体を動かせないにも拘わらず、その朝自分の心臓は突如跳ね始めた。呼吸のリズムがだんだんに上がってゆき、駆けつけた医者が腕に何かを注射したのは分かったが、それでも胸の鼓動は治まらなかった。地獄だな。一瞬、これまでの人生を振り返り、初めて己の恥を悔いる気持ちになりかけた矢先、目の前が暗くなった。遠くで女房の声が聞こえた気がした。

 ふと気がつくと、眼前に見飽きた田園風景が広がっていた。冷たさを感じ、足元を見た。裸足だ。腕を上げてみる。良かった。いつもの着慣れた作業用のシャツだ。守一はおそるおそる歩いてみる。何てことはない。生きてるときと同じだ。今度は周りを見回してみる。誰かこの状況を仕組んだやつはいないのか。しかし残念ながら誰も近くには見当たらなかった。ここはどこだ?考えてみて自分でも笑った。そこは田畑の中にぽつんと固まった、この辺に住む者たちが全員長ったらしい生涯の果てに行き着く先…、つまり墓場だ。実際自分のすぐ横には、見栄っ張りで有名な田中んところの真新しい墓石が、これ見よがしに立っている。さてさて、どうしたものか…。考えているところへ向こうから知った格好の人影がゆっくりこちらに向かって歩いてくる。女房のフジだ。

「おーい…」

そう言いかけて守一は思わず墓石の陰に隠れた。今、自分でも持て余しているこの事態を女房はどう思うか?おそらく卒倒して、それこそ御陀仏になりはしないか。守一はフジの性格を考えてみる。普段は無口だが、気が強いのは折り紙つき。それでいて情には脆く、また時にこちらが呆れるほど動転することがある。要は突っ張っているのだ。そして必要もないのに外見を取り繕って、いつも澄ましている。

 守一はふとはるか昔、フジと見合いした時のことを思い出した。確か農協横の会館二階だった。相手は町中にある本屋の長女。顔は知っていた。三つ違いだから学校で一緒になったことはなかったが、たまに本屋を覗くと店先にいた。誰の世話の見合いだったのだろう?自分から言い出した記憶はない。親も結婚をせっつく感じではなかったから、多分お節介な親戚筋からの話だったのだろう。見合いの席には当事者ふたりと、それぞれの親が一人ずつ、それも最初だけ同席していた。

「なら、オラたちは帰るからな」

そう言うと、自分たちが気まずいとばかりさっさと引き上げていった。仕方なく守一は重たそうなテーブルの向こうの女を見た。女は会った最初から自分を真っ直ぐに見たが、その視線はすぐに逸れた。守一はその様子が、店先に立つときの彼女と一緒だったので、思わずそのことを口にした。

「時々、店に出てますよね」

 女はこちらを一瞥してから、「親に店番を任されて」とだけ言った。恥じらいはなかった。

「たまにお店に行くことがあるんですよ。弟たちにせがまれて漫画本なんかをね」

「そうですか」

女の返事はやはり短く、素っ気なかった。守一は半分意地になって話を続けた。

「あなたも本はお好きですか?よく文庫本読んでますよね」

 そう言った時だった。

「読書は嫌いです。私、バレー部でしたから」

 女はきっぱりと言った。読書とバレーボールの繋がりもよく分からなかったが、何故女がそんな口ぶりになるのか、理解できなかった。守一は唖然とした。

 その場は結局小一時間ほどでお開きになった。途中から農協に勤める友人が仕出しを持って来てくれたところを、強引に席に付き合わせ間を持たせた。農協の駐車場で別れる時、女は一礼するとさっさとこちらに背中を向け歩き始めたので、守一はさすがにムッとした。

なんだ、あの女…。

それが長年連れ添うことになる女房、フジとの馴れ初めだった。

 後で分かったことだが、どうやらフジは自分と、本屋でしょっちゅう万引きしていた若い男と勘違いしていたらしい。見合い写真では分からず、その場での顔を見てハッとしたらしいが、当人の守一には悪びれるところもなく、かえってそれがフジの癪にさわったらしかった。家に戻ってから親に誤解を解かれた途端、フジは後悔と己の恥と共に居てもたってもいられなくなった。流石に縁はなかったと思っていた守一のところに連絡があったのは、それからまもなくのことだった。

 そして今、大儀そうに花と線香を片手に墓場に入ってきたフジを陰から見ながら、守一はまるで別人を見ている気持ちになる。あいつ老けたな。腰だってもう随分曲がってきている。俺が死んでそんなに生活が変わるわけはないから、それだけ時間が経ったということか?

 フジが先祖代々の墓の前に立つ。背中を丸めて、持ってきた花を墓前に活けているらしい。おい、今何年だ?オラが死んでどれだけ経った?守一は喉まで出掛かるが、寸でのところで踏み止まる。場所が場所だ。ここで出ていったら自分は完全な幽霊扱いされる。

 守一は一瞬思考を止める。幽霊?俺が?確かに場所はこれ以上無いくらいに合っている。でも何で?この世に未練なんてこれっぽっちもなかったのに。それどころか、闘病の煩わしさにこれ以上付き合うくらいなら、さっさと引導を渡してほしい。そう思っていたくらいなのに。

 フジは線香と蝋燭に火を点け、手を合わせ始めた。今日は風がなさそうだから、火は穏やかにゆらゆらと揺れている。それに引き換え守一の気持ちは激しく吹き荒んでいた。よりによって何でオラが…。次に考えたのは、これは何かのバツか、ということだった。確かに自分には生前胸を張れないこともいくつかあった。酒の上でロクでもない女と遊ぶのがその常套だったが、その度フジは逆上し、癇癪を起した。いくら後腐れない浮気だと説明しても、聞く耳を持たず、そのうち自分の方が手を上げることになった。

