月の竜と空の少女
蜜柑箱
1章
第1話
はじめに、大地から暁光の女神が生まれました。暁光の女神は、明るい太陽の下で大地に住む人間を創り、平和で豊かな暮らしを与えました。
けれどある日、常闇の女神が真っ黒な空の果てから現れ、空を飛ぶ化け物──竜を創りました。竜は宵闇に紛れて人々に襲い掛かり、破壊の限りを尽くしました。
それを嘆き悲しんだ暁光の女神は、常闇の女神に戦いを挑みました。沢山の生き物が死にゆく中、暁光の女神の意志に心を打たれ、いつしか竜の一部は人を守るようになりました。
長い争いの末に常闇の女神は負け、月へと逃げてゆきました。暁光の女神は、味方になってくれた化け物達を祝福の光で照らし、人の姿を与えました。
こうしてこの大地には、人間と竜人が暮らすようになったのです。
***
幼い頃は、鳥になりたかった。翼を広げて、空を自在に飛び回る自由な存在に。
そして現在、シアンは鳥になれたらいいのにと強く願っていた。そうすれば、ここから簡単に逃げおおせてしまえるのに、と。
「追え! 絶対に逃がすな!」
怒鳴り声が届くほどの距離に追っ手が迫っていて、シアンは思わず振り返った。夜の森は霧も出ていて視界が悪く、声の主はおろか、自分の姿すら闇に同化している。分厚い雲は月を覆い隠しており、自らを隠してくれる代わりに、歩ける場所を確認するのも困難になっていた。
声がしたらしき方向から、ふと光を感じた。光源を持った者達が集まってきているのだ。
「魔術師共の……追跡魔術は……」
「霧が……魔力が濃すぎて、困難……」
途切れ途切れの声から距離を取るべく、また走り出す。暗闇は、物音までは隠してくれない。枝葉が擦れ、普通の街娘らしい服が──ショールやスカート、ブラウス等の布地がことのほか大きく悲鳴を上げたのか、或いは小枝のような音の響く何かを踏んでしまったのか。あっちだ、という怒声がこちらに向けて上がった。
怒声から逃げるべく、がむしゃらに足を動かす。長い青髪がゆらゆらと頬を叩いてきて、ただでさえ視界が悪いのに鬱陶しい。不快感と痛みを我慢し続けて動かしていた足が、突如開けた視界と共に止まる。霧をかき消す、風の唸り声。ぶつりと途絶えた大地。目の前に、大きな崖が口を開けていた。淵に立って、ぐっと前方を睨みつける。向こう側までは、とても飛び越えられる距離ではないと思った。
首元を飾るチョーカーに触れ、小さくため息をつく。鳥になれたら。そうでなくとも、もっと身軽に大地を駆け回れる動物であれば、或いは届いたかもしれない。騒ぎ立てる侵入者を厭うように、生き物の気配は森の奥へ隠れ潜んでいるらしかった。
崖下は黒く塗りつぶされていて、どれ程の深さがあるか得体が知れない。微かに水の音がするから、川が流れているのだろうか。運よく水の中に落ちれば、命拾いする可能性はある。どこが壁面でどこから水かも見えない状況で、上手く入水できるなら、だが。
後方からの気配と足音に、びくりと振り返る。考える猶予は残されていなかった。
逃げなければ、と無意識に後ずさる。淵の一歩向こうには、地面がなかった。
バランスを崩して、急速に反転する視界。無意識に伸ばした手は、何を掴むこともなくただ空を切る。
暗闇に飲み込まれ、意識が途切れるその前に。ふと、分厚い雲の切れ目から、金色の光が姿を現す。淡い明かりに晒され、束の間崖下が露になった。その時目に映ったのは、川の流れでも、むき出しの岩肌でもなかった。
蝙蝠に似た形の、より一層強靭で大きな両翼。
爬虫類に近いと形容するのが憚られる、厳めしい体躯。
空に浮かぶそれと同じ色をした、二つの瞳。
銀色の光を反射する、体を覆う鱗。
それがあまりにも大きくて、綺麗だったから。
月に食べられる、と思った。
***
焚火が爆ぜる音で、シアンは目を覚ました。遅れて、身体中を苛む鈍痛と寒さに気付く。小さな炎が、薄暗くごつごつとした岩肌を照らしている。遠くで聞こえる水音といい、どうやらここは川の近くの洞窟らしい。痛む体を無理やり起き上がらせると、濡れた身体を覆っていた毛皮がずり落ちた。
「──ふうん。目玉も青いんだな」
幼さの残る、やや低い声が耳に届く。ぱちん、と小枝が音を立てる。見知らぬ少年が、火元からこちらを眺めていた。十五、六歳程だろうか、見た目はシアンと同年代位に見える。ただ、その容姿は普通の子供とは一線を画していた。
