第2話
6、『 面影 』
戸田昌代は甥っ子の携帯に電話をかけている。三回、五回、七回…。呼び出しが十回を越えたら、小言の一つでも言ってやろう。そう思った瞬間相手が出た。
「はい、健至です」
「私、おばちゃん」
昌代は明るく言う。
「どうも」
電話口で口をすぼめる甥っ子の顔が思い浮かぶ。
「例の件、どうなった?お見合い」
「…僕はいいですけど」
「そう。良かった」
「でも、相手の人ってまだ二十代なんでしょ。話、合うかなあ」
「そんなことはどうにでもなるのよ。あんたがその気になってさえくれれば」
本心だった。
「お母さんは何か言ってる?」
「いえ。むしろ尻叩かれて大変ですよ」
「ほら、だから言ったでしょ。心配しているのよ、義姉さんも」
そういえば最近の義姉はずいぶん老け込んで見える。
「遠い親戚って本当ですか?」甥っ子が聞いた。
「そう。私の従姉妹の娘。あなたは会ったことないでしょうね」
「家のオヤジは親戚付き合い、苦手でしたから」
「そうだったわね」
ふと亡き兄の顔が浮かんだ。苦虫を潰したような、無愛想を絵に描いたような顔。
昌代が東京から戻ってきたのは五年前。三十年振りの帰郷で最寄りの駅に降り立ったとき、故郷のあまりの代わり映えの無さに、一瞬めまいを覚えた。
「何しに帰ってきた」
三十年振りの兄の言葉は短かった。それを聞いて初めて自分の人生を振り返った気がする。高校卒業してすぐに知り合った男と駆け落ち。実家とはその後何度か手紙のやり取りはあったが、住所を転々としているうち自然と自分から止めてしまった。そうしていつの間にか一時の隠れ家のつもりだった東京が、自分の寄る辺なき住処になっていた。
「親の死に目にも顔出さんで」
兄はそう言ったが、出されて一番困るのは兄自身だったろう。男に逃げられ、孕んだ子どもも幼稚園に上がる前に事故で亡くしてしまった。その全部を私は一人で生きてきた。たとえ兄に「恥さらし」と称されても。
暗い玄関口で立ち尽くしていたとき、
「おばちゃん」
若い男が立っていた。それが赤ん坊の時以来久方ぶりの甥、健至だった。
最近会う度に甥っ子は、体つきまで兄に似てくるようだ。そんな時、昌代はふと思う。兄は本当に望んだ結婚生活、いや人生を生きたのだろうか、と。もちろん義姉にそんなことを話したことはない。話せない。しかし私が送っていた三十年は、もしかしたら兄自身が選びたかった人生なのかもしれない。何故かふとそう思うことがある。
「男はね、やっぱり所帯を持たないとね」
言ってみて、自分が矛盾していると思う。
「そうかなあ」
甥っ子はどこまでも他人事のようだ。
「そう言ってるうちに年だけ取っちゃうのよ」
「まあ、そうかもしれませんけど」
「じゃあ、いいわね。先方にも伝えとくわよ」
最後の念押し。
「はい、お願いします」
電話は切れた。携帯を二つ折にして手元にしまう。さて、あとはあの娘の方か…。昌代はバッグの中から煙草を出して火を付けようとする。最近やたら重くなった百円ライターの擦りボタンを何度か試してみるが、なかなか火が点かない。半分意地になって繰り返していると、不意にチョロチョロとした炎が点った。私だってまだまだ。
戸田昌代は煙草の煙を胸一杯吸い込んだ。
マリ ~『 連なり 』
いつからか自分は田園の中を彷徨うのが日課になっている。さっきから野良犬が付かず離れず付いてくる。動物を飼ったことなんて子どもの時以来久しくなかった。今更懐かれる謂れもなかろうに…。だからこの田舎道を構わず歩く。
今日は晴れたので薄着で来たが、さすがに午後ともなるとうすら寒い。田と田の間を走るコンクリのあぜ道は、こうやって見ると周囲の風景から浮き上がって、尚更寒々しさを感じさせる。
親に見合いを勧められたのは六日前のこと。今になって親が自分に何かを勧めてくるなんて思ってもみなかったし、親の方でも娘がそれを受けるとはよもや思っていなかったろう。別に家にひきこもりたいわけではない。これから先ずっと一人っきりの生活を送りたいわけでもない。ただ、そういう人生の踊り場にひょいと出てしまっただけ。ずっとそう思っていた。しかしどうも田舎暮らしの親たちにはそうは見えなかったらしい。想像だにしなかったと云ってもいいかもしれない。だんだんと、それでいて執拗に再就職と結婚の二者選択を迫られたが、自分の踊り場からは縁遠く感じられた。
