顔のない男
01
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。絶対に見たら一瞬でわかるからぁ」
怪しすぎる笑顔で手を振られ、ものすごく訝しみつつ指定された駅に辿り着いた私は、先ほどの怪しすぎる雇用主の発言の意味を知ることとなった。
ちょっとダブルブッキングしちゃってさぁ、申し訳ないけどこまどちゃん、ぼくの代わりに内見行ってくんない?
と、唐突に家政婦以外の仕事を吹っ掛けられたのは、今朝のことだ。
私は他にバイトもしていないし、学業もそれほど忙しくない。サークル活動に至ってはほとんど幽霊部員である。要するに大変暇なわけで、それならお金を稼いだ方がいいかな……ほしい本もあるし……というわけで、土曜の朝から自炊のできない成人男性の為にご飯を作っていたのだが。
字面だけ見ると、なんだか青春っぽい響きがある。
ご飯づくりのバイト、一人暮らしの異性の家、土曜の朝から押しかけ家政婦……でも実際の私たちには、なんというかそういう、男女のときめきのようなものは皆無だった。
うーんと年下の子とどうこうなるつもりはない、というのが私の雇用主である荊禍栖さんの口癖だ。勿論私だって、年中よれよれのスウェットを着ている不健康そうな霊能者にときめいたりはしない。
私たちはそういう意味では良い関係を築いているのかもしれない――が、やっぱり朝イチで唐突に契約外の仕事を押し付けてくるのはどうかと思う。
栖さん(荊禍さん、と呼んでいたが下の名前の方が間違えないから、というよくわからない理由を告げられたので、私は彼をこう呼ぶことにした)に指定された駅には、すでに目的の人が待ち構えていた。
行けばわかる。そんな無茶な指定も、その人を一目見て納得する。
土曜の真昼間、それなりに混雑している駅のド真ん前で、その人はぴっしりとしたスーツの上に上着を羽織り、そして――。
――顔に、白い紙を張り付けていた。
A4サイズくらいの、額から顎まですっぽりと隠れてしまう大きさの紙だ。
仮面や頭巾の代わりなのだろうか。眉から目鼻、勿論口まで一切の表情が隠れてしまっている。背格好や髪型で、おそらくは男性だ、ということしかわからない。
どう見ても異質な人。
それなのに、周りの人たちは当たり前のように彼を無視して通り過ぎる。『都心特有の無関心さ』だけで説明するには、無理がある。おそらくは、私以外の人間には、彼の顔の紙は見えていないのだろう。
紙の人は、恐る恐る近づく私に気が付くと、パッと顔をこちらに向けて、きっちりときれいなお辞儀をした。
「失礼ですが、『こまどちゃん』さんですか?」
私の名前は古嵜円凪だが、栖さんは私のフルネームを覚えるどころか聞こうともしない。
こまどちゃん、というのは彼が私を呼ぶ時限定のあだ名だったので、やはり紙の人は栖さんのお知り合いで間違いないようだ。
「あ、はい。初めまして、栖さんの代理を仰せつかりました。古嵜です」
「これはどうもご丁寧に。私、荊禍さんに長期的にお仕事をご依頼しております、シノミツと申します。ここは少し寒いので、詳しい話はまた後程。とりあえず移動しましょう」
……とても普通だ。
言葉遣いも、態度も、さらりとしていて気持ちいい。栖さんの知り合いならばきっと変な人が出てくるはずだ、と身構えていたものの、顔に白紙を張り付けていること以外は驚くほどきちんとした人だった。
いや、顔に白紙を張り付けているのが、一番ダメなのだけれど。でもあまりにも普通に挨拶をしてくるから、その顔の紙は何ですか? などと聞くタイミングを完全に逃してしまった。
五分ほど歩きますので、とエスコートしてくれるシノミツさんは、私の少し前を歩きながらもきちんと気を使って話かけてくれる。私はまだ、大層な社会経験もないけれど、きっとこの人はとても優しい部類の大人なのだろうな、と思う。
「古嵜さんは、家事代行サービスの方ではないんですね。失礼ですが、随分とお若いようにお見受けしますが……」
「大学生です。栖さんのところにはええと、バイト勧誘を受けたというか、……縁があって、というか」
「ああ。脅迫されたんですかね」
「…………もしかして、頻繁に他人を脅迫するような人なんでしょうか」
