第2話

 魔霧の森へは、踏み入るべからず。

 近くに住む者は皆、口を揃えてそう忠告する。


 深い霧のベールは常時森を包み、視界を覆い隠す。森の生き物達は侵入者を拒み、迂闊に足を踏み入れれば、延々と迷う羽目になる。森の警告を無視して無理やり深部へ突入しようものなら、霧に紛れた化け物が、獲物に牙を立てるだろう。森に充満する魔力は他の場所と比べて濃く、道を切り開かんとする魔術など容易く狂わせる。


 加えて、地面にぽっかりと空いた、幾つもの深い亀裂。視界の悪い森の中に点在する崖には、当然橋などかかっていない。いっそ崖下の方が安全かと言うと、そうでもない。自然の洞穴や抜け道が数えきれないほどあり、蜘蛛の巣の如く入り組んでいるからだ。


 そんな厄介な場所を二人が進み続けていられるのは、決して運に頼っているからではない。ユーフェが、森を含めた近域の詳細な地図を持っていたからだ。


「どうだ、これなら追っ手なんて簡単に撒けるぞ」


 ふふんと胸を張って、彼は地図を見せびらかしてくる。洞窟のお陰で寝床には困らなかったし、穴を通り抜けて別の道に逸れる事もできた。洞窟の殆どが地図に網羅されていたため、迷う心配もない。一部の者からすれば、貴重な情報が大量に記されたそれは垂涎の的だろう。


 ただし、一つ問題があった。


「この地図、町の場所は載ってないの?」


 やけに古く黄ばんだ羊皮紙には、人里が一切記されていなかった。それに、所々記された地名の表記も、現在使われていないものがちらほら乗っている。指摘されて、ユーフェはむっと口を尖らせ、別にいいだろとぶっきらぼうに答えた。


「そんな情報、必要ないだろ」


 必要だと思うけど、と言いかけてやめた。きっと、形の整った眉が増々険しくなってしまうだろうから。代わりに、地図のとある道筋を指でなぞった。


「森を抜けるなら、この道がいいと思う。人目を避けるならそっちは整備された街道が近いから、やめた方がいいよ。それにこっちは大きな街が……」

「お前が指図するな」


 言い終える前に拒絶された。どうやらすっかり機嫌が悪くなったらしい。これではシアンの提案を受け入れてくれるかは怪しい所だ。むすっとした顔で、彼は洞穴の外へ通じる道の一つを指し示してきた。


「ほら、そろそろ食料を調達するぞ。お前は、そっちの川で釣って来い」

「……分かった」


 シアンは大人しく頷いて、従う事にした。殆ど痛まなくなった足を動かして、洞窟を抜けた先の川辺へと向かう。


「……このまま二人旅なんて、うまくいくのかな」


 釣りの準備をしながら、シアンはぼんやりと呟く。不安をかき消すように頭を軽く振り、疲れを色濃く滲ませた少女が映る水面へと、無造作に釣り絵を投げ込んだ。



***



「おい、起きろ。こんな所で呑気に寝るなよな」


 自分を呼ぶ声に、シアンはびくりと身体を震わせて覚醒した。重たい瞼を何度も動かして、呆れを籠めた眼差しでこちらを睨む少年を見つめる。ユーフェは彼女の釣り上げた二つの魚影を確認してから、ふんと鼻で笑った。


「相変わらずろくに釣れてないじゃないか。へったくそ。もっとやる気出せよ」

「……ごめんなさい」


 何匹釣れても、彼の方がいつも沢山魚を獲っていた。こうやってなじられるのも、毎回の事だ。そこまで非難しなくても、という気持ちもなくはないが、事実だから仕方ない。役立たずと切り捨てられないだけマシなのだから、と素直に謝る。異国めいた服の裾から一滴雫が落ちたのには気付かないふりをして、シアンは黙って彼の後ろに付き従って歩いた。


 洞穴の中と外が同じくらい暗くなった頃。明かり代わりの焚火を前に、二人で食事の準備を行う。魚を枝に突き刺している途中、突然洞穴の中で大きな鳴き声が響き渡った。音の大きさに顔を顰め、音の出現先であろう、外に繋がる穴をちらりと見る。声はもう何度か反響し、そして静かになった。


 静寂を取り戻し、ほっと安堵の息をつく。シアンが警戒していた一方で、ユーフェは耳を傾ける素振りすら見せず、食事を続けていた。


 最初に謎の鳴き声を聞いた時から、彼は動揺も怯えもしなかった。自分たちは襲われない、とやけに自信満々に告げたのを覚えている。あの地図といい、彼はこの森に熟知しているのだろう。今も、危険な化け物の生息域を避ける抜け道を進んでいるのかもしれない。そう考えると、やはり地図の進路について口を出すべきではなかったのだろうか。