高校・短大を出て、都会とまではいかなくても程々の地方都市で数年働いた。仕事はやり甲斐があり、自分でも面白味を感じていたが、その職場の公私混同の雰囲気にどうにも馴染めなかった。入社当初「家庭的」と感じていたものは、結局「馴れ合い」でしかなかったのか?事実子供の頃親たちからよく聞かされた「世の中はお前が思うほどあまくない」の箴言は、その頃には皮肉としか受け取れなくなっていた。
最終的には上司から関係を迫られた。男とは、あるいは大人とはこんなにも狡猾なものか。そう思えるほど拒絶の後の仕打ちは何とも女々しいものだった。そして周囲の曖昧かつ徹底した無関心にも心底辟易し、
「これはこれ。それはそれ」
そう自分に言い聞かせながら仕事を続けていたとき、取引先の女性に「最近頑張ってるね」と声を掛けられ、その場で泣き崩れた。多分その時だろう。人生の踊り場に出てしまったのは…。
このあぜ道はどこまで続くのだろう。今度会う男の人の家も近くらしい。親にも秘密にしていた自分の大人の事情を、相手に分かってもらおうとはさらさら思っていない。では何故、自分は見合い話なんか受けたのか?
もう少し歩いてみようと思う。この一年で世間のしがらみとは距離が取れている。道の向こうに濃い緑の山々が連なっているのが見える。不意に正体不明の懐かしさが胸の奥を突く。
「何?」
そばの墓地で中年過ぎの女が掃除がてら墓参りしているのが見えた。自分もいずれはそこに行き着くのか。そう思ってまた歩き出した。
7、『 晩酌 』
「お前、工場で働く気ないか?」
そう言ったのは中学校までの部活の先輩、吉田だった。今朝コンビニのシフトに入っていた時、カウンターで「今夜空いてるか?」と500ミリの紙パック牛乳と共に、その提案は不意に差し出された。
「別に、いいっすよ」健至はそう言ったが、吉田はそれを丸ごとの『OK』としてしか受け取らない。昔からそうだ。表面の温和さとは裏腹に、強引で偏執なところがある男だった。
誘い出されて寄るのはいつもの居酒屋「宵街(よいまち)」だ。主人は四十手前の全くの他所者だが、おかみは吉田の一番目の妹。で、自然とそこは吉田との溜まり場になる。今日は他に、教職員数人の客が自称無礼講の怪気炎を上げているようだ。
「工場って、先輩のところでですか?」
「他にないだろ、この町には」
「まあ、そうですけど。でもいつか就職頼んだ時、『人手は足りてる』ってあっさり振ったじゃないですか、僕のこと」
「馬鹿。いつの話してんだよ、お前は」
「つい二年前のことですよ」
「状況が違うんだよ、状況が」
「何か、あったんですか?」
「うちの縫製工場、中国人多いだろ」
「ええ」
「そいつらの何人かが、急に『故郷に帰る』って言い出してよ。それも週明けの朝礼の最中にだ」
「あららら」
「で、事を質したら故郷の村が昨今の開発景気で、人手がいくらあっても足りないんだと」
「それで先輩は何て?」
「そりゃ『うちでも足りない』って言って聞かせたさ。そしたら今度は『給料上げてくれ』ってさ。冗談じゃないよ。『それが簡単ならお前らなんか雇うもんか』」
「言ってやったんですか?」
「いや」
「どうして?」
「馬鹿。俺は経営者だぞ。そん時の気持ちだけで動くわけないだろ」
そうして吉田はコップの焼酎を軽々とあおった。「で、お前の出番だ」
「出番って…。急に言われてもなあ。コンビニもあるし、うちの田んぼだって」
「マルオには俺が話をつける。休みもちゃんとやる。『吉田縫製』の三代目が言ってるんだ。信用しろ」
「いつからですか?」
「明日」
「え~。そりゃいくら何でも無茶ですよ。行ったって何の役にも立ちませんよ」
「いや、お前には学生時代、うちのバイトで培った才能がある」
「それ、いつの話ですか」
「かれこれ二十年前か」
「もう…。先輩、言ってることホント無茶苦茶なんですから」
