『 水彩 ~ watercolors ~ 』
桂英太郎
第1話
プロローグ 『 素描 』
かすかな音が響いている。静まりかえった元牛舎の中。聞き逸らせばそのままどこかに行ってしまいそうな音なのに、何故か健至には気になった。耳を澄ませる。スン、と意識が別物に変わるのが分かる。川の音か?それとも遠くで哭くケモノの声か?
健至の中にここいら一帯の風景が風のように舞い込む。やがて健至は目を開いた。もう何も感じられない。やはり通り過ぎてしまった。あとは午後のやりきれない空虚さがそこいらに残るばかり。ただ、遠くで正体不明の金属音が木霊する。
1、『 日曜の小言 』
「お前は一体、何がしたいんだ?」もう初老と云ってもいい母親は訊いた。このところ身体が思うようにならない分、口先だけで三十路過ぎの息子を動かそうとする。どだい無理な話。
「何喋ってんだ?」
健至は長靴の泥をもう片方の靴底でこさぎながら言う。
「だから、お前はこれからどうすんだって言ってんだ」
母親は尚もムキになる。健至はとにかく話を受けまいと、上り口から家の奥へ入ろうとする。
「向こうさんは『是非』って言ってあんだぞ。これまでこんな話はなかったろ」
「『こんな話』だから考えさせてくれって言ってるんだ」
「何がよ?」
何がって…。健至は台所の冷蔵庫の前で目的のない歩みを止めると、今しがたの自分の言葉に逡巡する。
それにしても…。このまま半分耄碌しかけた母親と背中越しに言い合うか、それともダンマリを決め込むか。
不意に、たまにやってくる幼馴染の康子の言葉が蘇った。
「たった一人の肉親だよ。もうちょっと優しくしてあげなん」
いつも生活用品の配達やら母親の話し相手やら少なからず世話になってる分、日頃康子に文句を言うつもりは毛頭ない。お互い物心つく前からの間柄で、それ以上突っ込んでも来ない康子の気配りにも、健至は密かに感謝しているくらいだ。
「いっそ康子ちゃんをもらっとけばよかったんだ」
母親からの言葉を背に、健至は思わずカッとなる。
「そんなこと言ったって仕様がないだろうよ」
「お前はいつもそうなんだ。何のかんの理屈言っちゃ、結局何もしない。動かない。それじゃ何も捌けねえよ」
「また始まった…。オラ、母ちゃんの精神論聞いてるほど暇じゃないんだよ」
「探しもんか?」
「ああ、役場に出す紙」
嘘だ。それならもう何日も前からせっつかれて、ズボンのポケットに丸めてある。明日役場に出すだけだ。
「ほら、言わんこっちゃねえ。オメエはそんなことひとつ、オラがいねえとダメなんだ」
母親はここぞとばかり、書類の入った奥箪笥のある暗がりの方へと入っていく。今のうちだ。さっさと車に乗って堤下の畑に行こう。あそこも早く済ませないと、もう休みが無くなってしまう。健至はまるで子どものように玄関に飛び降りると、ゴム長靴をギシギシ鳴らしながら軽トラックのドアを開ける。今日はもったいないくらいの良い天気だ。家の奥ではまだ母親が探し回っているのが分かる。
「七時には帰るから」
健至はそっちの方に大きな声を掛けてから、エンジンキーをこれ見よがしに回した。
2、『 幼馴染 』
「マルオ」
「だから…、店長って呼べって」
コンビニ脇の喫煙スペース。瀬本将雄は顔だけ振り向いて、幼馴染兼バイト店員の戸田健至に言う。お互い、どう見てもコンビニチェーンの制服が似合っていない。
「あ、ゴメン」
「で、何だって?」
「シフトの話」
「シフトがどうしたよ?」
「俺の分、もう少し増やせねえか」
「今、週五だろうよ」
「だから、一日の時間をさ」
「そしたら前田さんの分、減っちゃうだろう」
「いいじゃん。あのおばさん、好き勝手ばかりやってさ、いい加減解雇しちゃえよ」
「そういうわけにはいかねえよ」
「何で?」
