キセイ
透々実生
キセイ
「ありがとう。父さん、母さん。おれ、もうそろそろ東京に帰んなきゃ」
おれが立ち上がると、すかさず引き留めるように「あら、てっちゃん」と優しい声。
「もう少しお家でゆっくりしていけばいいのに。ねえ、お父さん」
そう言って視線を向けられると、「そうだぞ」と追随する様に答える。
「それに母さんの手料理もまだだろう。折角だ、食べていきなさい」
「本当に、そうしたいのはやまやまなんだけど……」頭を回す。言い訳を捻り出す。「明日の朝、会社の大事な商談があってさ。休めないんだよ。俺の代わりもいないし。あと、新幹線のチケットも取っちゃってるし」
「ならせめて、日本酒の一杯でも――」
「だから…………おれ、酒弱いって言ってるじゃん、父さん。それに、心配しなくてもまた帰って来るって。その時に飲もう。な?」
「…………そうか」渋々、と言った感じで引き下がる。「なら、気を付けて帰れよ」
「そうよ、最近変な人も多いんだし」
「大丈夫だよ。子供じゃないんだし」あはは、と笑う。それから、微笑む。「でも、ありがとう。気を付けて帰るとするよ」
「うん、そうしなさい」
「あ、そうだてっちゃん。これ持って帰りなさい。お母さん、おかず作ったから」
そう言って手渡された袋には、ポテトサラダと肉じゃが。綺麗にタッパーに詰められている。
「じゃがいもだらけじゃん。でも、ありがとう」おれは笑う。2人も笑う。
平穏だ。きわめて平穏。
これなら、大丈夫。
おれは自分にそう言い聞かせる。
「じゃあね」
「ええ。いつでも帰ってらっしゃい」
「そうだぞ。ここは、お前の家なんだから」
「うん」
外に出た。振り返ると、2人が薄く笑みを浮かべて手を振っている。
扉を閉める。
骨身に堪える寒さの中、歩く。街灯がチカチカと点滅する薄暗い住宅街を、極めて平静に、そして冷静に歩く。
歩いて、歩いて――2人の視線がなくなったと確信できた後で。
俺は走り始めた。
陽が沈みかかっている。空は焼け爛れたように真っ赤で、たなびく雲は
そんな空を見て、更に走るスピードを上げる。よく分からないが、きっと時間がないのだと――このままでは、間に合わなくなるのだと直感する。
走る。走り続ける。
走って。
走って、走って、走って。
突然、急に空が明るくなった。
先ほどまでの不気味な空の色が嘘だったかの様な、明るく解放感のある水色。
どころか、骨身に堪える寒さもどこへやら、灼熱の夏陽が肌をじりじり焼く。
喧しい蝉の鳴き声。ぬるりとした夏の風。その風に平和に揺られる、丈の高い稲草。
おれの故郷。
抜け出せたのだ――それが分かった途端、安堵のあまり地面にへたり込んだ。多少土汚れは付くが、構うものか。
何度か息を、吸って、吐いて。ようやく落ち着いた俺は、受け取った袋の中を見る。
ポテトサラダと、肉じゃが。
ではなく。
ただの泥と、挽き潰した虫と乾いた血のついた石が、タッパーに入っていた。即座に投げ捨てた。
きっと、出されかけた手料理も日本酒も、コレと似たようなものだったに違いない。
飲み食いしなくて良かった。
これを食べたらきっと、ここには戻れなかっただろう――何となく、そう思う。
きっと。
あの2人は、あちらのモノを食べたから、或いは夜になる前に抜け出せなかったから、ああなってしまったのだろう。
もっとも、あの2人は――
「大丈夫かぁ?」
そうやって考え込んでいたところに、突然声をかけられ、体を思わず震わせた。
恐る恐る顔を上げると、目の前に、しわがれた顔。
心配そうな目をした羽沼のじいさんが、おれの顔を覗き込んでいる。
「日射病かぁ? 水、飲むかぁ?」
「いえ……大丈夫です」
正直死ぬほど喉が渇いていた。
でも今は、他人から貰ったものに口をつける気にならなかった。あんなことが、あっては。
「そうかぁ? まあ、良いけどよ――気ぃ付けて帰れよ、てっちゃん」
「うん、ありがとう。羽沼のじっちゃん」
背を向けたままひらひら手を振りながら、のろのろと去ってゆくじいさんの後ろ姿を、遠くに見える家の中に入るまで、おれは眺めた。どうやら、本当に故郷に帰って来たらしい――改めて安堵がおれを包む。
「……帰るか」
そして冷蔵庫で冷やしたコーラでも飲もう――立ち上がり、尻についた土を払う。
それから、振り返った。
墓場があった。
当然、あのチカチカ光る電灯も、薄暗い街並みもなかった。
おれは、数年前に首を吊って死んだ両親の墓参りに来たはずだった。そして両親の墓は間違いなくそこにある……はずだ。
だというのに。
あそこに現れたのは――おれに幻覚を見せ、黄泉の国の食い物を食べさせようとしたのは、どう考えても両親ではなかった。
顔に欠損があったとか、何かおかしなところがあったとかではなく、まるきり別人なのだ。
両親を
あれは、誰だ?
炎昼の陽に灼かれる墓を見る。
俺は目を背け、踵を返した。
両親の墓参りのために再びあの墓場に戻る勇気は、今のおれにはない。
了
キセイ 透々実生 @skt_crt
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