「馬鹿野郎。日本の中小企業の経営者はな、国と社会の無茶ブリに翻弄されながら、それでも命からがら生きてんだ。お前、その年で百姓とコンビニのかけもちやってて、そんなことも分からんのか?」
そこまで言われると、流石に健至も多少ムッとした顔になる。
「いいですよ。やればいいんでしょ」
「そうだよ」
吉田は満足そうに頷く。「俺はな、ひとつお前のいいところを知っている。何だか分かるか?」
「いえ」
「お前が金に無頓着ということだ」
「は?」
「このご時世、自分の仕事を決めるのに、金に執着しない人間は珍しい。天然モノだ」
「それってやっぱり馬鹿にしてないスか?」
「違う」
「でも」
「いいか、裏を返せばお前は損得ナシで動ける人間だということだ。それは意外と大きいぞ、健至」
「そうかなあ」
さきほどからの二人のやり取りを、カウンターの奥からおかみが見て笑っている。健至もそれには気づいているが、それには目を向けないようにしている。
「健至、俺が言いたいのはな、『俺はお前を買っている』ということだ」
「はい、それは分かってます」
「そうか。ならこの話は決まりだ。いいな」
「…はい」
健至は自分の見合いのことを吉田には言っていない。言いそびれたのもあるが、何故か話す気になれなかった。
「ホント、いつもすみませんね。お兄ちゃんの我儘に付き合ってもらって」
おかみが表に出てきて酌を取ってくれる。当の吉田は酔いが回ってきたのか、幾分トロンとした目で肴を箸でつついている。
「ああ、どうもすみません」
ぶつぶつ言いながら健至は初めておかみと目を合わせる。変わらない端正な顔のつくり。昔から上背こそ無かったが、割烹着を着た今のその姿は、かえって落ち着いた佇まいに似合っている。大人だなあ。健至はこのおかみを見ているといつもそう思う。
中学の時の一年上。その頃自分はバスケで三年の吉田のシゴキに息を切らせては、体育館の冷たい床にしょっちゅう倒れ込んでいた。そんな時、傍らのコートでは彼女が颯爽とバレーボールのセッターの任を務めていた。そのリズミカルな動作と立ち姿は出しゃばるでもなく、それでいてチームの要としての確固たる存在感があり、事実女子バレー部は彼女の絶妙のアシストで、その年、翌年と県大会まで飛躍したのだ。時折お互いのボールがコートに流れてきた時、半ば儀礼的に挨拶を交わしボールを相手方に返したが、彼女は自分の兄の手前か、いつも自分らを気遣うように他の者より丁寧に頭を下げた。そう、彼女はあの頃からすでに大人だった…。
「おい、聞いてんのか?」
だいぶ酔った吉田が不意に声をかける。
「はい、聞いてますよ」
健至はごく自然に取り繕う。
「お前もいい年なんだ。そろそろ身を固めてさ…」
「ちょっと、お兄ちゃん」
さり気なくおかみがたしなめる。
健至は苦笑いしながら、仕方なく店主のまな板の所作を眺める。リズミカルで無駄のない所作。長い修行で鍛えられた、それが職人の技なのだろう。その脇でおかみが出来上がった料理を一つ一つ膳に乗せていく。ふと健至は自分の凹凸のない手を見た。
「すみません。最近お酒弱くなっちゃって。自宅で飲めない分ここで好きなだけ飲んでいくんですから」
眠り始めた吉田の脇をかすめながら、おかみが言う。
「先輩、家では飲まないんだ」
「ほら、まだ子どもが小さいでしょう。奥さんが嫌うんですよ」
「へ~、先輩意外と尻に敷かれてるんですね」
健至は笑う。
「ええ、この人本当に口ばっかりなんですから」
おかみも笑う。「健至さんたちが周りに居てくれるんで、どうにかこうにかやってられるんですよ」
そう言われると健至も満更ではない気分になる。そういえば先輩の横顔にもいつの間にか深い皺が浮かんでいる。
「また明日からお世話になります」
健至はおかみでも、眠りこけた吉田にでもなく言って、残ったビールを一気に飲み干す。その時、教職員客の一人が酔炎を上げ始め、おかみがそれとなく取り成しに入るのが、健至の横目に入った。
8、『 夜景 』
健太がここにやってくるのは気がつけば小学校以来だ。その時は確か、ここから遥か向こうに見える夏の花火を、母親と二人見に来たような気がする。