「ウチの親戚だもん」
「それがどうしたっての。みんな言ってるぞ。『あの人とシフト入って、レジ点検うまくいったためし無い』って」
「別に不正してるわけじゃないだろ」
「『文句も人一番多い』って。この前の高校生の時もそうだったろう。散々あの人にイジメられてさ」
「性分だもん、しょうがないだろうよ」
健至はそこまで聞いて、あからさまなため息をつく。
「もう少し稼がせてくれよ、店長」
「でも、税金のことあるだろ?」
こんな時の瀬本は、子どもの頃の「マルオ」とちっとも変わっていない。その瀬本がズボンの後ろポケットから、タバコを取り出して健至にすすめる。
「禁煙中」
「ゴメン。でも何でそんなに金要んだ?前はそれで『十分やっていける』って言ってたじゃないか」
「今度見合いしなきゃいけなくなってさ」
「見合いか~。良かったじゃん。相手は?」
「遠い親戚、らしい」
健至は言う。そこで二人はお互いの顔を見て苦笑いする。
「こうやって俺たち、親戚に傅くハメになるんだな」
「違いない」
「受けるのか?」
「まだ会ってもない」
「写真は見たろうよ」
「それもまだ。それにさ、なあんか話に無理があってな」
「そうなんか?」
「とにかく支度やら何やらで金要んだ。今月だけでもいいよ」
「見合いか、いいな」
「どこが?」
「相手、いるべよ」
「は?」
「相手いるだけで、幸せだろうよ」
「親戚だぞ。さっきと矛盾してるぞ」
「しててもいいよ。俺なんかしがないコンビニ店長。二十四時間営業。ろくにデートもできやしねえもん」
「まあな」
「無理でも矛盾でも、ためしにやったがいいよ。見合い」
「でもなあ…」
「康べえは何てよ」
健至は瀬本を一瞥する。
「別に。関係ねえし」
「お前さ…」
「あ、もう休憩終わりだ。シフトの件頼むな、マルオ」
健至はそう言い、店内に戻りかけて
「お前もさ、呉服屋の満ちゃん、声掛けてみろよ」
言ってみた。
するとタバコを吸い込んでいた若いコンビニ店長は、その煙を健至に向けて吹く。
「だから、店長って呼べって」
3、『 亭主 』
三日に一度は墓参りに来ている。亭主が去ってからもう四年になる。もともと仲が悪い方ではなかったが、自分が相手にとって恋女房だったとは思わない。事実、数回亭主の浮気には泣かされた。でも不思議と自分から別れようとは思わなかった。女の意地とかではない。ただ子どもの為でもない。何故なんだろう?
亭主の墓石は随分薄汚れていた。と云うより周りに真新しい墓が増えたせいか。
「今度あれが見合いするよ、父ちゃん」
喋ってみて亭主の半分困ったような顔が浮かんできた。一人息子の幸先を喜んでいるのか、危ぶんでいるのか、分からない顔。正直長年一緒にいても、何を考えているのかはっきりしない人だった。息子がそれを受け継いでいると思いたくはないが、もう三十を半ばに差し掛かっても身を固める気配のないところをみると、血の濃さは母親でさえ計り知れないものなのかもしれない。そう思うと墓石を拭く手ぬぐいの動きも鈍くなる。
「此処いらへんで何とかなってもらわねえと、オラも死ぬに死ねねえさ」
自分への愚痴になった。
「あれ、フジさん。精が出るねえ」
声がしたので見ると、少し離れたところの小径に知り合いの女が立っていた。農作業の格好。
「ああ、もう日課になってるで。暇つぶしと変わらねえ」
「オジさんも喜んでるさ。死んでからも面倒見てもらって」
「そうだろか?」
「気持ち込めすぎて、骨病みしねえようにな」
「適当にやるさ」
そう応えると女は笑いながら去っていった。
気づくと汗が滲んでいた。今日は湿気ている。そろそろ家に帰ろう。箒道具をまとめると、墓の階段を後ろ向きに降りた。
「また来っから」最後に手を合わせて拝んだ。目を開けたとき、先ほど女がいたところに今度は若い女が立っているのが見えた。