「いえいえ。あの人はなんというか、他人の機微を感じとったり、空気を読んだり段階を踏んだりしませんから。めったにない事ですが、何か所望する際は相手の都合など考えずにシンプルに要望を口にしますね。まあ、はたから見れば脅迫ですけどね。はは」
「シノミツさんは、その……栖さんとは、長いお付き合いなんですか?」
「そうですね。彼の担当になってから、そろそろ五年になるかと思います」
担当、とシノミツさんは言った。それは一体、何を意味する言葉なのか。私はそれを、訊いてもいいのだろうか。そんなことを考えている間に、私たちは目的地に近づいてしまったらしい。
着いた、と表現しなかったのは、おそらくまだここは最終地点ではないと判断したからだ。
目の前にあるものは、家でもアパートでもなく、橋だった。
といっても、あまり立派なものではない。住宅街にひっそりと紛れ込むような、用水路にかかった橋。注意して見なければ、ただの道にしか見えないような橋。
その手前で、私は足を止めた。
ああ、うん。……嫌だな、私は、この感覚に覚えがある。
この先に行きたくない。
これは、初めて栖さんのアパートを訪れた時と、同じ悪寒だ。
足を止めた私に気が付き、橋の半ばあたりでシノミツさんが振り返る。
紙のせいで表情は見えないけれど、おや、と首を傾げたことは分かる。
「……ああ、なるほど。古嵜さんは、むしろ霊感がすさまじい方の人間なのですね。私はてっきり、そういうものと縁がない方を選んだのだとばかり。確かに、自衛できる方が、荊禍さんの助手には向いています」
「助手、ではなく、家政婦バイト、なんですけど……。あの、この先、何があるんですか? ていうか私そういえば、『内見してきて』としか言われてないんですが……」
「え。それは失礼しました! うっかり荊禍さんが説明しているものだとばかり――いえ、よく考えればあの方はそういう面倒なことはすべて放り投げますね!」
「はぁ。投げます。投げちゃうから、私は何も知らないんです」
「それでは少々説明しましょう。私がご案内する物件は、次の荊禍さんの住居となる予定の借家です。本日は下見、というよりも道案内の意味を込めて内見という形を取りました。家具等も見ていただきたいですし、荊禍さんはなんというか……とても独特な地図の読み方をしますから、実際に同行しないと、目当ての物件にも辿り着いていただけないもので」
「はぁ。今日案内していただいた物件に、後日私が、栖さんを連れていくわけですね」
「仰るとおりです。二度手間ではありますが、今日以外で時間が取れなかったもので」
栖さんが、住む予定の部屋。
それはつまり、呪われ代行屋を住まわせるべき部屋ということだろうか。ということは――。
「事故物件、とか、ですか?」
「いえいえ。実はそう簡単な場所でもないのです。曰くがある、という点については勿論その通りなのですが……この橋を、渡れませんか?」
「……がんばります。ちょっと、吐きそうなだけなので」
「素晴らしい、感心すべき若者です。珍しく人を雇った、などと言うものですからどんな頓珍漢な人間が出てくることやら、と思っていましたが、なんと素晴らしい女性でしょうか。微力ながらお手伝いをさせてください。どうぞ左手を」
促され、私は素直に左手を差し出す。シノミツさんはスーツの内ポケットをごそごそと探ると、小さな巾着のようなものを取り出した。
「我が舎に伝わる、お守りのようなものです。握っている間は、しばらくは障りがマシになるでしょう。しかしこれは、左手で握らねばなりません。左右を決して間違えないように。いいですね? ……どうですか、少しくらいは楽になったでしょうか」
「ああ、はい……息が、ぐっと楽になりました。これならなんとか、歩けそうです」
「何よりです。これから更に穢れた場所に行きますので、どうぞ無理をせずに、ダメならばダメと仰ってくださいね」
とても優しい言葉をかけてくれるのに、その内容がえぐすぎて全然うれしいと思えない。
更に穢れた場所。その言い方がもう、よくない。怖い場所、汚い場所。そういう風に言われた方が、マシだと思う。
気を取り直したように進むシノミツさんに、どうにか深呼吸をしながら付いていく。その先には、驚くほどに古い、廃墟と見まがうばかりのアパートが建っていた。
うわぁ、と、思わず口から息が零れる。