それまでは毎年必ず、両親連れだって夕どきから仕合えて出かけて行ったものだった。会場となる地元高校の運動場は、その日ばかりは町中の人間でごった返し、さしずめ地縁知己の坩堝と化す。健太は何よりも花火が好きだった。祭りのクライマックスで大玉が連続して上がる頃、その光と音のタイムラグが健太の頭の真上で炸裂するとき、健太が恐怖とともにこの上ない恍惚を感じたのは、他でもない自分の両脇に大いなる安心が控えていたからに他ならなかった。
それがあの年からはパッタリと止んでしまった。まるで花火が全て打ち上がった後の、気だるい静寂のように。
「木本、どうしたん?」
玉恵に声を掛けられて健太は我に返る。
「別に。何もないよ」
そう言いはしたが、頭の中ではまだ切ない静寂が続いている。
「よくここ通るの?」
そう言われて、健太は父親が「女ってのは質問ばかりする生き物だ」とよく言っていたのを思い出した。そしてあらためて、通りがかった峠の路上で偶然出くわした同級生の、見慣れた横顔を見る。
「いや、何年ぶりかな。ここほとんど通らないんだ。家には近いけど、坂急だし」
「そうやね。私もたまにしか通らん」
もう学校帰りの夕暮れともあって、遠くの民家にはちらほら明かりも見える。最近めっきり寒くもなってきた。玉恵の白い頬もいつもより紅潮している気がする。
「今日進路指導室の山口から聞かれたやろ」
「ああ」
「何て答えた?」
「『就職します』ってだけ」
「木本、就職すんの?」
「うん、多分な」
「どうして?」
「どうしてって。働かにゃ生きていけんやろ」
「そりゃそうやろうけど。木本頭良いやろ、大学行かんの?」
同じことを校内で風采の上がらないことで有名な、山口という教師から言われたことを思い出した。その時はまるで他人事に聞こえた。それから「木本、何か夢はないんか?」とも。
「山口がさ、『お前の夢は?』って聞くんだよ。あれ言われると正直うんざりするんだよな。『お前が言うな』って気もするし」
「はは、そうやね。聞いた?山口先生、この前も見合いの話が出たんだって」
「へえ、誰と?」
「さあ。珍しく本人も乗り気だったけど、結局会う前に向こうから断られたって」
「あらら、残念」
「そう。だけど山口ってさ、痩せぎすで真面目で、冗談もあんまり通じないけど、意外と人気あるんだよね」
「まあ、そうかな」
「先生たちもさ、早く結婚させて落ち着かせたいみたい」
「教頭だろ。いつも話持ってくるのは?」
「なんで知ってるの?」
「頭上がんないんだろ。いつか山口がぼやいてた。『オレ、まだ結婚なんてなぁ』って」
「そうなんだ」
話してるうちに日がどんどん落ちてくる。健太はぶるっと身を一度震わせてから言う。
「おい、もう行こうぜ。ここ寒いよ」
「うん」
玉恵はそう応えると自転車のハンドルを持ち直し、マフラーを口元に寄せた。「でもさ…」
「あ?」
「一度考えてみた方がいい」
「うん、そうだな。山口みたいな奴は結婚したらいい旦那になるかもな」
「そうじゃなくて、木本のことだよ。大学」
「ああ、それか」
「…ほんとに木本って欲がないんだから」
「親にも言われる」
「人生って一度しかないんだからさ、ちゃんと考えないとね」
「あのさ、お前もおばさんに似てきたね。口癖まで一緒だ」
健太が笑うと、玉恵は急にその白い頬を膨らませて自転車にまたがった。
「幼馴染のよしみでしょ。じゃあね」
「ああ」
健太は颯爽と坂を下りていく玉恵の背中を見ながら、彼女が小四で転校してきた時の姿を思い出す。祖父母がもともと中国に住んでいたらしく、玉恵もどことなく異国の大陸の面影があった。それが今やお互いに高三なのだ。時間が経った。自転車の影はそのうち宵闇に紛れて見えなくなっていた。
「夢とか人生とか言われてもねえ」
そう健太はテレビタレントの口真似をしてみてから、ふとまた峠から見える遠景に目をやる。またしばらくここは通らないだろう。今度来るときは多分ずっと先だ。そう思って歩き出した時、どこからか「どおん」という花火のような音がして、健太は思わず目をつむった。
「何だ?」
しかしそこにはつい先ほどのさして変わらない、故郷の夜景だけがあった。
9、『 うわさ 』
「おめぇ、見合いすんだって?」