「誰だ?」
向こうもこちらを見ている気がしたが、そのうち歩いて行ってしまった。
挨拶もなしじゃ、この辺の者じゃあるめえ…。
気にせずに家路に向かっていると、亭主の顔がまた蘇ってきた。
「まだまだそっちに行く気はねえよ」
言って空を見上げると、カラスが群れで戯れているのが見えた。
4、『 店先 』
「行って、きまーす」
小三の息子の声が元気よく家中に響いた。
「行ってらっしゃーい」
康子はそのもういないであろう小さな背中に伸びる声で言った。ちょっと前まで母親にくっついて離れなかったのが、今では学校から帰ってくるなり友達との待ち合わせに駆け出していく始末。よその家では既に学習塾やら習い事に掛け持ちまでさせているらしいが、康子にはその気持ちが理解できない。小さい時は小さいときにしか学べないことがあろうに…。
「康子さん、帳簿見なかった?」
品の良い銀髪で、細身の義母が奥から声を掛けてきた。
「ああ、私が付けて棚に締まっときましたよ。今月もトントンでした」
明るく返す。
「そう?」
義母も穏やかに言い、そのまま元来た方に背中を向けた。
義母に認知症が出始めたのは夫が亡くなってから一年が経とうとした頃。最初気がついたのは息子だった。長年家の玄関口で商ってきた駄菓子屋兼雑貨屋の仕事。その小さな異変を息子から聞いたとき、正直「まさか」と思った。夫のいない生活がようやく回り始めた矢先、心が程よく緩み始めた頃だった。
それから一年、医者とも相談しながら何とか店は続けさせたが、収入を口実にして店は閉めることにした。それでも義母の中では、今でも店をやっていた生活の生理が生きているらしい。時折玄関口で茫然と外を眺めていることがある。しかし康子はあえてそれを正そうとは思わない。むしろ良いではないか、と思う。人生の習慣。それはある意味その人そのもの。それを奪う権利は誰にもない。町主催の認知症家族向けの講演会で聞いた言葉。路頭に迷う気持ちだった心中に、ストンと落ちてきた。そうだ。何が起きたって慌てることはない。なるようにしかならないし、なるように出来ることをするしかない。康子が外に働きに出るようになったのはそれからすぐだった。
「お義母さん、今日の夕食何がいいですか?買い物行ってきますけど」
間があって奥から声がした。
「祐一はオムレツが好きだからねえ」
康子にはそれが亡き夫を指すのか、それとも息子との思い違いか、咄嗟には分からなかった。
「ああ、オムレツですか。久しぶりにいいですね」
「卵、あったかしら」
「今朝使っちゃったから買ってきます」
康子は手早く身支度すると、テーブルから軽自動車のキーを取った。せっかくの休みの日だ。たまには手の込んだ料理でも作ってみよう。そのままつっかけのサンダル履きで玄関に降りた。
「じゃ、ちょっと行ってきますね」
また少し間があって義母が返してきた。
「祐一、今日は早く帰っておいで。ご馳走だよ」
康子はそれには応えず、背中越しにゆっくり玄関の戸を閉めた。
5、『 徒競走 』
放課後の校庭脇で子どもたちがなにやら騒いでいる。教師の三田は廊下のサッシから目を凝らした。その集まりの中に茶色い塊が見える。
「迷い犬か?」
しばらくすると群れの一人がその塊に棒を刺そうとしているのが分かった。
「おいおい…」
仕方なく三田が声を掛けようとすると、突然それは群れを割って校庭内に走り出た。子どもたちは一瞬肝を冷やしこそしたろうが、すぐに嬌声を上げ、てんでバラバラに疾走するそれを追いかけ始めた。野犬だったら噛まれる危険もある。犬はフットボールのフォワードのように巧みなフットワークで子どもたちを次々とかわし、かえって彼らの興奮を増長させている。