「お前さあ、なんか言いたい事ないのか?」


 何を言われても、大人しく頷く。自分からは滅多に発言しない、寡黙な旅の相方にとうとう嫌気がさしたのか、ユーフェはそんな事を聞いてきた。


「ひ弱だし、食料調達も下手だし、黙って頷くばっかりだし。僕ばかりが働いているじゃないか、この役立たず」

「そうね。ごめんなさい」


 罵倒に眉をぴくりとも動かさず、ただ謝る。意見すると嫌がるのはそっちじゃないの、とは言い返さなかった。波風を立てたくなかったからだ。ユーフェという少年は、神秘的で儚い見た目とは裏腹に、すぐ機嫌を損ねるし、口も悪かった。態度も大きく、時折こちらを見下すようなそぶりも見せた。


 敬って欲しいわけではない。命令されるのだって、慣れている。だから、腹が立つとか我慢ならないとか、そういう気分には一切ならなかった。


 まあ、こちらが何もしていないと責められるのは、理不尽だとは思ったが。意見を挟んでも聞き入れないのは向こうだし、魚だって少しは釣れている。今だって、焼け具合を慎重に確認しているのは自分の方だ。油を滴らせた魚を刺した枝を一本取り、どうぞと彼に渡すと、そうじゃないと不満そうに受け取られた。


「僕より働けって言いたいんじゃなくて、……一応、対等な協力関係にあるわけだからな。何か言いたい事とか、聞きたい事があるなら、少し位は答えてやってもいい。黙って付いて来るだけなんて、気味が悪いだろ」


 つまり、シアンとお喋りがしたい、という意味だろうか。その一言を伝えるのに、随分と回りくどいというか、やけに意地悪な言葉も紛れてしまっているというか。


「……お前、いつも無表情だし、大人しすぎて、何考えてるか全然分からないよ」


 最後にそう付け加えて、彼は魚を食べだした。あとはこちらからの発言を待つ、という態度の表れだろうか。食事の様子をぼんやりと眺めつつ、シアンはどう返せばいいか、ゆっくりと思いを巡らせた。


 一番聞きたかった事は、最初に拒絶された。旅の道筋について今更話を蒸し返しても、やはり気を害するだけだろう。考えた末、二番目に聞きたかった事を口に出してみた。


「空の果てって、どんなところ?」

「知らない」


 あまりに簡潔で、にべもない返答であった。彼が嘘を付いているようにも見えず、シアンは一旦口を閉じてから開き直した。


「どうして空の果てに行きたいの?」

「何があるか、知るために行くんだよ」

「知らないのに、行きたいの?」

「知らないから、行くんだよ」


 冒険心が、彼を未知へと駆り立てているのだろうか。その割に、呟く横顔は苛立ちや鬱屈を抱えているように見えた。


「どうやって、空の果てに行くの?」

「……い、色々と準備するんだよ。計画はある」

「どんな計画なの? 空の上に行き過ぎると息ができなくなるし、寒くて凍ってしまうのに、どうするつもりなの?」

「…………」


 答えたくない内容だったのか、会話が途切れる。ユーフェは気まずそうに枝をつつき、ほらと魚を一匹手渡してきた。


「空の果てに行くのは僕一人だから、知らなくていい。お前は、僕がそこへ辿り着く直前まで同行すればいいんだ。その後は、勝手にしろよ」

「……分かった」


 シアンは頷き、貰った魚を齧る。表面に黒い焦げがつき過ぎていたが、折角くれたのだからと、大人しく全部食べることにした。


「それで、お前はなんで逃げていたんだ」


 苦みを我慢して咀嚼する口を止め、魚から焚火の向こう側へ視線をずらす。警戒を宿した金の瞳が、炎にぎろりと照らされていた。本題は、これだったのだろう。首元のチョーカーを撫でて、シアンは俯く。


「自由に、なりたかったから」


 小さくもしっかりと響いた返答に、ユーフェは一瞬目を見開いた。瞼を伏せ、同じく小さな声音でぽつりと呟く。


「……僕と同じだ」


 それはどういう意味なのか。少しばかり疑問が首をもたげた所で、ほらと更に魚を差し出された。今度の魚は、黒焦げの部分が更に増えていた。表情を見るに、わざとではなくて善意らしい。


「もっと食べろよ」

「う、ううん。これだけで十分だよ」

「お前、少食だな。だからひ弱なんだぞ」


 ユーフェは呆れた眼差しを向けてきてから、焼けすぎた魚をもぐもぐと噛み砕いた。あまり味を気にしない性質なのだろうか。儚い印象から遠ざかるばかりの行動を前にして、やはりうまくやっていけるだろうかと、シアンは彼に気付かれないように小さくため息をついた。


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