コンビニのレジ前でいきなりそう切り出したのは、一応『常連客』の益岡のじいさんだ。一応というのは、何かというと長話、由ないイチャモン、その相手すらいなくなると店内外をあてどなく徘徊したりと、はっきり言って『迷惑客』に他ならないこのじいさんが、元々この辺の地主出身とあって、誰ともなく一目を置かざるをえない空気がまだこの近辺には漂っているからで(というよりまともに相手すること自体、面倒かつ骨が折れるのだが…)、店ではまだかろうじて『お客さま』の範疇で収まっている。
「ええ、そうですけど」
健至は警戒心をフル稼働させて応答する。このじいさん、何が癇癪のスイッチになるか分かんないからな…。
「ふうん…。誰の世話だ?」
「え?まあ、知り合いですけど」
当たり障りなく、それでいて嘘もない程度で健至は返す。この塩梅と愛想笑いの加減が何気に難しい。
「どうせ、お前んところの出戻り『昌』だろう」
さすがに身内を揶揄されると内心カッとする。このじいさん、これで一時は役場に勤めていたというから田舎は怖い。健至は小さく咳払いする。
「それが何か?」
「おめえ、知ってんのか?」
「何をです?」
健至がそう返すと、益岡のじいさんは予想に反して健至を憐れむように赤い淀んだ目を凝らした。
「相手は藤城んところの娘っ子だろ?あれ、ちょっと変わってんぞ。大丈夫か?」
そう言われて健至も素で困惑する。変わってる?この人から見て『変わってる』とは、どっちの方のことになるんだろう?
「へえ、そうなんですか。いやあ、まだ見合いも話だけだから」
無難に返しておくに限る。
「ふん、おめえらは本当にバカだな」
すると益岡のじいさんは一転して、憎々しげに顔を歪ませる。「何も分かっちゃいねえ。あの娘は何しでかすか分からねえ不埒モンだ。せいぜい用心しとけ」
そう言うとじいさんは焼酎の入ったビニル袋をひったくるようにしてカウンターを離れ、真っすぐに玄関から外へと出ていった。その勢いに唖然として、健至はしばらくそのままの格好でじいさんの後ろ姿を見送る。スイッチ、押しちゃったか…。
「何だろうね、あの人」
同僚の山口さんが声をかけてくる。「あの人、本当に癪に障ることばっかり言うんだから」
五十女に似合わずその鼻息は若者のように荒い。それとも単に肥満のせいか?
健至は苦笑いで返事する。
「そう云えば戸田君」
「はい?」
「さっきの話。見合いの相手」
「ああ、藤城さんのところの…、山口さん知ってるの?」
「知ってるも何も、昌ちゃんに紹介したの、私だもん」
「え、そうなんですか?」
初耳だった。全く…、何が『可愛い甥っ子の為』だ。叔母のなにかと話を演出する癖には時折辟易する。蓋を開ければ何てことはない。出どころはこの狭いカウンターの中だ。
「私、昌ちゃんとは同級生だからね。それに藤城さんのところとは親同士が教員仲間だったんよ」
「ああそう云えば、山口さんの甥っ子さんもスイコー(県立水穂商業高校)の先生だったよね」
「それそれ。あんたには悪いんだけど、本当はね、先にその甥っ子に話振ったわけさ。あそこの教頭にも話通してね」
どうして田舎の年増女は、体型に似合わずこう段取りの小回りが利くのだろう。ここまでくると呆れると云うより尊敬に値する。健至はむしろ、同世代らしいその甥っ子の高校教師に同情したい気持ちになる。
その手間暇をコンビニの仕事にも活かせばいいのに…。密かにそう思っていると、店内放送で十一時の時報が鳴った。健至はすかさずタバコの補充をチェックする。今日木曜はたばこの入荷がある。
「案の定断れずに甥っ子も見合いすることになったんだけどさ、ところがよ、当日の二日前に突然先方から『止めにしたい』って。ほら、こういうの今時の人は何て言うんだっけ?」
相手は尚も話を続けたそうだ。
「…『ドタキャン』、ですか」
「そう、その『ドタキャン』よ。こっちも慌てちゃってね。理由聞いてもはっきりしたことは言ってくれないし、そのうちこっちも面倒になってね。やめちゃったのよ」
「へえ」
「そしたらね、昌ちゃんが戸田君にどうかって」
「あー、それで」
健至は自分の中で何かが急に色褪せていくのを感じる。何だ、この感じ?