 こうやって一人残って、前より年取った女房を見ると、さすがに己れの不徳に思い当ってくる。しかし、わざわざそれを思い知らせるためにこんな手の入ったことをする必要もあるまい。地獄にでも何でも送ってくれたらいいのだ。守一はフジから目を離し、遠くの山の景色に目をやる。寒々とした空に深い緑の山々が続いている。

自分はもう、この景色に死ぬほど見飽いてしまったのだ…。

それまでずっとこの地に生きて、そんな思いになったことはなかった。それがあの時、自分は本当にそう思った。ここから消えてなくなりたい。一刻も早く。消えて土にでも還りたい。

それはいつのことだったか…。どうしても思い出せない。何故だ?

 墓参りを済ませたフジが振りかえってこちらの方を見た。しまった、気づかれたか。しかしフジは特に驚くふうでもなく、そのまま風呂敷を畳んで、また来た道を引き返し始めた。おい、ちょっと待て。守一はこのままでは堪らんとばかりに小走りにフジの後ろまで来た。その時彼の耳にフジの独り事が聞こえた。

「まだ、そっちに行く気はねえよ」

 守一は足を止めた。そして自分が本当にこっち側の人間になってしまったことをようやく飲み込んだ。途端に胸の中にまで寒々しい風が通り過ぎて行くのが分かった。

 あ~あ。どうしたもんだい…。近くにあった石の上にしゃがみ込んで途方に暮れかけた時、後ろで急に奇声が上がって守一は卒倒するほど驚いた。振りかえるとこの辺では有名な、変わりモンのトオルがこちらを曲がりくねった指で差しているのが分かった。その声は、相変わらず半分は何と言ってるのか分からなかったが、不思議と今の守一にはその意味が胸に伝わってきた。

「あんた、誰だ!!!!」

トオルはそう全身で問うていた。

 守一はうんざりした気持ちで「お前に言われたかあねえよ」

そう独りごちた。























15、『 忘れ物 』


小学三年生の祐輔は、真っ暗闇の中で布団を剥いだ。そして横で寝ている祖母を起さないようにゆっくり起き上がると、勉強部屋の方へ向かう。歩きながら祐輔は思う。これで今夜は三回目だ…。

祐輔は自分の部屋に入るとドアを閉め、ほっとひと息をつく。こんなことが母親に知れたら何と言われるか分からない。いや、言われるのはまだいい。きっと母親は必要以上に心配するだろう。「学校で何かあったの?」「先生から何か言われたの?」「お友だちは?」おそらくありとあらゆる質問を僕に投げかけてくるに違いない。でも、僕の答えは同じだ。「何でもないよ、ママ」

そう返した時の母親の顔を見る瞬間が、僕には一番しびあな時間だ。

「それって、しびあだなあ」

最近教室でみんなが使う言葉。三田先生が何かに怒ってキレまくった時。散々注意されていたのに、山本麗華が忘れ物をした時。突然知らせが来て、校長先生が一緒に給食を食べることになった時。そして僕にとっての…、今?

祐輔は自分の机までくると、スタンドの明りを点ける。そしてランドセルの蓋を開け、中身を調べ始める。

「明日は水曜日…」

蓋の裏側にはその週の時間割が入れ込んである。つい一時間前にもやった作業だから、手順はこなれている。それに毎晩のことだから。

自分がこの深夜の作業を繰り返すようになったきっかけを、祐輔は思い出せない。気がついたら止められなくなっていた。それまで祐輔は夜寝る前に一、二度、忘れ物を確認することはあった。それが三度、四度…、今では五度確認しても心配で仕方がない夜がある。

自分でも「馬鹿なことをしてるなぁ」と思う。「僕って変だなぁ」とも思う。でも止められない。どうしても。

そのうち僕は一晩中、この作業を繰り返すことになるのだろうか?祐輔は教科書、ノートの束をランドセルに戻しながら思う。だったら、きっと僕は悪魔か何かに取り憑かれているに違いない。そうに違いない。そう思った時、自然と祐輔の身体は震えてきて、目には涙がにじんでくる。僕は多分、お父さんのところへ行くんだ…。

「何してるんだい、祐一」

後ろから急に声をかけられて、祐輔は驚いた。祖母だった。

「祐一、勉強はもうそれくらいにして、おやすみ」

祖母は言った。

「お祖母ちゃん、僕、祐輔だよ」

祐輔は一応言ってみる。祖母はもうしばらく前からちほうなのだ。最初はたまにだったのが、だんだんと回数が多くなってきて、今ではもうすっかり祐輔と亡くなった父親を取り違えている。

 お祖母ちゃんも止められなくなったのかなぁ。祐輔はスタンドを消し、祖母の方に寄っていく。

「もう終わったよ、お祖母ちゃん。忘れ物がないか、確認してたんだ」

 祐輔がそう言うと、祖母は

「そうかい。じゃあ、早く寝ようね」

 そう言って、再び寝床のある方へ歩いていく。祐輔もまた布団にもぐり込みながら、ふと最近忘れかけている父親の顔を思い出そうとする。目の形、大きさ。鼻の位置、太かった眉毛…。一つ一つを丁寧に確認してみる。良かった、まだしっかり思い出せそうだ。

 そうこうしているうちに祐輔の瞼は重くなり、やがてゆっくり閉じられていく。

「おい、祐輔。元気か」

 いつしか、遠くで父親の大きな声が聞こえたような気がした。

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『 水彩 ~ watercolors ~ 』 桂英太郎 @0348

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