「おーい、危ないから追いかけるのはやめなさーい。怪我するぞー」
言ってみて、その群れの中にある一人の児童を見つけた。田中颯斗(はやと)。三田の担任児童ではなかったが、職員室内では既に有名人だった。
「あれまあ」
三田は頭を掻きながら校庭に向かう。
一学期の半ば、まだ三十になったばかりの担任の女教師が校長室に呼ばれたのは、名目上は『クラス運営に関する指導』だった。しかし名目が立派な分、その内実にはひどく感情的な背景があるのは、ある程度年数のいった教師なら誰でも想像できる。
「昨日の国語の時間、児童を恫喝したらしいですよ」
そう耳打ちしたのは三田よりも五年先輩の教師だった。
「親がね、知り合い伝えに何やら言ってきたらしいですよ。校長もほら、今年初年度だから」
「はあ」
どこにでもその手の情報通はいる。それでも三田は曖昧な頷きを返した。
運動会が終わって、女教師はちらちら病欠するようになった。その穴埋めには教頭が入っていたが、今度は教頭の胃薬の量が目に見えて増えた。
「クラスというものは、ビーカーの中と同じで入ってくるもの次第で思わぬ変化を遂げますな」
普段寡黙な教頭が焼却炉のゴミを片付けながらそう言った時は、三田も思わず同情せざるをえなかった。
校庭まで出てくると犬はさっさとどこかに行ってしまった後だった。代わりに子どもたちの前にはこの辺では見かけない二十代半ばの女が立っていた。三田は教師の勘で小走りに駆け寄る。
「どうした?」
極めてニュートラルな導入。そこで三田は初めて女に気づいた振りをした。
「あ、こんにちは」
女はそれには応えなかった。
「こいつが俺らの邪魔すんだよ」
そう言ったのは田中颯斗。
「こら、大人の人にそんな言い方はないだろ」
三田はあえて女の方は見ずに注意する。「すみません。何か学校に御用の方ですか?」
「この子ら…」
「え?」消え入りそうな声に反応した。
「犬を…いじめてた」
女はほとんど無表情な中に目だけ幾分潤ませながら言った。三田は瞬間、あれと思った。女が見るからに普通ではない何かを醸し出していたからではなく、もっと個人的なものが三田の内部を揺らし始めたからだ。
「先生、この人、ヘンシツシャ?」脇にいた低学年の女の子が言った。
「こら。失礼だぞ」
たしなめながらも三田は女の顔から何かを読み取ろうとする。
「あの…」
「弱いものいじめは良くない。絶対に」
「ああ、そうですね。私から子どもたちには注意いたします」
「カッコつけんな、このバカ」
またもや田中颯斗だ。ここまで無神経だとかえって笑えてくる。でも女の手前そうは言ってもいられない。トラブルは避けなければならない。
「あの、他に御用がなければお引き取りいただきたいのですが。一応規則でして」
自分でもその杓子定規さに辟易しながら言う。
すると女は三田を一瞥すると、するっと背を向けて裏門の方へと歩き出す。ゆっくりとした足取り。10m。20m。よく見ると女は僅かながら片足を引き摺るように歩いている。その後ろ姿の遥か向こうに、さっきの茶色犬が地面を物色しながらうろついているのが見えた。
「先生。あの人、絶対ヘンジンだよね」
今度は別の子が言った。三田はそれには応えず、その子の頭を片手で鷲掴みにした。
「あいつも犬も、今度は絶対捕まえてリンチしてやるからな」
三田はそう言った田中颯斗を振り返ると
「でも、弱いものいじめは格好良くない」
きっぱりと言った。「さ、カバンはまだ教室だろ。みんな、先生と競争だ」
そう言って自分から駆け出した。三十代半ばの全速力。しばらくして背中越しに子どもたちの嬌声がついて来ているのが分かると、三田はようやくペースを落とした。
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