「わざと黙ってたわけじゃないけど、気に障った?」
「いやー、全然。僕もおばさんから言われて形だけ、ですから」
「そう?だったらいいんだけど。そう云えばね、一度は店長にも推そうかなって思ってたのよ」
山口さんは可笑しそうに口を手で押さえた。「でも見合いが上手くいかなかったら私の時給、減らされちゃったりして」
「ありえますね」
健至はすかさずそう返したが、マルオの泣き笑いの顔がちらついてうまく笑えない。
「あ、僕ね。今度シフト減っちゃうかも」
「えー、どうして?」
「先輩のところの工場を手伝わなきゃいけなくなったんですよ。どうにかなるって思ったんだけど、やっぱり身体きつくて」
「私、戸田くんとが一番気が楽なんだけどな~」
気が、じゃなくて、単に手を抜けるからでしょ。健至から思わずそんな憎まれ口が出そうになった時、外から奇声が聞こえてきた。やれやれ、きっとまたあのじいさんだ。駐車場で誰かと揉めでもしたのだろう。いつものことだ。でも今日はマルオがフランチャイズの会議でいないから、シフト店員のどちらかが対応しなければらない。山口さんは急に引き攣った顔になって、途端にどうでもいい作業に取り掛かろうとする。
「僕、ちょっと見てきますよ。山口さん、カウンターお願いね」
健至はそう言うと、いつものはうんざりする面倒事に不思議と軽い足取りで向かっていった。
10、『 あぜ道 』
橋本がその姿を見かけたのは、土曜の畑仕事の折りだった。鍬で畔わきの泥をかいていた時、ふと腰を伸ばそうと上体を上げると、連なる田園風景の向こうに一人の歩き姿を見かけた。長年高校の国語教師をやっている橋本には、遠くに見える子どもたちをじっと観察する癖がある。そうすると顔を突き合わせている時とはまた別の、相手の素顔が遠く垣間見える。むしろその方が相手の懐に近づける気がする。橋本にはそう思えるのだ。
「あれ?」
橋本がそう思ったのは、その歩く人影に馴染みの癖を見たからだった。橋本は年の割には良い目をぐっと凝らし、やがてその相手の名に思い当った。
「おーい」
思わずそちらの方に手を振ってみて、しかしそのすぐ後に橋本は自分の軽率さにあきれた。藤城マリ。橋本が以前勤めていた高校の教え子の一人。確か写真部の部長を務めていたこともある。そう云えば教え子仲間から噂を聞いたばかりだった。就職先で何かあったとかどうとか。そのせいなのか今は変人らしき様相で、実家近辺をうろつき回っているとかどうとか。
とは云うものの、そもそも橋本は噂話が嫌いだった。教職をやってきて、噂話の虚飾と猛威に辟易とさせられることはしょっちゅうだった。何よりそれで傷つくのは結局子どもたち。そのくせ噂話には責任の所在が判然としない。そのことで各人の心の重しは尚更耐えがたいものになる。加害者も被害者もそんなことは重々承知しているはずなのに、それでも何処からともなく聞こえてくるのが噂話、なのだ。
「おーい」
橋本はもう一度声を掛ける。どうやら向こうもこちらに気づいたようだった。しかし相手は頭ひとつ下げると、そのまま踵を返してまた歩き始めた。右足を小さく引き摺る癖。確かにあの娘だ。噂はどうやら全くの出鱈目と云うわけでもないらしい。橋本は足元の土くれを長靴でゴスゴス踏み砕くと、もう米粒ほどになった元教え子の後ろ姿を見送り、やおら鍬を握り直した。
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