古い上に、そのアパートの二階の奥の部屋は、どう見ても火事で焼けた跡があった。黒くすすけた壁の中央にかろうじて残っている錆びたドアには、べたべたと封印するようにガムテープが貼ってある。一見してやばい、と思える物件だ。
「……まさか、あの部屋じゃ、……」
唖然としている私を階段に促しながら、シノミツさんはかすかに笑った気配がする。
「いえまさか。あそこはさすがにどうかと思います、ええ、ええ、部屋としての体を成していませんからね。いくら私どもでも、荊禍栖にあそこに住めとはさすがに申しません。この度の引っ越し先はその隣のお部屋です」
「ええー…………?」
十分人でなしな依頼じゃないかと思うのだけれど。
確かに奥の真っ黒に焼けただれた部屋は、一部屋根も崩れていて部屋というより廃墟に見える。けれど、他の部屋だって廃墟か否かと問われたら、断然廃墟寄りだ。寄り、というか、廃墟だ。宇多川さんあたりに写真を見せたら『廃墟じゃんうける』と言われてしまうと思うくらいには廃墟だ。
……え、ここに住むの? うそでしょ? いや私が住むわけじゃないけど、でも私は通いの家政婦バイトなので結局ここに通うことになるわけで。
うそでしょ、と口にだして抗議する前に、シノミツさんの携帯電話が陽気な音を鳴らした。大学内で誰かがたまに流している、流行の男性グループの曲だ。シノミツさんはもしかしたら、私が思っているよりもずっとお若いのかもしれない。
「すいません、ちょっと失礼。……ああ、鍵は私が開けますので、少しだけお待ちください」
そう断って、彼はあわただしく携帯を耳に当てながら、今ほど駆け上がってきた外付けの階段を下りていく。
……廃墟のような心霊アパートで、ひとりきり。正直、あまり楽しい状況じゃない。
手持ち無沙汰だし、栖さんに着いた旨くらいは報告したほうがいいだろうか。
そう思い私も携帯を取り出そうとしたとき、ふと視界に違和感を覚えた。
……隣の、焼けた部屋の扉が開いている。
いや。いや、え、だって、え?
さっき、しっかり閉じていたじゃない。ガムテープまみれの扉が、音もなくうっすらと開いている。なんで? どうして? と思っているうちに、その中から何か黒い頭のようなものが、ぐうぅぅ、っと――。
「あらぁ、あなた、新しい人?」
見たらだめだ。そう思った時、唐突に声を掛けられて思わず飛び跳ね、そして反射で声の方――扉とは反対の方に顔を向けた。
そこに立っていたのは、何の変哲もない、とても普通の中年女性だ。普通の部屋着に、普通のサンダル。いまちょっと外に顔を出したと言わんばかりの恰好で、にこにこと歩み寄ってくる。
「ええ、はい……私、というか、私の知人が、この部屋に……」
「こんな廃墟みたいなアパートに越してくるなんて、物好きだねぇ。あたしね、下の階の住人なのよ。どうせなら一階に住めばいいのに、103号室が空いてるんだから」
空いている、ということは、他の部屋は埋まっているのだろうか。そんなに人気の物件なのか。でも、あえて安い事故物件に住む、というような話も聞く。案の定彼女は、こっそりと耳打ちするように『安いからねー、ここ』と囁く。
「二階はねぇ、ちょっと、変だから。気をつけなさいよ、あなたまだ若いし。引っ越しの時に、必要だったら声かけてね、あたし、104号室の安楽川だから」
じゃあね、よろしくね、と手を振り、嵐のような中年女性――安楽川さんは階段を下りて行った。
……なんだかインパクトのある人だ。でも、彼女のおかげで、隣の部屋から出てこようとしていた何かは、いつのまにか何事もなかったかのように引っ込み、扉もしっかりと閉まっていた。
しばらくその場で栖さんと今日のバイト代の交渉LINEをしていると、慌てたような足音と共にシノミツさんが駆け上がってきた。
「大変お待たせいたしました……! どうもこう、新人の教育が不得手で……いえ、私の仕事の愚痴など話している間に、古嵜さんのお身体が冷え切ってしまいますね! とりあえず中に入りましょう!」
「あ、いや、そんなに急がなくても……」
とはいえ、この場に長居もしたくない。私はあまり、隣の焼け焦げた部屋を視界に居れたくない。
仕方なく、急かされるままに私はその部屋……203号室に足を踏み入れた。
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