おかえり
山岸マロニィ
第1話
冬休みも残り少ないある日。
私は自室で留守番をしていた。
宿題は年末までに済ませたし、新年早々親戚回りを何件もこなしたのだから、今日くらいはグーダラしていても許されるだろうと、朝からベッドでスマホゲームに没頭していたのだが。
私の部屋は二階で、両親はほとんど一階で過ごしている。食事は一階のリビングに向かうが、それ以外、特に用がなければずっと二階にいる。だから、両親は用があると、階段の下から大声で私に呼びかけるのだ。
その日も、
「買い物に行ってくるから、留守番をよろしく」
と言われたのが一時間ほど前。もうすぐ昼だから、そろそろ帰ってきてもいい頃だ。
すると、階下で物音がし、同時に聞き慣れた母の声がした。
はっきりとは聞き取れなかったが、恐らく「ただいま、昼ごはんは〇〇よ」とでも言ったのだろうと、私は大きく返事をする。
「おかえり」
しかし、今はゲームから手が離せない。チーム戦だから、私が抜けると他の人の迷惑になってしまうから。
しかも、今のチームがめちゃくちゃ強い。熟練者が集まっていて、経験の浅い私が経験値稼ぎをするには最高なのだ。
勝ち抜き連戦にとことん付き合う。
そして連戦が終わったところでふと時計に目を向けると、一時を回っていた。
「……あれ?」
両親が帰宅してから、既に一時間以上経っている。昼食なんて、残り物か出来合いを買ってくるかカップ麺と相場が決まっている。その準備にこんなに時間がかかるわけがない。
そして、私はあることに気付いた――静かすぎる。
父が家にいる間は常にテレビがついている。昔人間の癖なのだろう。玄関を入るとすぐにリビングに行き、リモコンを手にするほどだ。
うちは建売住宅で壁が薄いから、階が違っても、何の番組を見ているのか分かるくらいなのに。
ところが、スマホを閉じ、じっと耳を澄ませても、家の中には何の音もしない。エアコンの送風音、時計の針が動く音、そして遠くで鳴っている救急車の音が窓ガラス越しに響く程度だ。
「…………」
不安になった私はベッドを出て、部屋の扉を開けた。廊下を覗き込むが、冷たい空気だけがある。廊下の先は階段だ。そろそろとそこに向かい階下に声を掛ける。
「パパ、ママ……」
白い壁紙に反響する声が心細さを増幅させ、たった二言なのに、その終わりは囁くような声色になっていた。
そして声は、階段の先の玄関ホールに吸い込まれるように消えた。
誰もいない。
私は混乱する。
なら、先程私が返事をしたのは誰なのか?
もしかして、両親が出かける際に施錠を忘れていて、不審者が侵入したのでは……!
私は急いで部屋に戻ると、部活で使うテニスのラケットを手にし、再び階段へ向かった。足音を立てないよう、そろそろと階下に向かう。
階段の先は玄関ホール。正月飾りのつもりだろう、いつもより派手なフラワーアレンジメントが置いてある。
しかし、両親の靴はない。私の通学用スニーカーとお出かけ用ブーツが、靴箱に向き合うように並んでいるだけだ。
玄関扉の鍵も締まっている。おまけに白い玄関マットに不審な足跡もない。
これはどういうことだ……と、私は混乱した頭で必死に考えた。
近頃、物騒なニュースが多い。闇バイトだの空き巣だのと、連日嫌な事件が各地で起こっている。しかし、そんな不届き者がご丁寧に玄関の鍵をして物色するだろうか? ミステリードラマで見た限り、すぐに逃げられるよう、玄関の鍵はしないのが鉄則らしいのに。それに、先程返事をしてから一時間も経過している。もし泥棒なら、とっくに仕事を済ませて出て行っているだろう。なら、どうやって外から鍵を締めたのか?
――もしかして、未だどこかに潜んで、じっとこちらの様子を窺っているのだろうか?
その場合、両親は――!
私はラケットを構えリビングに向かう。扉に耳を当て、何の気配もないことを確認してから、ラケットを突き出すように部屋に入る……が、やはり誰もいない。テレビの画面も真っ暗で、しんと静まり返っている。
キッチン、両親の寝室も同様だった。
ならば、一度買い物から戻った両親が、再び出かけたのだろうか? しかし、両親は出かける時必ず私に声を掛ける。玄関のすぐ横が階段だから、忘れることもない。
この状況は、一体?
正月ボケで鈍った脳をフル回転させるが、答えには辿り着けない。
ならば体を動かすしかないと、一階をぐるぐると巡るが、やはり異常は見当たらない。
日常から、両親だけがすっぽりと抜けた家。
時計の針は一時半。
心細さが頂点に達した私は、思わず家を飛び出した。
もしかしたら、世界が私だけを置いてけぼりにして滅びてしまったんじゃないか。そんなとりとめのないことまで頭に浮かんで、全身の血の気が引く思いだ。
ところが。
玄関を出てすぐ、私は日常を取り戻した。
「何してるんだ?」
と、車庫から声を掛けてきたのは父だった。後部座席のドアを開いて、買い物袋に手を伸ばそうとしている。
急激な安堵感が私を襲う。それと同時に、先程までの強い緊張が大きな反発を生み出したのだろう、湧き出した怒りに任せて声を荒らげた。
「一回戻ってきてまた出かけるんなら、声を掛けてよ」
「何言ってるの?」
返事をしたのは、助手席から出てきた母だ。
「初売りセールでスーパーが大混雑してて、レジ待ちの行列に三十分、駐車場から出る渋滞に一時間もかかったのよ」
「…………え?」
気勢を削がれた私は、口をポカンと開いて母を見た。
「お昼、遅くなってごめんね。お弁当を買ってきたから、運ぶの手伝って……って、ラケットなんか持ってどうしたの? それに、靴くらい履きなさいよ」
その時初めて、私がどれだけ混乱していたかを思い知った。途端に恥ずかしくなり、私はカッと赤くなった顔を伏せて、
「な、何でもないし」
と吐き捨て、玄関に戻った。
すると、先に荷物を運んでいた父が、不思議そうな顔をして立っていた。
「友達が来てるんじゃないのか?」
「え?」
「さっき、二階の窓から誰かが覗いてるのが見えたぞ。ちょうどおまえが玄関から出てきた時」
リビングでそそくさと弁当を食べ、二階に戻ろうとして、階段を上る私の足取りは重くなった。
――父が見たのは、何なのか?
いや、私が昼前に聞いた母らしき声もだ。聞き慣れた声だ、聞き間違いとは思えない。
「おかえり」
あやふやに答えたその一言で、私は何を招いてしまったのか。
自室の扉の前に立つ。ドアノブに手を伸ばすのに、時間が必要だった。
指先が震えるのは、床から這い寄る廊下の冷気のせい……ばかりだろうか。
このままでは風邪を引く――その段になって、私はようやく手を動かした。
金属の冷たさを握り締め、ゆっくりと回す。金具が動く手応えを掌に感じてから、私はそっと、そっと扉を引いた。
扉の正面は窓。
その下にベッドがある。
そこにいる、それは言った。
「お か え り」
それからというもの、それは私が帰る度に私を迎える。
「おかえり」
神様だろうか、それとも妖怪だろうか。
正月過ぎにやって来たそれは、「おかえり」と言う以外は何もしない。
ただ、真っ黒な顔に開いた真っ暗な口をニッと開き、私にだけ言うのだ。
「おかえり」
おかえり 山岸マロニィ @maroney
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