夜露を編み上げたような、美しい銀の短髪。炎に劣らぬ輝きを秘めた、金色の瞳。整った顔の造形も相まって、触れる事を許されぬ怜悧さを湛えているようにさえ感じる。それに彼の服も、ありふれた様式とは異なっていた。布で作られたらしいズボンは、腰から足首に下るにつれて緩く広がっている。同じく布製らしき上着に、胸元で紐を結んだ、袖口までやはりゆったりと広がった作りの羽織。造りとしては、遠い東の島国の伝統衣装が近い。この地域では滅多に目にする事のない物だ。
あまりに異質な存在。それとも、今の自分の方がこの場においては異端なのだろうか。先程意識を失う前に視界をよぎった姿を脳裏に描きつつ、シアンはそんな事を思った。
「あの、竜は?」
かすれた声で、とりあえず疑問を一つ、口にする。途端、少年がすぐさま表情を険しいものに変えた。聞かれたくない、という風に。
「お前、崖から落ちて来たよな。上の方じゃ、胡散臭い奴らがやけにうろついてる。誰かを探してるみたいにな」
言外に問いただされていると察し、口ごもる。聞かれたくない、ことだったから。
シアンの反応に、予想通りとばかりに少年はにやりと笑った。
「僕は親切にも、犯罪者かもしれない女を助けてやったんだぞ。感謝の言葉もないなんて、お前は随分恩知らずなガキだな」
同年代らしい相手からガキ呼ばわりされ、シアンは呆気にとられた。確かにそうだと内心で素直に同意する。捕まえられて上の連中に渡されないだけでも僥倖だ。そればかりか、落ちてきた自分の世話までしてくれたのだ。命の恩人と言ってもいい。
「助けてくれて、ありがとう」
捻挫して腫れ上がった足を叱咤し、無理矢理立ち上がる。幸いにして、服のほつれはマントで誤魔化せそうな範疇だ。首のチョーカーも傷一つない。痛みを誤魔化して去ろうとするのを見て、少年は眉を跳ね上げた。
「おい、どこに行く気だ?」
「……行く当てはないわ。ただ、ここにいたら、貴方も厄介事に巻き込まれるから」
自分が逃げるために、他人を犠牲にする気はなかったし、迷惑をかけるのも気が引けた。ずるずると足を引き摺って洞窟を出ようとしたところで、何かにつまずいた。シアンはあっさり転び、無様にも身体を固い地面に打ち付ける。その衝撃で、落下時にできた傷が身体のあちこちから悲鳴を上げた。自覚していた以上に重傷らしいと、ようやく気付いた。
生理的な涙を滲ませ、緩慢に視線を動かす。わざと突き出してきた意地悪な足を睨みつけると、鼻で笑う声が響いた。
「怪我人の癖に、そんな体たらくで逃げるつもりなのか? お前、ひ弱なだけじゃなくて馬鹿なんだな」
転ばせておいて、随分酷い物言いである。けれど、自分が走れる状態ですらないのは事実だったので、シアンは反論もせず、のろのろと起き上がった。どうにか座り直した所で、少年も焚火の近くへ腰を下ろす。そうして、炎を見つめながら、彼は口を開き直した。
「なあ、僕と取引しないか」
「取引?」
「お前、上の連中から逃げてるんだろ。僕がそれを助ける代わりに、お前は僕の旅に同行して、色々手伝えよ。対等な取引だろ」
何を要求され、手伝わされるのか。悩む時間は、短かった。元より目的地のない逃亡だ。追っ手に捕まるよりは、彼を利用して逃げる方がマシかもしれない。それに、仮に取引を反故にされても、あの連中よりは逃げやすそうだ。
「シアンって呼んで。この先同行するなら名前くらい知っていた方が便利でしょう」
了承の意も含めて名乗ると、炎を睨んでいた金色の瞳が揺れ動き、じっとこちらを見据えてくる。まるで、値踏みでもするように。
「……僕は、ユーフェ」
その名前は、やはりどこか、遠い異国の響きがあった。異邦人らしき少年は、白魚のような指を伸ばして地面から何かを掬いあげる。先程までシアンにかけられていた、古びた皮の毛布であった。軽く汚れを払うと、顔面目掛けて投げつけてくる。
「崖上から下まで降りる道なんてないから、お前の追っ手も暫く来ないだろ。僕の旅について行くなら、とっとと休んで回復しろ」
つまり、安心して休めばいいと言ってくれているのだろう、とシアンは解釈した。ありがとうと今一度礼を言うと、感謝される事なんてしてないと、そっぽを向かれた。どうやら素直ではないらしい。
「貴方の旅の目的地について、聞いてもいい?」
身体を横たえさせる前に、疑問を口に出す。目的地次第では、途中で別れた方がいいかもしれないと思ったからだ。答える前に、彼は小枝を焚火へ幾度も放り込んだ。炎に照らされた横顔は、迷うように揺れている。ひと際大きく炎が爆ぜ、ようやく重たそうに口を開く。
「空の果てだ」
それは、鳥の翼でさえ辿り着けない、果てしなく遠いどこかであった。
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